ふと、生まれるオブジェ

この世界は、無限につきない不思議の世界そのもの! だからこそ、生命の生命たるエネルギーが満ち満ちている——絶対につかみきれない世界のすばらしさ! 〈 イマジネーションと表現のエネルギー 〉はそこから生まれてくる。…131億光年先の光をキャッチしたなどと巨大な宇宙のことをスゴイとひとはつい思ってしまう——努力と知の集積をもって切り開かれる世界にひとはほんとうによわい。
はかりしれぬ深遠につながる世界をこそ〈 宇宙 〉というのならば、人間をはじめとして個々の生き物たちこそが宇宙であると思う——そして、不思議な縁にであったときなど、その〈 生き物宇宙 〉が、相互に、そしてほかのあらゆるものと、なんらかの不可知のつながりをもっているのかも…などと想像したりもする。
 
ものごとを理解したり、ある目的にそってなにかを構築したり、そういう「世界を限定してかかわる時間」ばかりではなく、「世界にひたる時間」が大切なのではないか。 いそがしいと、そういう「宇宙にまるごとひたる時間」にであうチャンスがとおざかり、その特有の時間のゆたかさのことをついつい忘れてしまう。
 
視覚アートは、なんらかの機能を有するものをデザインする行為とはことなり、純粋に、自己にほんとうのところで正直に、「ゆらいでいるあいまい模糊とした内面」と「確かな視覚的表現」との混然一体を、生きることなのではないか。 既成のものをはなれ、いまこのときのまるごと宇宙に無心にひたり、いまこのときの外部時空としての表現体との渾然往還を生きる… 中間を動的に生きる…
多くのひとの心に共振をもたらす普遍性のあるアートにはそれこそいろいろあるし、もともとアートは視覚美という次元ではくくれない〈 存在性の力 〉そのものでもある。 だから、たとえば美術館で感動した作品があって、ならばそれを身近に置きたいかというとそうではないものがほとんど、ということにもなる。
 
避暑地でたまたま陶芸工房をみつける… そしてその土地の空気を呼吸して… では、なにか作ってみようか… 自分はいったいなにを生成するのだろうか?と、自分自身をあそぶような自分がいて… 結果、なにかが生まれる…
ここに掲載した作品の中には、たのまれてデザインした展覧会用の額台といったものもふくまれているが、多くは機能とは無関係に制作された純粋な内面表現のアートである。 しかもそれらは、ある意味で〈 視覚美 〉にこだわっている。