Live (リブ)| 意識されざる無限宇宙への通路… | 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

澄みわたった空に浮かぶ雲の千変万化する形と色合い…

水をふくんだ空気の粒子が生みだす形と色合いは、〈連続性〉の中に

かぎりなく精細な変化を織りなしている…

太陽からやってくる無尽蔵のエネルギーによって地球の表層の水は

循環をくりかえし、生き物たちの命を支え、役立ち、

そして水のつくりだす表情がときにわれわれの美感覚を根源的なところで

ゆさぶることがある…

外在するすべてのものは、人間にとっての既知・未知・不可知に関係なく

相互に脈絡をもったいわば全的な存在であり、

その外在を体験しあるいは感動している人間の内面世界の方は、

無意識世界における無限脈絡宇宙を基底にして生きているはずで、

さらに、その無意識的内面世界と外在とは、たとえば〈気〉のような

いまだ解明されざる関係性をはじめ、未知あるいは不可知のなんらかの

根源的な脈絡をもっているような気がしてならない…

 

 

 

昨秋、展覧会への出品という機会をとらえて石膏を用いたオブジェを制作

した。

それは、石膏で造形された〈大地〉と、円錐形の石膏ベースから立ちあがる

ワイヤー造形の〈雲〉、というふたつの要素の組み作品になっている。

〈大地〉は、型に用いた合板が偶然に生みだしてくれたまさに大地の断面を

想像させる粗い質感の側面と、流し込んだ石膏の粘性が自然に形づくって

くれた波紋様のやわらかな表情の上面と、そしてそれになじんでつづく

重力方向の変化を与える隆起面(石膏の流し込みボリュームからていねいに

削りだし適宜磨きをかけて仕上げた)、とおおきくは三つの表情から成って

いる。

〈大地〉の上面の端にある穴は、大地内部の空洞に通じている。

また、〈大地〉と〈雲〉のふたつは、作品が設置される環境の状況に応じて

相互の配置関係が決められる。

 

 

今回の作品は

 

抽象と具象との〈中間〉の力を求めて…

―― 自己の「無意識下の〈合理構築性〉」の外へ ――

 

ということを念頭において制作した。

 

したがって、自己内で決定することに加え、「向こうからやってくるもの」

を取りこむことに意識的であった。

 

 

 

以下は、具体の造形にとりかかるまえにまとめた文章である。

具体の造形の背後にひかえている〈私の世界視〉ともいうべきものの一端が

記されている。

 

 

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美しい!、おもしろい!…と、或る〈形〉に接したときに感じるのは、

自分の無意識世界の脈絡宇宙の中に、すでに「なんらかの感応尺度系」が

存在しているからだ。

その尺度系自体を、直にとらえることは、永遠にできない。

そして、その尺度系は、確固たる強さを有しているように思われる。

いっぽう、ある人生の時期に、まったく興味をもてなかったり、よいかたち

では受容されなかった〈世界〉や〈実在の形〉に対し、人生経験をへたのち

のある時期に、そして自己をとりまく〈時代性〉や自己固有の〈環境〉に

呼応して、よいかたちで出会い、反応する、ということもありうる。

つまり、〈美意識〉の背景にある尺度系は確固としたところがあるいっぽう

で、変化もしてゆく…

 

宇宙的な脈絡とともにある〈生命〉という存在が拠ってたつところの根源は

科学がいかに発達しようとも、永遠につかまれることはないのではないか。

少なくとも、いまの科学的アプローチの延長上に、生命自体をゼロから生み

だせる可能性はないような気がする。

生命の存立の全体とか、以心伝心とか、魂レベルでの彼岸から此方へと伝達

される暗示的波動のチャンネル(?)とか…  そもそも、これらの世界は、

科学的あるいは数学的認識とは異なる次元にも属した〈無限性世界〉の

出来事なのではないか…

オイラーの公式をご存知でない方もいらっしゃると思うが、1+2+3+ …と

整数を無限に足してゆくと、その合計は、なんと-1/12 になる。

現実世界の感覚の延長からすると、これはありえない数字である!

数学の進歩は想像以上のもののようで、素人目にもこれまでに発見された

〈真実〉は驚異的なものに映るのだが、しかし、数学を含む科学の延長線上

には、無限性の生命そのものの根底をつかむ可能性はないような気がする…

 

生命現象の一部としての〈美意識〉というものも、だから、その一番根底の

ところは、永遠にブラックボックスのままにおかれる…

そして、個人の人生はもちろんのこと、人類の進化の歴史も、永遠に完結

されることはなく、〈過程〉の中を生きていく…

ゲーデルが1931年初頭に完成させたという論文によって、「それ自体の中

に〈矛盾〉を抱えない論理体系」が前提の場合、言葉をふくむ記号論理体系

の世界に〈完全性〉は成立しない、ということが証明されている。 これを

わかりやすくいえば、完璧な理論というものはそもそも存在できないという

ことである。 そしてそのことは逆にいえば、「未来の中に、かならず、

既存知を越える可能性が存在する」――  そういう、これ以上はない力強い

希望をわれわれに与えてくれる真実を示してくれていることになる。

 

アートの制作過程では、創作者が自身の内面宇宙を、正直に透視しよう

とする。 では、なにが〈正直〉である、ということなのか? ――

そこのところが、すでにいろいろの意味を含んでいて、つねにゆらいでいて

定まらない。

逆に、それゆえに、見定めようとする志向活動に、〈価値〉が生じてくる

――  ともいえよう。

 

〈精神的自我〉は、社会的な関係性の結節点そのものである、つまり、

絶対的根拠というものは存在しない ―― という認識は現代思想のひとつの

大きな到達点であるが、〈身体性〉の方は、生命体の「開放系としての

無限性有機組織」とともにあり、〈本能〉というその拠ってきたるべき

ところがつかめない力学系とともにある。

 

美意識というものも、この〈本能力学系〉と脈絡し、作動している…

 

こうした、なにやら定まらぬ無限性脈絡の中にあって、

〈限定された世界〉としての三次元立体の自由造形を、いまの自分の

脱構築的〈超抽象〉の造形・精神運動のたのしみとして、

〈自分の眼の感受性〉を手がかりにして探索してみたい。

 

 

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「新しい素材から生まれる重厚さと謎めいた姿の作品である。〈大地〉の

上面の表情が自然の中にありそうで、ありえなく、美しい。 制作過程で

あちこちから舞い降りてきた想念と作家の内に堆積してきた美意識が

合祀されて現出したように思える。 穴は異次元への通路であり、積層され

た始原への複眼的洞察の眼であり、切なさをともなう〈生〉の影を隠しも

している…」───

といみじくも新井九紀子氏が評してくれたように、〈大地〉と〈雲〉という

実存の具体的イメージを呼びよせながら、そのイメージに共鳴的な造形素材

の質感と形態による抽象化をおこない、外在世界と人間の内面世界における

「意識されざる〈無限性脈絡の妙〉」というものに思いをはせつつ、

「〈創造的な限定〉ゆえにもたらされる形象化の響き」をもとめてみたもの

である。

 

 

言葉による表現というものは、人間にとって欠くべからざるものであるが、

しかしそれは〈限定行為〉であり、実在を単純に説明する場合であっても、

無限脈絡の中にあるその〈全体〉をそのままのかたちでとらえることは

できない。 だから、〈限定的表現〉の積み重ねによって、立体的に説明

するよりほかはないのである。

しかもアート表現は、或ることを説明するものではないので、観者を宙吊り

にするようなアート表現なるものをまるごと言葉化することはむずかしい。

或るアートに関して語られた言葉であっても、それは語られた言葉が

対象のアート作品とは別個の独自世界を生み出してしまっている――

厳密にはそういうことになる。

 

しかし、私の作品に対する先の新井氏の評のように、作品に接したときの

「観者の内面の〈動き方〉」というものをその言葉を通して察し、美感覚

あるいは美意識の通底のよろこびを味わうことはできよう。

ときに、観者は、作品に関して作家自身は無意識の奥に潜ませてしまった

ことを、虚をつくかのごとくに気の効いた言葉で伝えてくれることがある。

そういうときは、作品評はまさに〈詩〉だな、響きだな…  などとひそかに

思ったりすることもある。

感覚と美学と世界視などが共鳴しあえる〈よき他者〉の存在というのは、

作家にとって生きているよろこびである―― そう私は感じてきた。

 

作品制作は、もともとオリジナルな自己内宇宙を独自のかたちで掘り下げて

ゆく孤独な世界であるが、同時に、作品世界が介在して作家とよき他者との

間にほかの方法ではなしえない「魂の共鳴」を生みだすというかけがえの

ない価値をもっている。

その点を重視してきた私は、自分が観者として他者の作品に深く感動した

ときは、その感動を自分なりの言葉にして作家にエールを贈りたい――

そう思ってきた。

本ブログにこれまで執筆してきた他者作品に対する評はそうして生まれた

ものである。

 

 

 

*美術作家の中村陽子氏に石膏作業を手伝っていただいた。

ここに記して謝意を表します。

 

写真:筆者撮影

 

自己表現の否定の地平で… | 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己表現の否定?―― それでどうやって作品が成立するのだろうか?

そう思われる方が多いのでは… と思われる。

 

筆者は、これまでもっぱら抽象立体作品をつくってきた人間だが

3次元性の抽象表現のことをあらためて考えてみると

たとえば、ある風景に出会って、その印象を、われわれが住んでいる

3次元空間と同じ次元の外化表現として 〈物理的に確定〉 しようとする。

また、かつて筆者は、「世界の連想」 というオブジェをつくったことがあり

その作品では、人間世界を生かしている力としての二つの存在 「自由を

もとめる個性的存在」 「異質性を統御しようとする全体中心化の存在」 を

イメージし、そして、その現実的な力の世界に、どこからやってきたのか

不思議におもわれるような 〈可能性〉 をもたらす 「〈存在の世界〉の外側

の不決定的なる宇宙」 という仮想的なイメージを加え

これら三つのそれ自体〈抽象的〉な契機を、ある意味 〈美的な抽象表現体〉

に変換して 固定する――

そういう いわば 「人間世界への根源的なまなざしの造形化」 を

したことがある。(*1)

 

自己表現の否定… といっているのは、制作者の内面にあらかじめ生まれる

「造形のためのいっさいのメタフォリカルなイメージ」 から出発することを

やめる―― そういう意味である。

 

自分を離れる…   内面を 〈空白〉 にする…

 

そして、制作に用いられる素材自体が 「形姿の可能性」 の旅にでる…

素材のもつ 〈形状の次元性〉、〈手による加工の性状〉 の意味…

そして、今この時の〈形姿の力〉… そうしたさまざまの可能性…

さらに、「造形という行為をめぐる 人間の内外宇宙の 〈全体性不可知の

脈絡〉」のことを想像つつ、交絡しながら、制作がすすめられてゆく…

 

しかし、制作の過程では、自分の内なる無意識の世界に

〈さまざまな脈絡の密度〉として そのルーツが存在しているであろう

ところの 〈世界認識〉とか〈美意識〉 などが作用しないわけは

もちろんなく、いぜんとして 自分がいる…

 

自分を 離れながらも、自分がいる…

 

そうして、造形の背景にあって、それをを先導する 「表現体のありかたに

〈統合〉 を指向させる内的な意味性」 を棄てさるところに立って制作を

おこない、結果として生成される作品は、感受される局面において

素材そのものの形姿が 〈裸の状態〉 で観者に作用し

「あいまいな連想を触発する装置」 のようなものとなる…

そういう試みから生まれたのが、ここに紹介する筆者の最近作である。

 

 

 

作品は、〈シンプルの力〉 をもちたいが、しかし、響きの浅い単調なもの

にはしたくない。

いろいろの過程はあったのだが、結果として、素材として ふたつのものが

選ばれ、その 〈対立的響き〉 の可能性を探ることにした。

 

素材をふたつに限定し、そして、素材の 《力学的特性》 を生かすなかで

〈自己の美学〉 を作動させながら、なんらかの 《力》 をもった表現体を

結果的に生成させる 「素材との 《手》 による対話」 としての制作…

 

素材の選定では、自分の美意識が当然に、つよく作用する。

そこでは、卑近なもの (高価だったり、立派だったり… そういうもの

ではないもの) で、手で切ったり曲げたりの加工がごくごく容易にできて

作業が大仰不自由にならないものに、こだわっている。

 

 

そして、具体の造形では、《軽やかさ》 や 《かそけさ》 のようなものを

目指した。

構築的なものがとかく有してしまう 「がっちりとした堅固さ」 とは逆の

《ゆらいで あいまいな世界》 …

 

素材として、軽やかなもの、はかないもの… が選ばれているのは

「いまこの時の感覚」 を重視している ということに加えて

素材の繊細さが、その存在性を希薄化し、夢かうつつか?

という浮遊感覚を 《空間性》 とともに現出させるからである。

 

たとえば建築の場合は、《空間》 の中を移動することで、刻々〈別の世界〉

を体験することになるが、立体アート作品は一点凝縮的で、せいぜい作品の

まわりをめぐって 異なった角度から作品をながめる変化がある程度である。

今回の作品では、そうした一点凝縮的なアート作品を

それに 《空間 》 あるいは 《気》 を与えることで

一点凝縮性から解放させることを試みた。

 

 

そもそも、筆者にとってのアート作品の制作行為は、

どこまでいってもつかみきれない

 「精神と物質にまたがる深い脈絡宇宙」 を

探索的に旅すること にひとしいのだが

そうした 《気》 の中にある素材のはかない形姿は

それが、観者の内面宇宙の無限へと解放されている――

そういう かそけき気分を

この作品を直に体感する者は感じることであろう。

 

 

 

この作品の中心をしめる 〈自由曲線を描く針金〉 は

亜鉛メッキされたスチールワイヤーで、径0.28mmの極細のもの。

指先で、ソフトにソフトに… 息をつめながら、カーブを作っていった。

ちょっとでも扱いをまちがえると、角がたってしまう…

スチールワイヤーは、外力に対してきわめて敏感に変形するので

「こちらの美学を満足させるカーブ」 になってもらうには

心をこめたこまやかな扱いが要求される。

そして、いったん形状ができると

その形状をしなやかに保持する 〈弾性〉 をもっていて

たとえば粘土のように、指で押したらへこんだまま… といった

こちらの言いなりになるような単純受動性のマテリアルとは異なり

《ひかえめな反発的個性》 を

手による造形のその場ですぐに主張してくるところがあり

そこが、なんともいじらしい!

 

いっぽう、クラッシュして造形した紙のほうは

バルカナイズドファイバーという 工業分野で用いられている硬い紙で

含水させてプレスすると成型できる、という特性をもつ。

今回の作品には、厚さが0.25mmの薄いものを使用しているのだが

それは、あたかもプラスチックのような感じで硬く

そのため、クラッシュしたときの折り目部分の陰影のグラデーションが

普通の紙では得られない独特の美しさを見せてくれることを、知った。

 

 

今回の作品での素材のありかたは

常識的感覚からすれば

柔らかいもの と思われている 〈紙〉 が硬く

硬い と思われている 〈針金〉 が 逆に柔らかい…

既成感覚を裏切る素材――  という意外性が

触れなければそれと分からないように、隠れている…

 

また、今回の作品では

《手》 による自由自在な造形、にこだわっているため

日常生活で通常視化されてしまっているマスプロダクツの

必然的形態であるところの 〈幾何学的単純形態〉 とは

あえて距離をおいている、ということを付記しておきたい。

 

 

 

 

 

今回の作品は

 

背景に、メタファーの元の 形態的イメージ や 概念 がないために

素材のダイナミックな外姿が 裸の状態 で観者につたわり

作品に対する観者の側の 〈構え〉 がとりはらわれていたことが

観者の反応でわかり、うれしかった。

 

また、実作品を体感するときの

 《立体視》 にひそむ妙味…

《全体と部分》 を重ねて見ている視覚の厚み…

そして目の 《ズーミング》 の自在さ…

そういうものが複合した実存の視覚的体感は

写真ではまったく消えてしまうということを

繊細な素材を用いた今作品では

とくに強く感じさせるところがあった…

だからこそ

実作品の 《生の体感》 こそを

大切にしなければならない、という…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―― 作品をじかに体感してくれた方からの反応 ――

 

 

 

作品の支持体の立ち上がる壁面が 〈斜め〉 になっている

ところに、最初に目がとまった。

ワイヤーが無限へと飛びだすためには

垂直ではなく、斜めに立ち上がらないと、力は弱い。

かつてバスケットをやっていたことがあるが、ゴールするときは

垂直にジャンプする。 だから、ゴールは垂直に立っている。

それらを連想しながら 〈斜めの勢い〉 が、ワイヤーを生かしている

と感じた。

その部分で、壁の〈斜め〉 が観者をみごとに裏切ることもきっとあり

それで戸惑うまわりの反応も、おもしろいだろう。

そこに、その人の既成の感受性が、垣間見えるから…

 

「無限へ飛びだそうとする線」 と

「永遠をそこに刻もうと、それぞれの形態で佇む紙の陰影」

との対比は

この自然界の仕組みのような…

人間の見えない 〈内的宇宙〉 が眼前に提示されたような…

言葉にはならない 〈漠然としたモヤモヤした空白〉 を

形にして見せたのが今回の作品、だと思う。

 

ワイヤーの醸す浮遊感は

この空白が、ほとんど陰影を作らず

そのもの自体がそこに存在する姿から

発している…

 

アートと建築の狭間をゆらいで

思考の闇をゆらし

そのまた深い宇宙を

垣間見させてくれる、作品世界…

 

目をこらして、作品を見る…

そして、目がなめらかに移動してゆく…

そこにある 「 〈一瞬のかたち〉 の自由さ」 が

見る者に自由に発想させる…

その無礙なる自由さ!

 

(佐藤省 artist/poet/art director)

 

 

 

自己表現を一度否定してみる、それでもなお滲み出る自己…

そこに個の作品が在るのでしょう。

今回の作品はコンセプトに言いつくされていて

付け加えるとすれば、実作品が観者にどうみえたか、だと思うが

コンセプトからの乖離を、かぎりなく縮めて可視化しえており、美しい。

作品は気息し、極微から極大の世界を取りこめている。

また、これまでの作品にくらべて、動的要素が増し

観る側に作品感受の余裕をもたらしているように思われる。

 

(新井九紀子|ことばの世界を図像世界化する墨画家)

 

 

 

畑さんの作品のような空間を歩きながら…

あの世界(観)に揺さぶられながら身を任せたら

どんなかな…

と作品を観てから考えていた。

 

(トヨダヒトシ|スライドショーのアーティスト)

 

 

 

 

 

*1 ―― 詳細については、2013年11月16日付の掲載文

「世界の連想 | 畑龍徳作品 - 存在性希薄化のアート – 」

をご覧ください。
写真:筆者撮影

 

生き物オブジェ | 多肉植物と白磁鉢のデザイン

美 ○ 創造

 

 

 

 

 

 

いかにもみずみずしい多肉植物に出会ったのが

そもそもの ことのはじまりである …

 

 

最近は まちでよく多肉植物をみかけるが

しかし 「これは」 というものには なかなか出会わない …

それが 昨年の春(2014)のこと

隅田川を見晴らす木造家屋の二階の物干し台に

多肉植物が展示されているのにでくわし

その多肉植物たちがいずれも 〈命の光〉 を発しているかのように

いかにもみずみずしい姿をしているのにすぐに気づいた …

 

そして 房状の多肉葉を赤く染めている株立ちの一鉢 (乙女心) に

目がとまった …

色合いの美しさとリズミカルな全体の姿とが

なんともいえずいい感じで すっかりほれこんでしまった …

 

で その場で ふとイメージがわいたのである …

この多肉植物のために円筒形のシンプルな白鉢を用意して

自分のアトリエにオブジェのようなかたちで飾ってみたら …

 

 

その元気な多肉植物を育てているのは 高橋なつみさん という人

であった。 

とりあえず気にいった 〈乙女心〉 の一株を取っておいていただくよう

高橋さんにつたえ その一株をいちおう想定しながら鉢の図面を描いた。

その図面にもとづいて 平松祐子さん という白磁の作家に

実際の鉢を作っていただくことになった (*)

氏の生みだすシンプルな三次元曲面はとても美しく

その感覚に信頼をおいての 筆者にとっては

とてもぜいたくなコラボになった。

 

 

多肉植物という生命体の有機的なフォルムと

そのフォルムを映えさせる 「それ自体はデザインを強く主張しない

シンプルな幾何学的形態」 の組み合わせ――

そこでは とくに鉢自体のプロポーションを重視しており

その自立したプロポーションに対して、多肉植物のサイズの大小や

多様な形姿に応じて、それなりに、植物と鉢とが一体となって

独自のバランス美を生成してくれる。

 

また、平松さんに作っていただいた鉢の厚みはきわめて薄く

多肉植物をななめ上方からみたときの 「鉢のエッジの丸いライン」 が

きりっとかろやかで 美しい!

 

 

結局 四つの白磁鉢に、筆者が希望した品種を高橋さんが植えこんで

くれて今年の梅雨入りのころにそれを届けてくれた。

そのときはじめて目にした 鉢上に展開する多肉植物それぞれの姿に

格別の感動をおぼえたのをわすれることができない …

 

ここに掲載した写真は その中の 〈福娘〉 という品種である。

 

 

 

 

写真:筆者撮影

*佐藤省さん(ギャラリー悠玄)に間を橋渡ししていただいた。

ここに記して感謝の気持ちを表します。

 

格好をつけた 〈 整 〉 と 平凡な 〈 不整 〉 | 畑龍徳作品           Sharp Figuration / Crushing

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

                                           

 

99%の繊細さと

1%の大胆さにより

均衡を保っている宇宙

 

「 いまここ 」 

を生きる実感から導かれた

最小限で最大限の要素

 

清潔な布で

磨きあげられ浄められた

たったひとつの細胞空間

 

または浄化装置

 

そしてそれは

光と風を導き

やわらかく繋がるための

ひらかれた心の宇宙 …

 

 
 評 : 甲斐瞳 artist

 

 

―――――――――――――――――――

 

 

 

 

格好をつけた 〈 整 〉 と 平凡な 〈 不整 〉

Sharp Figuration / Crushing

 

というタイトルの小品を Message2014 という

毎年年末に開かれる展覧会 に今年も出品した。

 

 

作品構成に参加させる要素を縮減、シンプル化させた世界で

形態と空間の相互作用のバランス点を 〈 鋭敏化 〉 して

自己の 〈 内面宇宙 〉 にひそむ  「 美意識の性状 」 を

あぶり出してゆく …

 

逆にいえば 表現体の 〈 複雑性の妙 〉 や 〈 パッと見強度 〉 に

無意識的に 依存してしまうことを あえて避ける …

つまり 〈 美の法則 〉 の中にいながらも 

 「 美への 〈 可能性の豊穣 〉 」 に あえて浸からない

―― そういうプロセスによる 「 内面世界のあぶり出し 」 …

 

 

 

こういう趣旨で  ―― 素材は すべて 〈 純白の紙 〉  を使用 ――

 

〈 不整 〉 の部分要素は 特殊な白色紙を折り紙程度の大きさに切り

「 意図を働かせず 」 に手でクラッシュし その一個目と二個目を

あえて使用して 〈 選別 〉 のプロセスを介在させていない。

ただし クラッシュしたときの球状のサイズだけは

〈 整 〉 の部分要素である 〈 カベとのバランス 〉 がとれるように

大雑把ではあるが 配慮した。

クラッシュした紙の 〈 襞の部分 〉 に なぜか ほのかに

クリーム色のグラデーションが現われたのを発見したとき …

 これだ! と思った。 まさに 向こうからのプレゼント …

 

 

 

人の 〈 内面宇宙 〉 …

 

それは 人それぞれの人生経験をへて

はかり知れない複雑さと

不確定性を内包する 〈 脈絡 〉 を

形成しているはずだ。

その無意識世界は

直接的には とらえることができない …

 

でも 作品を制作するプロセスの各局面局面で

意識的に ある判断を  「 直観的に 」 するときに

それはイコール

〈 内的脈絡 〉 の いつわらざるアクションである。

 

 

 

そうして結果した作品は 〈 不整 〉 を含めて美的である ――

 という世界内にとどまりつつ、つまり 〈 美的 〉 という 〈 整 〉 に

包含されつつ

部分要素としての 〈 不整 〉 が、部分要素としての 〈 整 〉 との

対比の中で、平凡どころか かえって特色を主張しだした …

 

〈 不整 〉 がもつところの 〈 ゆらぎ 〉 …

 

 

 

 

 

自己の 「 内面世界のあぶり出し 」 という

自己中心の制作過程は

当然 他者の眼は 無関係であるが

100人以上の作家が参加する企画展へ出品する

という動機を自己に課して 制作をし

そして 自分自身が納得すれば

 「 結果として 」 作品を展覧会に出す ――

 

そうして 作品が衆目にさらされる …

 

 

 

来廊者の作品に対する印象などが ことばとして

ぼくの耳にとどくことは 通常きわめて限られているのだが

とくに今回は 前にのべた作品の性質上

他者の反応は 期待していなかった。

 

 

しかし 作品搬入のときに イラストレーターの小渕ももさんが

まだセッティングされる前の横っちょに置かれていたこの作品に

気づき シンプルな作品性に 真っ先に反応してくれた …

 

ぼくは 作品を構成してゆくときに

作品サイズがどんなに小さくても 物質を配置するごとに生成変化

してゆく 〈 空間性 〉 を見つめている。

だから 小渕さんの反応は 氏の眼が空間的であることを暗示して

いるのではないか … とぼくに想像させるところがあった。

 

 

 

ぼくの作品をみに 知りあいがわざわざ会場に足を運んでくれる

ということは ほんとうにありがたいことだと思っている。

そして 作品をめぐって来廊者と直接話をする機会があったり

感想メールがとどいたりすれば 自分は いわば作品を介した

〈 スペシャルな会話 〉 を楽しませてもらっていることになる …

一人歩きをはじめた自分の作品が 鏡のようになって こんどは

 ふつうの会話では 「 決して出現することはない角度 」 から

他者を 眺めさせてもらっている …

 

 

 「 白い小さな空間の中に、〈 不整な形 〉 の存在感の大きさに

驚いた。 光と影、白の持つ特性、相対するもの、が新鮮で

まるで宇宙を見るかのよう …

洗練された 何気ない シンプルな美しさ … 」

(岩崎恵美 singer)

 

 

「 光の差し込むシャープな影が キリコのよう …

薔薇の花のような 丸いクシャクシャしたオブジェが

大きなアジサイのようにも見え 色を様々に 想像できる … 」

(杉田茂樹 editor)

 

 

「 〈 要素の関係性 〉 の 苦悩など寄せつけぬ 強い存在感 …

風の通る道筋を思い … 光があやなす影の深さと匂い

に寄りそわれた 〈 空間を切る境界 〉 への認識 …

思わず じっと佇ませてくれる …

小さいがゆえの 凝縮された宇宙 …

光讃え 知的な陰影を放つオブジェ … 」

(佐藤省 artist/poet/art director)

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

世界の連想 | 畑龍徳作品 ‐ 存在性希薄化のアート ‐

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銀座のギャラリー悠玄で 「Message100 おしゃべりなArt展」 という

展覧会が毎年1回開かれていて、今年(2013年)も11月11日~23日

の2週間にわたって開催された。

同展では百人の作家たちがさまざまな関心の位置で作品を作って

いて、それぞれの個性を楽しめる 中味の濃い展覧会になっている。

この展覧会では、人間世界の 「多様性原理」 のことを毎回考えさせ

られてきたのだが、今回あらためて こんなことが頭に浮かんだ…

 

 

人はいつも自分自身のことを考えているけれども、でもこの世界には

自分とは異なるものをもった他者がいて 直接に間接に交流できる

からこそ 楽しい…

自分のことは自分が一番よくわかっている ―― これは真実であるが、

でも自分の良いところの多くは自分には見えず、他者こそがそれを

エンジョイしてくれる ということも真実。

おかしなことである。 自分のことばかりに意識が向かい過ぎていると

このことに気づかないで、ついつい傲慢になり、他者からはよ~く見える

その人の品格や美学のありようが すっかり萎縮してしまっていたり、

あるいは逆に、自分には良いところがひとつもない などと自暴自棄に

おちいってしまったりするかもしれない。

 

男女のことを考えればわかりやすいが、米国生活が長い日本人

女性が 「女と男は、まったく違う生き物よ!」 と語ったことがあり、

わたしはその時ハッとさせられたのだが、肉体的なことはともかく、

男女の内面の違いは それはそれは大きく…

でもそれは、《 対(つい)の世界の共鳴的深さ 》 へとつながる可能性を

秘めた違いである、ということ。
 

 

 

さて、わたしは、今回とても繊細な素材を用いた表現を試み、素材の

希薄化された存在感の中に立ち上がってくるものを求めて作品を制作し、

それを Message100展 に出した。

 

素材は、特別なものではない ごく身近なものなのだが、その素材が本来

もっている力学的特性を見つめ、そこから生まれる独自のシェイプを

メタファにして 「人間世界が生きていられる三つの次元」 を表現してみた。

 

 

 

 

 

 

素   材 :  トレーシングペーパー(t=02mm) 糸状針金(Φ0.23mm) 

         虫ピン(Φ0.5mm)

          ケント紙貼りイラストボード/台紙 

         スチレンボード/台形ベース

 

 

コンセプト :

 

長方形の白い紙を限定世界として、そこに3種類のデリケートな物質が

配置されてゆく…

トレーシングペーパーは、たわませると2次元性から3次元性へと変化し、

その弾性を固定するためにはベースにはいつくばせる必要がある。 

半透明な紙には、画面構成を大きく決定してしまう力がそなわり、そして

その陰影は実体の形と比べて、意外な様相を示す…

虫ピンは、剛直! 実体を1次元性から脱却させるためには相当の力を

強いなければならず、その陰影は、クリアな個別性の強さと、群の中の

リズムとを響かせる…

糸状の針金は、3次元中にそれこそ自由自在に形を展開してゆき、

雲のように浮遊を望む… 網目の陰影は、かそけさのグラデーション…

 

自由を求める個性的存在と 異質性を統御する全体中心化の存在と

不決定的な存在外宇宙と…

 

 

 

上の写真をご覧いただこう。

 

右側の抽象化された虫ピンたちが 「自由を求める個性的な存在としての

人」 を表していて、概して集まることを志向している現代の人間たちが

それこそ多様にそれぞれの位置で生きている。 

そこには、傾向を同じくする人たちの集合だとか 男女の結びつきだとか

いろいろあり…  こうして右側に、《 個の自由意思ベクトルの世界 》

ともいうべきものが抽象されている。

 

中央には 特殊なトレーシングペーパーの布置によって 「個性をもった

人間たちが 《 共に 》 生きてゆくための、主として不可視の存在である

 《 中心化の力 》 つまり 《 共通の仕組み 》 /その中で一番かたい存在が

 〈法律〉」 を、極限までシンプル化した形で表象している。

長方形の領域にバランスするように高さ2ミリまで縮減された曲線状の

トレーシングペーパーは、あえて正円弧にはしていない。 

自然なヘア―カーブともいうべきラインになっていて、

これは 「中心化の構造」 が硬直したものになっては駄目で、そうかといって

ふらふらしてもらっても困る。 そんなニュアンスを込めた形である。

 

以上のふたつが、この世界をつきつめてとらえたときの、

いわゆる 「存在」 である。

 

 

でも、人間世界が生きて存在してゆくためには、もうひとつの次元が

不可欠である。

それが左側に 髪の毛のように繊細なワイヤーで表現されていて、

われわれに、《 可能性 》 とか 《 ヒント 》 とかを思わぬかたちで付与して

くれる 「源泉としての宇宙」 ―― それである。

 

もともと人は、内面の認識世界では 「確定指向」 と 「不確定」 との間を

つねに曖昧性をかかえながら生きていて、また同時に、認識以前の

五感がまるごと脈絡する系としての感覚体験の中を生きている。

この宇宙の根底には 《 矛盾  》 が存在し、矛盾のない形での完全認識は

不可能であるのだが (ゲーデルの不完全性定理)、でも、生命という

これ以上ない不思議ですばらしい存在を生成するほどの宇宙の根底には、

記号論理を介した認識世界の一貫性とは別の何らかの 《 一貫性 》 が

厳として存在しているようにも思ってしまう。

この 「不決定的な、《 存在 》 の外の宇宙」 を、複数本ではないただ一本の

ワイヤーで表現してみた。

糸巻きに巻きつけられていたワイヤーは、一定の曲率で全体がカールして

いたが、巻きをほどくと、ゆるゆるとふくらんでゆく… 

そして、ちょっとでも無理な力を加えると なめらかな自然なカーブが壊れて

いってしまう。 

薄紙の風船でもあつかうように、ワイヤーをそっと手のひらの上でころがすように

形状の変化を引きだし、「素材のもつ力学的特性が生かされた 《 自ずの美 》 」

を体現していると思われたところで、交点を何ヶ所か接着剤で固定した。
 

 

作品は、このように、人間の三つの世界のメタファを 《 並置 》 して、

相互の響き合いとして表現されている。 

 

この 《 並置 》 という方法は、トレーシングペーパーと虫ピンとワイヤーを

同一領域の中で重合的に扱おうとすると、それらの間に 「視覚美における

相対的なバランス関係」 を発生してしまい、きわめて繊細な素材の

それぞれに、「繊細の中での、ある意味の視覚的強度」 をもたせたい

という条件との間に矛盾を生じてしまう ――

そういうことで着想されたものである。

 

 

色彩やマチエールの多様なゆたかさの世界にかかわることをあえて避け、

《 形のみ 》 で造形する。  しかも、その形の存在性を希薄化する。 

そこに立ち上がってくるデリケートな世界の響き…

 

 

 

 

 

 

 

希薄化された存在は、地平にどんな影を投影するのか? 

 

地べたに貼りついたヘアーカーブとアングル状の半透明な紙は、

濃い影を地平に落とすと同時に、光線の白い照り返しを

その影にダブらせる。 

ヘアーカーブの濃い影の方は、一見、白い地平に切り込まれた

溝のようにも見える…

一方、虫ピンと糸状ワイヤーの方は、地平にほのかな影しか投じない。

ところが、地平が白色なので、その白地を背景に素材の受照面の

反対側の蔭が、細くくっきりと浮かびあがる… 

そして、反射角度でちょうど眼に入る微細なハイライトを、

点々と息づかせる…

 

 

真っ白な台形ベースは、この作品の重要な要素である。 

ざわついた現実世界から繊細な造形世界へと観者の眼線を引きこみ、

感受性の態勢をデリケートな世界へとチューニングさせる――

そんな隠された機能をはたす装置になっている。

作品本体をよい状態で見せるという意味では3次元的な額と言えないこと

もないが、しかし、通常の額が、作品世界と外界との境界をつくる役割を

もたせられているのに対して、

台形ベースは、周囲の空間の中に作品世界を浮遊させ、現実世界との

間にほどよい距離を生みだしつつも、作品空間と周りの現実空間との間を

あいまい化して、観者の想像力の行き来を自由にしている。

 

 

 

「世界の連想」は、写真にはなりにくい作品である。

 

そのデリケートな静寂世界は、実物と静かに向かい合ってはじめて

体感できる複雑微妙なものだ。

ここに掲載した撮影方向が異なる2枚の全景写真は、肉眼で見た場合

の作品の見え方とはおおきくかけ離れたものになっている。

たとえば、ベースの形態の端正さを立たせる 「白さの映え」 はまったく

再現されていないし、肉眼では捉えられる線材の「硬質な か細さ」 も

とらえられていない。

 

 

 

 

本展を企画した佐藤省さん (ギャラリー悠玄チーフディレクター) が、

「世界の連想」 に対する評を送ってくれたので引用させていただく。  

わたしの作品が他者の眼にどういう波動を送ったのか… 

とても興味をもたされた評である。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

― 存在に内在する時間が水平に流れる 〈ざわめく静寂世界〉 ―

 

 

細いドローイングの線が空を切るように、

シャープにループする針金が発する光は、金属音の微妙な響きを

ともなって静寂を波立たせる。

静寂が形を得るとしたら、こんな形になるのかもしれない!

とさえ思わせる。

虫ピンの群れは、様々な関係性を際立たせ、

白い平地に落ちる影は、逆に光とは何か、静寂とは何か、

と問いかけてくる。

見えているからこそ、その深い影の間隙から  「見えない音」 が

聞こえてくるようだ…

ミリ単位のトレーシングペーパーのカーブも、しっかりと場を分割し、

微かな影を吐き出してはいるが、

肉眼でもその境はなかなか認識されない。

 

そんな物質たちによって構成された白い大地は、

巨大な中に仕掛けられた 「存在を消す装置」 のように、

見つめる網膜の奥にしか 本来の姿や色彩を結ばない。 

ごくわずかな選ばれた人にしか… 

 

このシンプルにして複雑性をもつ作品が、

なかなか一筋縄ではいかない性格を放っているところが面白い。

模型のようで そうではなく…

架空の王国が砂漠に出現したような…

 

 

あるはずの物質の重さが消え失せ、影が自立をうながされ、

そして、自立する影に内在する 「時間の影」 も消失させて…

ほとんど造形されていないように見せているその思索的な造形に

目を深く注げば、「見えていることの確信」 は揺らぐ。

 

虫ピンの狂ったリズム、

虫ピンが埋まり 崩壊してゆくバランス感覚の乱れ、

ループを描く細い針金が 頼りないが確実な旋律を踏んで、

それぞれの時間は、「未知」 へと吐かれている!

 

存在の輪郭を消失させるということは、

つまり 「何か」 へとイメージを飛躍させること。

作家の手により変容させられた物質たちが、

夢の一幕にサラサラと氷砂糖をふりかけると

地平に現れ出づる砂漠の蜃気楼のように 淡く 淡く…

余韻は深く 眩しく 輝いている。

 

そう簡単にその深さが何かを明かさない

崇高な鎮まり… 

そして永遠…

 

 
――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

佐藤さんの評を読むと、造形を導いた 「人間世界の三つの次元」 という

コンセプトとの関係はすっかり消えて、作品の造形面の特質が、現代美術

作家であり詩人でもある氏の好奇心と想像力とを動かしたようである。

 

 

 

 

【追記 131130】

 

「世界の連想」 の写真をご覧いただくと、糸状ワイヤーによる表現体は、

作品全体の領域の隅に寄せられた形で配置されており、そのすぐ横に

何も置かれていない空白領域を生みだしている。

展覧会最終日に来廊された甲斐瞳さん (現代美術作家) が、その空白

領域を 「空き地」 と呼んで おもしろい捉え方をしてくれたので、

その感想文をここに掲載させていただく。

 

 

あの作品の…

作家の内的宇宙は、いくら読み解いても終わりのない、多面的な 「今」

を含むものでした。

 

並列でありながら、あの分量配分の妙…

そして、あの 「空き地」 には… 何処まで意識を押し広げたとしても、

その果ての外側をほのめかす 「余」 の空白がありました。

そこは、閉じられていない解放感や、未知のものを許容する大らかな

精神まで感じられる 「場」 でもある と思いました。

 

 

 

 

Message100 おしゃべりなArt展 → 

http://www.gallery-yougen.com/cgi-bin/gallery-yougenHP/sitemaker.cgi?mode=page&page=page2&category=1

 

 

写真:筆者撮影

 

(131129 展覧会の会期と関連する記述を書きかえた)

全体美と部分間共鳴 | RINZ カフェギャラリー

美 ○ 創造

 

 

 

 

まちで見かける 手書きや手作りの個性的なメニュー看板 …

 

 

きちっと作られた固定看板が、

周囲の環境のあり方との対照関係で大なり小なり視認され、

通常の雑然とした環境の中にあって、

「看板全体としての整序の力」 をデザインに生かそうとする

のに対して、

 

日々、掲出内容を更新できる店頭の手作り看板の方は、

見る側の眼を 部分部分の情報に向かわせる注視性を有し、

したがって、看板全体の整序美というよりも、

「親しみを感じさせる おもしろさ」 というところで、

ユニークな表現が生まれる自由さがある。

 

「テンポラリーな性格のもの」 の中に現われる

多様な個性のゆたかさ …

 

 

写真は、前回の文章で紹介したカフェギャラリーのメニュー看板。

 

埼玉県東松山市に RINZ/Bakery Cafe   あ~との国

( Rinz Gallery+ を併設 ) が、今年2月にオープンした。

 

看板は、そこでアートディレクターを務めている金子清美さんの

手作り即興だ。

ふかふかしたパンのイメージが生かされたデザインで、

それとなく人目を惹いて、グッド …

既存の小椅子を利用して、その上にピンナップボードをのせ、

そうした制約の中で、臨機応変にボード面の構成を考える …

 

そこに、キッチリ決められたものには欠落しがちな

〈テンポラリーの軽やかさ〉 のようなものが漂う …

 

 

 

写真:金子撮影

*あ~との国は 2014年2月にRINZビルから移転しました。

 

手作りのフロアランプ | 金子清美作品

美 ○ 創造

 

 

 

 

 

 

 

写真は、あるカフェギャラリーのために手作りされたフロアランプで、

大型のガラス瓶の中にLED光源を仕込み、外側を特殊な紙で

くるんだだけの単純な構成ではあるが、紙のくるみ方がユニークで、

市販品にはない複雑微妙な陰影が とても柔らかで、美しい!

見る角度を変えると、微妙な表情が、大胆に、変化してゆく…

制作したのは、私のアトリエのパートナーであり、現代美術作家でも

ある金子清美さん。

 

 

売ることを目的にした量産品は、それが優れたデザインのもの

であっても、量産に適した素材の選定とか 組み立て方式とか、

最終的にはコストという条件に制約された中での可能性である。

 

一方、そのモノが置かれる場所の具体的な条件を読み込んで

より自由に発想すれば、現代的な魅力をもったデザインの

可能性が、思わぬかたちで姿をあらわすかもしれない…

 

本ホームページ Furniture のところに掲載してある

片手で軽々と持ちあげることのできる スツール moonwalk  は

それが使用される住宅の住まい手が、スツールを丁寧に扱って

くれることがわかっていたので、そういうデザインが実現した

のだった。

 

販売された後、どういう場所に置かれ、どういう使われ方を

されるのか ―― そこに一定の幅を見込まなければならない

のが量産品であり、その場合は、当然に、強度的な面で

安全側のデザインがなされ、結果、とかくドテッとした姿の

ものになりがちである。

 

 

手づくりしたものの場合、やけに作り手の個性が強くでたり、

あるいは、どこかで見たようなコピー的なものになったり、

真に優れたデザインは めったに生まれないのも事実。

 

でも、そうだからといって、ハイスペックで無難な量産品に

選好意識が安易に短絡してしまうのは さびしいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影

 

異形の庭 | 佐藤省 個展

美 ○ 創造

 

前回のブログで書いた佐藤省さんの展覧会は、

来廊者それぞれの眼に 独特の印象を刻印したようだった。

 

展覧会の会場は、住宅地の中の一軒家を改造したもので、

昔の木造車庫が 小屋組みの見えるギャラリー空間に改修され、

隣接する和室空間には 床の間があり、

縁側越しには 緑豊かな中庭が望める ――

そういう、いわば 〈気取りのない空間〉 なので、

観者は、空間に馴染んだ状態で 作品にゆっくりと

接することができたのではないかと思われる。

 

展覧会の実際の空気と その中での作品の印象は、

断片的な写真を並べてみても、伝えることはできない。

住宅部分を含む展示空間の全体は、ホワイトキューブとは違って、

さまざまな性格をもつ部分空間の集合体であるが、

それぞれの部分空間にふさわしい作品が厳選され配置されるとき、

実際の空間では、観者の 「相互に性格を異にする空間から空間への

《移動》」 が、展示作品とまわりの空間がセットになった感覚体験の

 〈相互異質性〉 を 違和感なく内面に共存させてしまう役割をはたして

いることに気づく。

 

そういう 「空間性と共にある プロセス的な作品対話」 というものは、

「断片としての写真の並置」 から受ける印象とはかけ離れたもの

であることを踏まえつつも、あえて 筆者が撮影した写真を以下に

掲載してみたいと思う。

(→ 写真をクリックすると拡大写真が見れます)

 

 

 

 

 

               ギャラリー空間

 

 

 

 

   〈刻を落下する花の発光〉

 

左側の写真の額は、生命的自然との日常の対話からうまれる

作家の感興を トレーシングペーパーの向こう側に昇化させた

肩ひじはらぬ微音的世界を、白壁にそっと凹部をつくって

さりげなく飾れたら… というイメージで 筆者がデザインしたもの。

額の 「額然とした様相」 を限りなく消して、簡素化してみた。

 

 

 

 

 

 〈光を通過する風のゆらぎ〉      〈風の成す形〉

 

和室の奥の屏風の前の暗がりの中に、一点、静寂の灯りが

ともされ、その上に、透光性の作品が置かれた。

ここは、展覧会場の一番奥の位置にあたるので、いろいろ作品に

接したその最後に、観者は この美しい透光の世界に 沈潜する…

この透光作品をみて、作家が表現したい世界がすっと

つかめた ―― と感想を話していたアーティストもいた。

なお、ライトボックスは、筆者が 10年程前に AZAMINO house

 のためにデザインしたムーバブルワゴンを転用したもの。

→ 本ホームページ Furniture のところに掲載

 

 

 

       

         〈海〉

 

 

 

 

写真:筆者撮影

 

紙のオブジェ | 畑龍徳作品

美 ○ 創造

 

友人のアーティストから個展への協力を依頼され、それがきっかけで

このたび、紙のオブジェを二種類制作することになった。

 

紙の 「ペラペラな感じ」 を生かして、紙ならではの造形をしたい…

これが、終始こだわりつづけた造形指針。

 

 

 

その展覧会は、《 異形の庭 》 というタイトルがつけられた展覧会で、

「庭をもつ住宅空間とともにあるギャラリー」 という空間の特性と

共振させながら、

 《 詩性のことば 》 と 《 抽象アート表現 》 が相互に還流しつつ

多相的に生みだされた作品群が

それぞれの場所を得ながら 展示されている。

 

これは、女性作家である佐藤省さんが

作りためてきた 《 肩ひじはらぬ日常表現作品 》 をベースにして、

内面世界を、「日常空間性を有する展示空間」 へと重ねあわせを

行ってゆく――そういう 「展示を考えるプロセス自体」 が

アート創造行為になっている展覧会である。

 

実際に、作家は庭がとても好きで、そういう作家が、

庭と住宅とギャラリー空間――という多様性をもった展示空間

を相手に 展示の構想を練る… 

あるいは、床の間の軸物のあり方を テーマにそって異化すべく、

専門の他者に制作の協力を求める… 

そうした 「他者との縁」 もふくめて、

 《 間(あわい)の豊かさ 》 を体現したインスタレーション――

といってよいであろう。

 

 

 

ギャラリーの入り口のすぐ横の 緑が寄りそう窓辺に、

作家がことばを記した短冊を差した 《 ことばの家 》 を置いて、

七夕の日のオープニングの来廊者に

小さな荷札に 何かことばを自由に書いてもらうお返しに、

短冊を一本引いてもらい、おみやげとしてさしあげる。

そういう 「ことばの交換」 をたのしく介在する 《 ことばの家 》 なのだが、

その紙の家を 筆者が制作してさしあげた。

特殊な半透明の紙を用いて、《 紙独自の薄さがもつ美しさ 》 と、

《 折り目が生みだす端正さ 》 とを、表現してみたいと思った。

 

 

 

 

 

 

人の頭の中は いわば無限宇宙…

意識の動きとか、外部からの感覚の刺激に触発されて、

無意識無限宇宙から、時々刻々、断続的に、

ことばやイメージが送りだされてくる…

そんなことを考えながら、《 ことばを発する人間 》 を抽象するような感じで

《 ことばの家 》 を作ってみた。

 

 

 

 

 

 

 

七夕のオープニングでは、和室に配されたさまざまな作品たちと

共鳴するように 舞踏家の趙寿玉さんが純白の衣装をつけて、舞った。

 

 

…彷徨する光の鼓動の下 昼夜 見えない一瞬を揺らぎ

野天に気泡を結わえる一双の舟…

 

 

作家自身によるこの詩のことばに呼応させて、

床の間一面に敷かれた珊瑚砂の上に

――この珊瑚砂は、展覧会の直前に 作家がたまたま出会った

小浜島のアーティストが好意で送ってくれたもの――

一筋の墨の線が引かれたロール紙を納めた 《 ことばの舟 》 が 二艘…

 

その一艘を、寿玉さんが手にとり、ロール紙を引き出して、線を読み、

メッセージを七夕の天空に届けた…

 

この 《 ことばの舟 》 を、舞い人が手にとることを想像しながら、

厚手のトレーシングペーパーでつくってみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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佐藤 省  ― 異形の庭 ―

2013.7.7(日)~7.15(月) 12:00~18:00 (最終日16:00)

ギャラリー 水・土・木/みず・と・き

東京都練馬区小竹町1-44-1  TEL 3955-2508

西武池袋線「江古田駅」または副都心線「小竹向原駅」より徒歩

 

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【追記】

 

この文章と写真を見た友人の新井九紀子さん(墨アーティスト) から

以下のすてきな感想が届いた。

七夕という、人が何かしらの記憶をもっている日に、床の間や庭のある画廊で

〈ことば〉 が紡がれた展覧会のオープニングがあったのは、素敵なことです。

〈ことばの家〉 や 〈ことばの舟〉 の かそけさは、観者それぞれの胸に、秘かに

郷愁を灯らせたことでしょう…

 

 

 

写真:筆者撮影