ペーパーによる顔の造形 | 二ノ宮裕子作品

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

 

〈省略〉 の抽象表現――

 

 

その典型的なもののひとつとしてクロッキーがおもいうかぶが

それは、描く素材としての対象がまず存在し

その本質的に不可欠なエッジあるいは境界のラインなどを

二次元性の紙の上に描く…

 

つまり、三次元的対象の複雑性の中に本質的な要素をとらえ

〈省略〉 をおこなうことの中に かえって 〈表現体強度〉 を実現する

「眼と手による協動行為」 である。

そこでは、描き手のフリーハンドの線の生命力が決定的な意味をもち

そして、モデルという実在の本質を 描き手の内面の眼で観ること

が前提された 対話的な創造行為 である。

 

 

ここでもし、手で 〈描く〉  ことをせずに

白紙に切り込みを入れてレベル差をつくったり、カットした紙片を合成する

などして、そこに生成する 〈光の陰影〉 のみで表現体をつくること

を考えてみたら どういうことになるか…

 

それは、現前の対象を 〈描く〉 のではなく

内面のイメージとの響きあいをとおしてチェックされてゆく

 〈構築〉 になるであろう。

 

 

 

 

先日 用事で立ちよったギャラリーで

彫刻家/デザイナーの 二ノ宮裕子 (hiroko ninomiya) さんが

展覧会のために作品を搬入されているところに遭遇した。

 

白い紙を用いた半立体の切紙作品の展覧会で、メインの展示は

企業機関誌の表紙のデザインのために20年にわたって制作してきた

「さまざまな幾何学的形体」 で構成された作品群で

あらかじめ写真に撮られるプロセスを想定してのデザイン作品であるが

さまざまな形の複雑な交響性が 〈ゆらぎ〉 になっていて

たのしい雰囲気の作品たちであった。

 

 

その氏の作品が

作品に当てられる光の角度がすこしでも変わると

表情が劇的に変わる…

紙の切り込みラインの両側の面のごくわずかなギャップが

こんなに!―― とおもわせるほどのくっきりとした陰影を

浮きあがらせている…

 

 

まさに 均質なまっ白な紙の面上における

「光の 〈まっすぐな性質〉 と 〈どこまでもなめらかなグラデーション〉 」

が生かされた それこそ シンプルにして繊細な作品たちであった。

 

 

 

 

 

ところでメインの展示とは別に、ひとの顔の作品があって

(→写真)   惹かれるものがあった…

 

 

表現効果が 描きながらその場で確認できるクロッキーなどとはことなり

制作している段階ではその見え方があるていどは想像できるものの

本当のところはライティング条件を設定するまでは予想がつかない

という 「向こうからくる豊かさ」 を秘めた作品である。

 

 

表現体の物質的マチエールではなく、平滑面の光の反射と陰影

によって浮きあがる この 「光を刻むアート」 は

表現体をクローズアップしてゆくときに 〈ディテールの味〉 が現れる

ことで作品が力をもつ通常の美的表現体とはことなっていて

作品に近づいてみても、光像を生成する単純な仕組みが

わかるだけである。

この作品は、ほどよい距離から眺めることで

その 「 〈繊細なシャープさ〉 と 〈溶融したような滑らかさ〉 とが

ミックスされた独特の美しさ」 を 味わうことができる。

 

 

カッターやハサミで紙を加工してゆく…

あるいは

その構成の見え方が

当てられる光の角度や質によって左右されてしまう…

 

通常のフリーハンド作品にくらべると

一見 不自由にみえる制作上のそうした制約が

かえって 表現体の 「予想外な抽象効果」 を

まねきよせているように思う…

 

 

 

二ノ宮の人体頭部の抽象は

 

日常視のじっさいの人体のイメージが 背景にダブることで

 

立体物が 紙の切片に置き換えられるという

 

 「大胆な造形」 が映えていて

 

また 反射する光が 人間の内面からの発光のようにもイメージされ

 

創造のための作為の集積志向とは逆の 「きわめてシンプルな構成」 の中に

 

透明感をたたえつつ 「抽象ならではのエニグマのゆらぎ」 を体現していて

 

しばし 時がすぎるのをわすれさせてくれた…

 

 

 

 

写真:筆者撮影