〈 矛 盾 の 立 体 〉 ──── 素純な形 と 奥ゆき│畑 龍徳 作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

私は シンプルな造形が好きで、しかもシンプルでありながら「ゆらぎ」の

ゆたかさを与えるようにしている。

そこに、創造という深い営為のおもしろさがあり、同時に、困難さもある…

そして、あえて「連想」を誘わない「無意味で、しかも、見たことがない

ような独自の形体」を求めて、創造という自由な遊びをしてきた…

 

 

ここに掲載したオブジェの素材は、一昨年 (2022) 掲載した〈虚空の立体〉

で用いた0,2ミリ厚の薄紙と同じものを使用している。

カラープリンター用の上質な紙で表面がコーティングされており

くっきりとした印象の独特の白さをもっていて陰影の妙が立ち上がる。

 

立体の形を保持するうえでほとんど限界に近いこの薄紙で、物質感を消失

させた「幾何学的な平面」による独自の美的形体を複数創ってみた。

 

それらは、それぞれに個性をもった形であり、形体相互の関係と

スペース的な間合いを考えつつ、円形領域の中に配置している。

円形の領域は、外方向への空間的な広がりのベクトルをもっているので

個々の形体をやわらかくその領域の上で遊ばせてくれる。

 

 

こうして、そこに個立端整の形体群の異/  」とでもいうべき

が生みだされた…

 

 

円形基板は回転することができるようになっていて、この工夫によって

オブジェに向けられた観者の視線が、回転によってもたらされる

「ほんのわずかなアングル差による《 瞬間的な景の変化 の妙を味わう

ことになるかもしれない ──────   そうした「微妙 の中にひそむ

わくわくするような宇宙的時空感覚」とでもいうべき《意想外の感動》を

期待する思いが、私の中にあった ……

 

 

 

 

           

 

 

平面がかろうじて立っているかのような

紙立体の一部に小さく四角に切り取られた穴から光が通過している。

その立体の影の部分にできた 光の穴 を凝視していると

地面にすい込まれていく感覚に…

 

吸い込まれていくのは精神なのか肉体なのか…

 

──── 金子清美氏(美術作家)による独自の直感世界

 

 

 

 

 

 

円形基板上の8個のオブジェ群は

 

抱  / 支、交 絡、囲 重、空 / 未、芽 / 初、開 口、曲 / 直、挿 / 受   といった

 

素純な造形原理 によって創られているのだが

 

その「素純な造形原理」とは、われわれのまわりに遍く存在している

「形」あるものが、ある源初的な生成原理にもとづいて形を成している

───── そういう独自な視点によって探求された措定的な原理である。

 

 

いいもわるいも明々白々のリアルな形として存在させられているオブジェ群

は、形それ自体として《シンプルな美》を体現するようにしているのだが

そうした具体の形体の背後に、この作品を作品たらしめている隠された

コンセプトが存在しているということこそがこの作品の真骨頂であり

見た目の形体はシンプルな様相を呈しているものの、全的にはきわめて

デリケートな複雑系の世界である。

 

 

そういうことで、本作品は、表層の裏側に隠れている種々の脈絡を愉しみな

がら「〈人生時空の哲理 を形にしたようなところがあり、したがって

本ブログを閲覧されている方々には、形体を 見る だけではなく、むしろ

それを  読んで  いただけるとありがたい!…… と思っている。

 

 

 

              

 

 

             

 

 

 

今回の作品は、昨年(2023年)12月に東京京橋のアートスペース羅針盤で

開催された「第16回 Message Art 展」という佐藤省氏(美術作家・アート

ディレクター)が企画するグループ展に出品されたものである。

 

多くの方々から本作についての感動のことばをいただいたが、作品が介在す

ることで、特別に妙味のある対話ができたことがなによりもうれしくありが

たいことであった。

 

アート作品は、完成すると作家の手を離れてそれ独自の世界を生きていく

──── 確かにそのことは一面の真理だが、しかし私は、自作を介して

美感覚の鋭敏な方たちと、具体のことばによって、作品に感じた印象とか

そのほかの思念のやりとりを愉しむ …… 

ふだんは意識にのぼらない「人生時空の深遠につながるような思い」が

アートが介在するがゆえにふつふつとする ──── そういう、そのとき

一回限りの時空を、とてもいとおしく感じてきたのである。

 

 

 

 

ところで、この機会を利用してぜひ記しておきたいことがある。

 

 

一回限りの人生をゆたかに生きるためには、自身があらゆるフェーズで創造

的であること、そして、内面宇宙が共融できるよき他者をもち、その無限性

の共融世界を愉しみ、大切にすることであろう。

人生時空の新鮮さと深さの醍醐味は、いまこの時の《瞬間》の中にある。

深く広く考えることも大切だが、《自分の軸》で、とにかく実行すること

である。

 

この現実の時空はゆたかさに満ち満ちている!

現実の時空は、いいもわるいもミックスされた世界であり、片方だけでそも

そも成立するものではない。ネガティブもきわめてありがたいことなのだ。

 

現実の時空に存在している《リアルな形》について眼を転じてみると

まず、人間が生みだすものは、人間存在の外の「自然界」は絶対生みだすこ

とはできない、というあたりまえの真実に気づく。

このことをまず最初にきちっと認識しておくべきであろう。

 

そして、人間が生みだす《リアルな形》のうち、《機能をもった形》は

考えてみれば不思議な形をしている。 《機能》の求めに応じて生まれる形

なので、それは力強さを有し、しかも、はじめて形にされるときのことを

想定してみると、ある「単一の機能あるいは複合的な機能」に応じて

それ以前には見たことがないような奇妙で不思議な形を体現していること

に気づかされる。

そして、機能的な形をつくるときにも、《本能》に根ざした人間固有の

《美意識》がおのずと動く。 しかし、あくまでも、美意識云々の以前に

《機能》が前提されているのである。

 

《アート》における表現体は、創造する人間の内面宇宙との往還で生まれる

が、そこに、先天的な才能とか、美的感覚とか、偶然性とか、脳と密接に連

動する手の動きとか ……  複雑系の宇宙が動き、そのすべては、明確には説

明できぬ《丸ごとの世界》である。 

そして、つねに、「未知なる世界」への探索であり、だからこそ、《新鮮》

である。

 

人生のプロセスにおける経験と記憶が、無意識的内面宇宙の《連想》を動か

し、内面宇宙内の想像できぬ複雑な脈絡と感覚器官を通したイメージとが

融合して、たとえば《具象的》な絵画とか立体作品などが生まれる…

 

そして、外界に存在する具体的な形とある意味の距離をたもちつつ、創作者

自身の無限性の内面宇宙の脈絡の中をさまよいながら、「これだ!」と閃く

直観的なアイデアの湧出に遭遇し、《抽象的》な表現体が生まれる…

いずれにしても、創作者は、自己が体験してきた世界を超える「新鮮な独自

世界」を見たいのだ。

 

 

機能的な形とは一線を画する《自由な表現体》を、自立的に生みだし、愉し

むためには、創り手が生きている時代とか、文化とか、あるいは、自己の

過去の記憶と連想性などと、脈絡をもちつつも、その全体を超越する

《自分自身にとっての真に新しい世界》を求めるしか道がない。

 

それは容易なことではないし、迷いの旅路でもあるが、だからこそ

その探索は醍醐味があるのである。

 

 

アートを生みだすことを愉しんでいるその人間自体が、この宇宙が生み出し

た存在なのだから、とにかく、この宇宙のスゴサは言語を絶しているという

のではまだ足りないくらいの《無限性の奥深さ》のスゴサである!

人間存在は自然系の内側にありながら、しかし、その人間の自律的な知は

宇宙の一部の一部の… ごくごく一部の範囲にしか永遠に及ばないにちがい

ないのだ! ───── このことこそが根底的なこの宇宙の矛盾であろう。

 

 

自己と他者 ─── 自分のことは自分が一番よくわかっていると簡単に考え

がちだが、実は、自己の持ち味を味わって愉しんでいるのは他者なのだ!

そうはいうものの、他者が創造したものや与えられた世界を受動的に味わう

だけでは、決しておさまらず、創作者は、唯一無二の自己独自の宇宙の中を

探索しつづける…

 

 

 

写真:筆者撮影

Copyright© Hata Ryutocu. All rights reserved.

 

 

《本》の異化造形──感動 と 増幅された《内なる迷宮》への誘い_                         佐藤省作品

美 ○ 会う 美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

《本》という人生に寄りそう存在───その本の形を異化する営為が見事なかたちで結実したきわめて秀逸な展覧会があった。 素材が《本》なので、異化の営為というプロセス自体が作家当人にとって《 人生という宏大な宇宙 》を深く見つめる特別の時間になったという。

 

作家によれば、縁あって出会った文庫本を、解体、一頁ごとに折りによって半立体化する営為は三年以上にわたったという。

その時間は、言の葉をとりわけ大切にして創造的に日々を生き、視覚的な表現体の優れたクリエイターでもある氏の ── 内面世界と実時空とを自由に飛翔往還する感覚的な宇宙の旅 ── あったのだと想う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作家の佐藤氏は、本の装丁に違和感を感じるとその本の表紙とか挿絵を自身の手で描いたもので創りなおしたりすることもしてしまう人だ。

 

今回の展覧会に並んでいる解体/再形体化された文庫本は、本のタイトルに惹かれ対象にしたものを含め、氏の内面になんらかの響きをもたらした120余冊…

 

既存本の異化造形は、つまり、本という「著者の人生時空の結晶」の《 他界 》の試行 ─── というギリギリのところでの営為だ。

それが控えていると、行きつけの古本屋で目にとまり不思議な縁を感じながら購入した文庫本を熟読することになってしまい、また、かつて読んだままになっていた蔵書の文庫本をふと取りあげて自ずと丹念に再読してしまった… と氏はふりかえる。

 

それは、いわば ─── 惜別の読書!───

 

 

本展は、作家にとっての「人生に絡み合う《 知の底 》との触想」の軌跡の ──多層的連想を誘う淡い造形詩──であり、作家のこだわりが手の温もりと共に伝わってくる愛着の《 人生詩 》もあったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

展覧会が開催されたギャラリーは個性的な独立した建物で、ギャラリーの入口を入った客は、室内空間いっぱいにびっしりと並べられた紙の造形物にであい、「これは…

スゴイ!」と目が釘付けになってしまう。 「DMからはまったく想像できなかった!」と 客の声がする…

 

 

2600余の同じ折り方の半立体がリズムをつくりながら並んでいて、でも、どれひとつとして同じものはなく、折られた半立体の個々の形と陰影が、微妙に変化しつつ連なり、しかも、場所によって唐突な変化も見せて… そうして、全体の並びの行と列とが、ゆるやかに蛇行し、広がっている…

その様相は、風でゆったりとうねる水面さながらの沈黙のウェーブ………とでもいうのであろうか。

しかし、個々の紙の立体はしっかりとそれぞれの形姿を顕示しているので、手仕事と自然的なゆらぎの景との共融が、こちらの視覚を泳がせ、宙吊り状態にされてしまう…

 

 

折られた素材は文庫本の頁の一枚一枚だから、古い本は紙の色が変化したりして、その色の違いが全体の景の中に、融けるように島状に浮かんでいる… それが、なんとも言えぬやわらかなメリハリを景にあたえていて…

ぬくもり感とともに、幾何的なムーブメントが、独特の美で息づいている…

ギャラリー内には天井中央のトップライトを通してしずかに天空光がそそぎ、壁はコンクリートで、木の床の上に並べられた折りの個体群は壁との間に人がぎりぎり通れる余白を残して空間一杯に展開されているので、《 硬質な壁面 》と《 紙の 軽やかでやわらかな印象 》とが心地よい対比で融和している。

 

 

 

 

 

 

 

この作品は、ギャラリー空間の特質を最大限に生かした《 空間共融 のアート 》であった。

 

《 特 時/特 場 の 瞬間的アート 》であり、つまり、一回限りしか出会えないアート!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外周の壁面には解体された120余の文庫本の表紙が点々と配置され、また、トップライトの大きな上部吹抜けの近傍に表紙が宙に吊るされ、かすかな空気の動きに反応している……

 

表紙のタイトルは見えるようになっていて、その配置にあたって、ここは!…という場所には、文庫本の中身に応じてジャストなものが選定され、作家の話を聞くとその意味合いが納得できる。

 

展示全体が、あくまでもさりげないありようで、またちょっとした気のきいた創意があちらこちらに込められていて、腰窓から望める〈坪庭〉との関係もふくめて、「眼にはいる《全体の雰囲気》をこそを調和させたい!」───という作家の強い美意識が伝わってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文庫本の解体/再形体化という長い時間の過程は、作家自身にとって、単なる作品創りというよりは「生きる時空そのものを深く考える《いまこの時》の新鮮な営為」であったのであり、一方、来廊者にとっては、展示されているものが《本》という特別の素材に由来する表現体であるので、感覚とイマジネーションとがおのずと《宏大な世界》へと誘われてしまう特別な自由時空を醸していた。  

 

そして作家自身が、、ギャラリーに作品を搬入するときから、折りの半立体のギャラリー空間中への展開をわくわくしながら行い、日々会場で、光の推移とともに移ろう景を確かめ、愉しみ、そして、来廊した他者と共に《この世界の妙》を想う───という贅沢で幸せな時間をゆったりとすごしたのだと思う。

 

別の表現をすれば、作家自身にとっての作品制作と展覧会は、ことばの世界を介しながらも「言の葉を超えた《人間内奥の無限宇宙への自由遊戯》」ともいうべき営為であったのであり、展示を訪れた他者は、《本》という特別なものが異化された《明瞭に立つ具体の景》を眺めつつ、解放の気に抱かれて思い思いの時間を過ごす ─── そういうゆたかな《響き合いの空間》であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の佐藤省氏の創作行為と作品は、通常のアートのあり方とはまったく異なる、言わば《異次元の時空》との遭遇であった!

 

 

その昔 父親の蔵書にうもれて育った氏は、今回の展示を

今は亡き父に見せたかった…と。

 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影

Copyright© Hata Ryutocu. All rights reserved.

〈 虚 空 の 立 体 〉─── ミニマルな点形と意図の外の配置       三次元的形体保持が困難な 紙の薄さ ゆえの美 │ 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

厚さ 0.2ミリの《白色の面》が生みだす光と影の世界…

ボリューム感が消え クリアにそこにある表相と

やわらかな陰影とが対比しつつ混交する…

「眼とイマジネーションの脈絡宇宙」が、定位せずに

浮遊していく…

 訴求力の強いアート作品とはここが異なり、観者が

作品によって限定的世界に強く引きこまれてしまう

のではなく、逆に、作品のやわらかな存在性から

「きっかけ」をもらいつつ内面宇宙の脈絡が自律的に

自由に生動していく─── そんな淡い浮遊的な世界…

 

 

作品の根底には、《重力》と「それがもたらす世界感覚」がある。

重力のもとでは、水平面から分離して立つ物質は最小限

3点で支持されることで安定する。

「くの字」に曲げた紙は、同じ原理で安定的に立っている。

その「くの字」の垂直方向の面に《水平の面》を付加する── この構成を点形の形姿の出発点にすえ、さらに基板上に伏せた水平面 あるいは 浮かせた水平面に直や斜めの面が絡まり、ゆらぎをもった複合景を形成している。

(折れ面を構成するすべての面が、単純な矩形またはその組合せでできている)

 

この作品は、個々の点形の《配置》が、作為的に決められていない!

点形の形姿を検討するために、マケットを0.2ミリ厚の紙で作っていたのだが

展覧会の展示台の寸法にあわせて予め用意してあった正方形のマット紙の上にマケットをできた順に奥のほうから並べていた ─── その偶然の《配置》がとても美しい景をつくってくれていたのだ…

 

 

明るい自然光が射し込むアトリエのテーブルの上にマケット群が置かれていたのだが、それをたまたま逆光方向から見た瞬間のことだ!

まわりの空間からくっきりと浮きあがる「物質性の消えた矩形の軽やかな表相」の明と暗とが重なりあい、視角のちょっとした移動で大きく変化する…

そして、きわめて繊細なグラデーションを呈するやわらかで美しい陰影がそれを包み込むように寄りそう…

 

これまでに体験したことのない《妙なる景》との出合い!

 

「ひかりの世界」へと ─── 導かれたような作品!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふりかえれば、マケット用の紙の選定が幸運を導いたのだ…

それは、水性インクのプリンター用紙であり、表面のコーティング材は、独特のホワイトだ。 その独特の「光線の全反射性」が超現実感覚を誘っている…

そして、0.2ミリという紙の薄さが「物質的な存在感」を完全に消失させ、三次元的立体を非現実化して、《光の純化世界》を出現させた。

それに加えて、非恣意的な構成による配置───という「ゆるさ」の力…

 

こうして、「明確な把握」が特質の《視覚》に対して、

その視覚感受の「慣性」を超越した視覚の脈絡宇宙を拓かせてくれた…

「慣らい性」は感覚世界でも強固に基盤をつくっていて、そこを脱け出すのは非常に困難だが、この作品は、

「質量感のない白色の片」と「霧のような陰影」とが共融して、観者を《視覚慣性の外》へと宙吊りにする…

 

「想像運動の慣性」を超越させる《ゆるさと共にある希薄な存在》のもつ力…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この作品は、昨年末(2022年)に東京京橋のアートスペース羅針盤で開催されたMessage Art展(*-1)に出品された。

 

本稿に掲載した作品写真には、私のアトリエの室内に拡散したソフトな自然光のもとで撮ったものと、ギャラリーの人工照明(LEDスポット+蛍光灯)のもとで撮ったもの、との2種類が含まれている。

これまでに記した作品に関する論は、アトリエでのやわらかな光線の中で作品を見たときの印象をベースにしている。

ギャラリーでの作品は、当然のことながら明暗のコントラストが強く出て、アトリエでの印象とは相当異なるが、

でもそれはそれで、より訴求力の強い見え方をしていて、多くの方々の口から「美しい!」という言葉が発せられるのを耳にした。

 

 

 

 

 

 

 

   本作に「光と影の階調のゆたかさ」を感受された

   召田能里子氏が偶然に捉えた共融美の写真 (*-2)

 

 

 

 

 

のアトリエでこの作品に接した現代美術作家の金子清美氏(*-3)は、作品に対する次のような印象を伝えてくれた。

 

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それはまるで自ら場を選んで立ち上がってきたかのようにそこに在る。

11個の立体物の連なるその空間は白色景となり

あらゆる思考の敷居を飛び越えさせる…

 

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同展の企画者である現代美術作家の佐藤省氏は、ユニークな視点からの丁寧な作品評を寄せてくれた。 以下にその作品評を掲載させていただく。

 

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照明を浴びた紙の、頼りない薄さが台紙から立ち上がっている形は、それぞれの形状をその位置に確保し、影を落としているのだが!─── 存在感はほとんど無く… それが、現実感を喪失していて…

 

前回の作品(*-4)が、非常に形の内奥をこだわり、それぞれの位置関係や影を細密に予測しての紙の姿だったのに比べてみると…

前作は作品範囲をきっちり決めて、結界を張っているようにも見えていたが

今回の作品は、地平へどこまでも広がっていくような…

自由に紙片が動いて見える。

 

こちらの角度から… と作家は作品を見る方向のことをを話していたが、その角度は確かに影が多重に重なり合って、人工照明によるごく微妙な分光現象をふくめた「立体の存在感」は素晴らしいのだが、しかしそれは当然のようにも思え、

逆に真っ正面から照明を浴びた、影の無い真っ白な形状が、妙に心にグサリささる。

何故なのだろうか?

 

この視角だと、影が無いのに、重なり合う形状が永遠と

彼方へどこまでも連なっていくように感じさせる…

影は、形を限定してしまうからかもしれない。 

影は、存在を浮き立たせながら…  時を刻むように、紙片そのものに潜む何か!─── を奪っていってしまうようにも感ずる。

 

際立つ白さの美しい紙片の織りなす世界ゆえに、あれこれ思う…

 

毎年、今回の作品の方がいい!───と思わせる作品を

生み出せるのは素晴らしいことだ。

これは、創造世界における作家の「許容量」の問題なのかもしれない…

 

佐藤省 記

 

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本作品に関する印象を、

 

現代美術作家のDominique HEZARD (ドミニック.エザール) 氏は、「線、光、オープン」…と、シンプルに三つのワードで語られ、また、吉田貞子氏は、「(形が)無造作に置かれている …   構築を崩していくその過程 …」と、間を置きながら話された。 

赤川慶祐氏は、「つかみどころがない… 癒される…」と語り、照明の当たる側ではビル群とかベンチの人とかに

見えたが、反対側に廻ったら、こんどは「影の美しさに

出会った!」と。

 

 

このような感想の言葉が鏡になって、その語り手の内面のさまざまな様相が察せられるのだが、私にとってはそこがおもしろい。

語り手が造形作家であれば、この世界の形あるものの

「本質」をどう捉えているのか? 関心をもっているのか? ─── そういう面を、見当違いをふくめて勝手に想像するたのしみが湧いてくる…  こちらが、その作家の実際の作品世界を知っている場合は、その世界との対照ができるから、語られた言葉の内容がその作家にとってどれほど基盤的なものであるかが推察されることもあり、たのしみがさらに本質的なものへと深まる…

 

 

ところで本ブログの中に、さまざまな発想の自作オブジェが掲載されているが、

たとえば、《水影》という作品は、山中の湿気をふくんだ夏の空気と明るい空の景、そして緑に覆われた山の斜面…といったものの漠然とした全的印象を、陶土を用いて形にしたら一体どんな形になるのだろう?─── と、自分の見えない内面宇宙の脈絡の創造性を遊んでみた作品だ。 

たまたま、その場所に陶芸作家の大きな工房があり、そこをお借りすることができたので形象化をすることができたのだった。

制作に先立って はっきりした造形のイメージがあったわけではなく、創作過程の中で瞬間瞬間にさまざまな美意識(たとえば、形のエッジをどう仕上げるか?…など 細かではあるが非常に重要な判断などをも含む壮大な宇宙の運動)が動き、その結果、思ってもみなかった形が眼の前に出現する! アートの美の創造には、自由な生のすべてが

かかわっていて、奥行が無限で実に壮大である、と思う。(*-5)

 

ちなみに、私は、Message Art展には第一回展から参加しているのだが、この展覧会は、今では ほどよい人数の作家たちが年一回集い、作品発表を行う貴重な場として純粋なかたちで機能していて、選ばれた作家たちがよい意味での緊張感をもって参加されているように感じる。

 

こういう発表の場があることはとても幸せなことであり、

自分も「今このときの 真に新鮮な作品」をこの場に持ち込むことで、展覧会のたのしさと、それを介したひととひととの関わりの妙を、私なりにすこしでも盛り立てられれば ─── と、ずっとそう思って参加してきた。

 

 

 

 

*1 ──  Message Art展は、現代美術作家である佐藤省氏の企画展で、年一回12月に開催されてきた。

今回は第15回展である。 

会場はこれまで何回か移動してきているが、一昨年から、京橋の〈アートスペース羅針盤〉で開催されている。

 

*2 ──  今回のMessage Art展に「蔵王のお釜」に因んで二重構造のすてきな陶オブジェを出品されていた作家。 「眼に見えないもの」に照準をあわせて作品制作をされているとのこと。

 

*3 ──  筆者設計の建築作品の中でアートウォールを制作してくれたことがある現代美術作家。アート作品に加え、秀逸なインスタレーションを多数見せてくれている。 本website および blog内に掲載されている氏の作品の中のいくつかを以下に掲げておくので参照されたい。 

 

証券会社サロン のアートウォール 2005年 →  www.ops.co.jp/ops016_17.html

同 上  →       www.ops.co.jp/ops016_18.html

足利CON展 インスタレーション《束の間》2018年 → http://ops.co.jp/wp/?p=1974

 

*4 ── 本ブログの中に、同作品に関する自作論があるので参照されたい。

http://ops.co.jp/wp/?p=2729

 

*5 ──  http://ops.co.jp/wp/?p=2264

 

 

 

写真:筆者撮影

─── 本文中(*-2)の写真:召田能里子撮影 

 

 

視 覚 の 本 能 性 の 外 へ │ 小スケールの形体と共にある     〈ほのかな空間性〉を感受する│畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

この作品は、小スケールで、二次元平面から立上がる

きわめてシンプルな形体をつくり、物質的な「形の存在」

と、その「近傍の空間」との 感受されないか、されるか

の きわどい共融のありようを、美的な状態で具体化する

ことを試みものである。

 

 

 

 

       

 

 

 

透明な空間は直接に見ることはできないが、たとえば聖堂

天井高の高い内部空間とか、パースのきいた長い廊下と

か、大きな平原の広がりなどに接すると、だれでも、気配

のようそこにある「空間性」を感じているであろう。

 

小さなスケールの3次元世界では、ふつうは「空間」を

見ることなく、「形」の方を見ていると思われるが、

しかし、モノとモノとの「関係」を美的に調和させよう

すると、そこにおのずと「空間」が介在してくる。  

モノの外姿自体が、相互に調和する関係であるかどうか

いう問題とともに、モノとモノとの間合いの関係とか、

まわりの空間のありようとかを同時に考えないと、調和

した世界にいたることはできない、ということはいう

までもない。

 

 

作品は、58センチ角の平面上に展開されいて、異なる

個形体が6個、その上に配置されている。

素材は厚紙で、それぞれの個形体は、まず紙に展開図を

描き、それを切り抜き、折り曲げによって作られた。

「接合」ではなく、「折り曲げ」にこだわっている。

 

人の視覚は、おのずと「形自体」に向かってしまうもので

あるが、それを避けるために、現実の空間体験から記憶化

される「既成の形体イメージ」、たとえば、建築とか、

そういうものから距離をとりながら今回の造形を行って

いて、それは、何か形を見たときにおのずと誘発されがち

「連想」の世界に行ってしまうと、意識がそこ止まりに

なって、「モノの形と共融してほのかに存在しているはず

の空間性」に眼が行くようなデリケートな視覚が立ち上が

るチャンス失ってしまう、と想像するからである。 

 

少なくとも視覚が鍛錬された人であれば「形相互の配置

関係」の良しあしを直感するであろうが、それは、意識が

自体〉に固着した中での〈空間性〉の感受であって、

今回の造形では、もっと解き放たれた視覚と無意識脈絡の

中で「モノの形と共融してほのかに存在しているはずの

空間性」におのずと視覚が向かうように、造形そのものを

工夫した─────そういうアートである、ということである。

 

厚みをもたない紙が、水平の状態から三次元へと立上がる…

しかも(折り曲げ)によって立上がる…、そこに同時に、

きわめて、きわめて、ほのかな空間が初々しく生起して

いるのを、静かに眺める…

 

 

───視覚原理をちょっとズラすような

                           そんな「美的オブジェ」───

 

 

前述したように、小さなスケールの空間では、人は

「空間」感受することなく、モノの「形」のほうを見て

いる。

そして、あるモノが、なにか他のモノを連想させること

しばしばあることから、今回の作品では、連想をできる

け招かないような、つまり、「現実世界の体験の中では

見かけないような〈形のありよう〉」を求めることで、

無意識下で呪縛されている「形のみを感受してしまう視覚

の本能」からできるだけ離れられるように工夫した。

 

そうすることで、「形体/近傍空間の共融」という原理的

な世界を、小さなスケールでの、初源的かつデリケートな

様相として、しかも美的造形に傾斜しすぎてそれだけに

はまってしまうの避けながら、ぎりぎりのところで

創生することを試みた。

 

 

個形体に関しては、いくつもの立体スケッチの中から、

今回のテーマに照らしてより本質的と思われるものを

厳選した結果、水平の面が垂直方向へと折れまがった

もの、垂直の面が壁状に連ったもの、コの字型の

ゲート状のものと水平の面の中間が山形盛り上がっ

たものとの組み合せ、水平面が基板から浮き上がっ

もの……等々の より初源的空間生成形体が配置され

ている。

 

 

写真では、ご覧になる方の想像的な感受になってしま

うので、肝心なところがお伝えできず残念ではあるが…

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作品は、今月の13-19日にアートスペース羅針盤で開催

されたMessage Art 展  vol.14」(*1)に出品した

が、作品に対する反応は当然のことながら、さまざまで

あった。

 

 

 

まず、本展の企画者の佐藤省氏は

 

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平面から立ち上がる形の変化が不規則に散在しているが、

その位置しかない!  とおさまっている。

 

その形をめぐって、「不可視の空間」が、影を通して見え

いる感じは、静謐な時を確実に維持しながら

「曖昧な儚さ」のようなものを孕んで…

 

そういう印象は、厚紙という素材の端正な姿からくる

「柔らかな硬質」という相反する特性が作用して

もたらされているようにも思う。

 

見えているのに、なかなか視界に収まらない宇宙を呈して

いて…

透明感に満ちた、鮮度高い香りを放っている作品だ

思う。

 

平面から立ち上がる形の高さが、高からず低からずで、

そのバランスの妙味はさすがだ!

 

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本展に参加した陶オブジェ作家の召田能里子氏からは、

「見たいと思っていたものに出会えた感じで、きわめて

シンプルな形の中に、深さがある…」との反応をいただいた。

「影が立ち上がったような形…」と、おもしろい感想を

語ってくれた和紙の造形作家である五十嵐美智子氏、

これから成長してような気配をもった造形… と

いった感じ方をされた人もいた。

 

作品の抽象性が通常のアートとはかけ離れているので、

どうしても記憶からくる形の連想性で感想を語る人が

いたが、一方で、作品を前にしてわかりやすく説明をする

と、会話が進展して、いろいろ感じているところを正直に

語ってくれた人が過去のMessage展の時に比べ多かった

感じで、今回の作品の特別な性格が、ゆたかな会話時間

を招来してくれたように思った。

また、観者が自身の好みで作品を選ぶのは当然であるが、

たとえば、創作家が、単なる好みを超えたところの

「何らかのおもしろさ」に関心をもつような、そういった

内面の広がりというか柔軟性と、距離をもった人にとって

は、とっつきにくい作品であったと想像するが、

ともかく、アート世界における「人の内面はそれぞれ…」

という自由は、かけがえのないものだし、また、個性を

超えて、人と人の間に「作品が介在しての新しい内面の旅

が開かれる…」という可能性があり、その旅が、人生の

滋味深い時空と絡み合っているところもあったりで、

なんともすばらしいと思う。

 

 

 

旧知の友人である藤井龍徳氏(*2)に、今回の作品の

趣旨と写真を送ったら、電話をくれて、作品をめぐる話

からこの世界の真髄にいたる話まで、おもしろい時間を

すごすことになった。

以下に、氏が語ってくれたことばの要点を記してみる。

 

 

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── 今回の畑作品を見ての印象 ──

 

とても心地よい作品で、紙という素材をこういう風に

使っているところが好きです。

何て言うのだろうか… 畑さんの中に浸みこんでいる

本来的にもっているものが、これまで、無意識下に抑え

込まれていたものが、出てきた…

一体、畑さんの内部に何が起こったのか? …

そんな印象をもった。

 

単に、美しいとか、おもしろい、とか、そういうものとは

違って、ここと関わりたいなと自分も思いつづけてきた

だが…

 

「不可解」ということばが大好きで、空間についてはその

大小いうのとは違う無限性の中のそれを思うし、時間に

関してもそれが、あるのか、ないのか… そういう感じが

ある。

 

作品の趣旨説明の中にある「共融」ということばにも

響いてくるものがあり、それは、空間の中だけに限られた

ことではなく、人それぞれがその「共融」の世界なのでは

ないか…

人は、仕分けしたり、固定することで、ものごとを捉えた

がるが、そもそも、「固定できない」ということが

もっとも重要なことでは…

 

 

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*1 ── Message Art展は、現代美術作家の佐藤省氏が

             企画する展覧会で、年一回、12月に開催されて

     きた。

     会場はこれまで何回か移動してきているが、

     昨年から、京橋の〈アートスペース羅針盤〉で

     開催されている。 

 

*2 ──  藤井龍徳氏は、自然界に深くつながりをもった

     インスタレーションを行ってきた。過去に私が

     書いた作品あるので、ご覧いただきたい

             http://ops.co.jp/wp/?p=81

             http://ops.co.jp/wp/?p=1152

 

 

 

写真:筆者撮影


変 幻 す る 素 材 に よ る 造 形 ─── 簡素な構成による複雑景    〈明瞭と妙〉│ 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

機能をもつもののデザインではなく、もっと自由なかたちで

〈おもしろい形〉を生みだしながら、〈今このとき〉という現在進行形

の時空で、真におもしろい形、新鮮な形、観者を宙吊りにする〈とらえ

られない不思議な形〉、あるいは、ほんとうに美しいものに出会った

ときに無心で作品と一体化してしまうことがあるが、そういう〈全的に

完結した単純美〉というのとは異なるもの ─── つまり、ひとつにまと

まっていない〈どこかで開かれたところのある世界〉としての作品……

これまで、そういう〈形をめぐる探索〉を私はしてきた……

 

 

作品という具体の形と、ことばによる説明とは、もともと別の世界では

あるが、それでも、ことばによって、 「形をめぐるさまざまな脈絡」 に

ついて考え、無意識下の世界との脈絡に関してあえて直観的な想像を

あれやこれやとめぐらしながら、形や美の深淵に触れようとする

─── そういう人生上のたのしみが私にはある。

 

ある人がアート作品を見たときに、体験したことのないものを作品に

感じ、惹きつけられ、気持ちが動き、視点の移動に応じて形と空間性を

たのしみ…… そして、ある種の世界観とか人生観といったものまで感じ

とるかもしれない……

 

 

とにかく、まずは、自分の手を動かしながら 「〈具体の形〉を生みだす

感覚的で、知的で、情感的な、探索の旅」 に乗り出すこと。 

そうしないと、なにも始まらない……

 

 

 

今回の作品に用いられている素材は、アルミメッシュと白色の厚紙の

2種類。

シースルーなアルミメッシュの方は、とても繊細な線材で構成されていて

ひとつひとつの菱形状の開口を囲む線材に角度がついているので、光の

当て方変われば見え方ががらっと変わるし、見る角度がほんのすこし

変わるだけで材の部分部分の表面の輝/影が反転したりして、全体の景が

意想外な変わりかたをみせる…… 場合によっては、作品の背景の明度に

溶けこんでしまい、作品の部分あるいは全体の姿が消失してしまうこと

さえある……

(→ 同じアルミメッシュを用いた前作 「明滅する瞬間」 のブログを参照

されたい *1)

 

 

そのように変幻する形姿は、見る者に不思議感をさそい、その不思議感が

作品から湧いてくるものを、より見えたり、より感じさせたりしてくれる

にちがいない。

 

作品のもうひとつの素材である白色紙は、これも光線や見る角度によって

背景の白い壁面に同化してしまい、形の輪郭が定かでなくなることがある。

 

そういうことで、ここに掲載した作品写真を見ると、それぞれの作品の姿

がおおきく変化しているが、すべて、同一の作品をいろいろのアングルで

撮影したものであることを記しておきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

作品創りは、自分の〈形に関する美意識〉をつねに働かせながら

試行を重ね、そして、結果としての〈具体の形〉が、とにかく

おもしろいものになることを目指す。

いくらコンセプトが考えぬかれていても、結果の形に魅力がなければ

ダメである。

 

 

今回の作品のタイトルは、「明瞭と妙」 としているが、そのタイトルの

意味するところを〈実存形〉に表現するべく目的的に制作をおこなった

─── ということでは、決してない。

 

「明瞭と妙」 という概念は、人間が生きるこの世界の根源的なふたつの

次元である〈限定〉と〈全体性としての宇宙〉のことを表していて

たとえば、〈記号〉とか〈ことば〉は、限定原理の上に成立している。 

一方、たとえば音楽とか味覚とかの世界は、全体まるごとが感受されて

たのしむものである。

 

科学的思考あるいは正確な思考は〈限定原理〉による明瞭の世界の一方

の極域にあり、芸術は〈妙〉を味わうもう一方の極域にあって、ともに

純化された基底的世界である。

人は、〈明瞭〉と〈妙〉のふたつの世界を、いったりきたりしながら

きわめて複雑な生き方をしている……

 

 

こういう〈明瞭〉と〈妙〉というふたつの世界についてのイメージや

概念は、世界観の座標系のようなかたちで、つねに私の頭の中に活性的

に記憶されている。

そもそも今回の作品創りは、一年前に制作したオブジェ 「明滅する瞬間」 

に用いたアルミメッシュという新しい素材のさらなる造形の可能性を求め

てスタートした。 

そこでは、「相互に異質な特性をもつ〈形体〉の対峙/共鳴(=完結的な

統合ではないもの)」 という〈構成テーマ〉を考えていた。

そうして〈形体の可能性〉を探索してゆく途上で、〈明瞭〉と〈妙〉と

いう興味深いふたつの概念無意識世界から立ち上がってきて、「物質的

存在としての形のおもしろさ」 をあくまで第一義考えつつも、そこに

このふたつの概念が自然にからまってきたのである……

 

 

 

 

白紙による造形は、一枚の紙を、カットと折りだけで立体化したシンプル

に徹した作法でできているのだが、やや複雑さを感じさせるその構築的な

形姿は、暗に、〈明瞭〉と響きあっているようなところがある……

 

 

 

 

 

 

 

 

一方のアルミメッシュによる造形のほうは、平板を視力検査の記号のよう

に一部に切れ目をもった円筒に加工して、その開いた部分に紙の造形を

微妙に入りこませた。    

さらに、その紙の造形と共鳴させながら、円筒内の空間の〈内奥の芯〉

としての自立型の〈小さな円盤〉を配置した。

この円盤も、一枚のアルミメッシュ板から、カットと曲げだけで作られた

一体型の作りであるが、円筒メッシュ越しにその〈存在〉に気づくのは

反射光で円盤が光っている限られた角度からであり、だから、はじめて

作品を見る人は、円盤があることに気づくのにすこし時間がかかったり

する。

 

 

 

 

 

 

 

 

それに加え、円筒メッシュ越しに見る〈紙の造形〉の方も、見る角度で

同様に形の一部が見えたり消えたりするので、作品全体の景は、眼線の

移動にともなって、それこそまったく想像のできない変わり方をみせて

くれて、それが、この作品の〈不思議さ〉を増幅している……

あるかないかの希薄な存在感の〈小さな円盤〉を内に秘め、微妙な

シースルー景を見せてくれる円筒メッシュによる空間構成ほうは

見る側の無意識世界の無限脈絡との関係でおのずと立ちあがる〈妙〉の

世界と、暗に、響きあっているようなところがある……

 

結果として、作品の物質的な形姿と、もともと私の頭の中に活性的に記憶

されていたこうした概念との〈あいまいな呼応〉を抱きつつの造形は

作品の景の見え方に、観者の内面における無意識的背景の脈絡による

〈ゆらぎ〉の味わいをそれとなく添えてくれているのではないか ───

と、私は勝手な想像をして、たのしんでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の作品は、素材自体がもつ〈表情の変幻性〉、アルミメッシュ越し

〈透視像の明滅性〉───────  という基本的な条件を生かしつつ

ルミメッシュと紙というまったく異質な素材を対峙/共鳴するように

「シンプルに徹しつつも、単純ではない形体」にそれぞれを造形する

ことによって、限定されたスケールの実存立体の中に

見る側の〈内面の無意識時空〉への奥行きとともにある《複雑景の妙》を

これまでにないかたちで実現できたように思う。

 

そして、作品を見る眼線の移動と、おのずと動く視界の限定/拡大運動に

もなって、《複雑景》は、さらに別の、まったく意想外な景へ

自然に、ひらかれてゆく……

 

 

 

 

 

*1 ────   明滅する瞬間    制作・発表:2019年    

                      http://ops.co.jp/wp/?p=2423 

 

** ────   明瞭と妙 制作・発表:2020年

 

 

写真:筆者撮影

 

変 幻 す る 物 質 の 形 │ 畑 龍徳作品 〈明滅する瞬間〉

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

光の反射と影の複雑なグラデーション模様が視る角度できわめて鋭敏に

変化するメッシュ面が、たがいに重なり合って透視されるとき

一つの面が明るく浮き上がったかと思うと、他方の面が完全に消えて

しまったり  ──────   瞬間瞬間に、そんな意想外な姿を見せて

くれるこの造形は、自立するようにL字形に曲げた2台のスクリーンと

1枚のメッシュ板から展開図を切り抜いてそれを折り曲げてつくった

底板のないキューブ、の3種類の形素を組み合わせただけのきわめて

シンプルな構成である。 (*1)

 

 

作品にあたる光線や、作品とその背景の壁面との関係、それに視線の

角度によって、そのきわめてシンプルな形の存在感が、それこそ複雑多様

変容し、物質が光とともにまわりの空間と融けあったような印象があり

極端な場合、ある角度から撮られた写真にそこに置かれているはずのこの

作品がほとんど写っていなかった……といったこともあった。

 

 

「固体の確たる形姿」 と 「光の反射性とメッシュ越しの透視像の変幻とが

もたらすつかみどころのない様態」とがギリギリの際(きわ)で融けあっ

作品全体が、とらえようとする視覚の限定をすりぬけるようにして

そこに在る  ──────  言葉で表現するのはむずかしいが、そんな印象

もたらす作品であろうか……

 

 

 

制作に用いたメッシュ板は、きわめて目が細かいアルミのエキスパンド

メタルのメッシュであるが、この繊細な素材に形を与ええたらどのような

詩(うた)をうたうだろうか? 

──────  そういう「求美の旅」をしてみた。

 

これは、あらかじめ前提にされた形のイメージは一切ない中の制作で

素材が本来的にもつ可能性を発見してゆくプロセスそのものが命の

制作であった。

 

 

 

メッシュの各開口は菱形で、 対角線長 11.5×6mm、線材太さ 0.6mm

という繊細さで、その製造方法は、アルミ薄板0.5t)に長さ13.5mm

の切れ目を1ミリ半ほど離して破線状に入れてい

それに平行して0.6ミリ間隔で、切れ目の位置をちょうど半分ずつずらし

ながら、同様の切れ目を入れる工程を繰り返していく。

 そして全面に切れ目が入ったところで、切れ目の方向と直交する方向に

引張力を加えて展開すると、それぞれの切れ目が菱形に展開し、菱形開口

が連続たメッシュになる  ──────  これはちょうど、紙に切れ目を

入れてつくる七夕飾りと基本原理は同じである。

 

 

引張力で展開するときにメッシュを構成するそれぞれの線材は一定の角度

でよじれるので、その角度のついた線材の側面で反射する光が、メッシュ

の全面にクリアでリズミカルな輝影模様を描く。  そして、視る角度の

わずかな違いが、輝影模様をがらっと変化させてしまう。

ここが、普通の金網とは異なるエキスパンドメタルメッシュ独自の特徴で

しかも、厚さの薄いメッシュ板は平面状に整形しても自然な歪みが残るから

その歪みがメッシュ全面の輝影模様をさらに複雑微妙なものにし、そこに

変則的なグラデーションが生みだされる。

 

 

さらに、実際の作品は前述したように三つの形素で構成しているので

その形素それぞれを構成する各メッシュ面の角度はそれこそ多種多様になり

形素の集合をある方向から眺めれば、各面が直視される部分とシースルー

される部分とが複合されて、作品全体のコンポジションとしての輝影模様は

静謐な佇まいの中に言葉を忘れさせるような複雑な妙を呈することとなる。

 

 

そして、そうした複雑な輝影模様が、観者の視点が移動することによって

その部分部分を意想外に明滅させながら、一期一会的に変化していく……

 

 

静止体としての作品が、観者の視点の移動に応じてその表情を鋭敏に変幻

させる点からみれば、これは、むしろ動的な性格の作品とも言える。

 

 

 

 

 

 

 

 

エキスパンドメタルは現代的な工業生産材であるが、市中でよく見かける

ものは線材のエッジが立った無機的なゴッツさのある表情をしている。

ところが、製法は同じでも、今回のようなきわめて繊細なエキスパンド

メタルの場合は、まるで異なるデリケートな表情のものになってしまう

ところがおもしろい。

 

 

 

 

アートは〈響き〉であり、それは、無意識世界の、その人の、そのときの

生きて変化しづける「無限性の脈絡」が基盤になって生起しているので

あろう。

どんなにエネルギーを注いで、きちっと構成された作品であっても

確定的で、すぐにとらえられてしまうようなものは、つまらない!

 

 

 

《 ゆ ら ぎ 》 ──────  これが、アートの命であるにちがいない。

 

 

 

 

 

 

 

*1 ────   明滅する瞬間 制作・発表:2019

 

 

写真:筆者撮影

 

内景のオブジェ │ 絵を描くようにして形を創る… │ 畑龍徳作品

美 ○ 創造

 

 

 

 

 

 

 

頭の中の「先行する形のイメージ」にまかせて形を創ってゆくのではなく

石塑粘土という「手による造形にかなり抵抗するところがある《塑性》」

とつきあい、いたわるような感じで、《手技のたわむれ》というルースな

おさまりを良しとして形を創ってゆく…

この作品はそんなオブジェで、筆者の造形志向の芯にある「シンプルと

シャープの力」をもっぱら生かしたものとはひと味ちがった「あたたかみ

を湛えたフォルム」が結果として生まれてくれた。(*1)

 

 

作品は、3つの部分から構成されていて、それらを合体させると最初に

掲載されている写真のように「側面に亀裂が入ったやや平べったい繭形」

になる。

開けて中を覗きたくなるその繭形の上側と下側のシェルの内側には

「ヒトが生を展開している基盤としての二つの世界」が内包されている。

そして、その二つの根元的世界の間に、「〈守存領域〉の確保」、つまり

地球上の多様な気候風土と表裏一体に脈絡しつつ、個々のヒト、および

さまざまの社会の生存独自性の持続を支える「空間の住み分け」という

テーマを水平面の抽象造形としたものが挿入されている。

 

これらの全体は「地球上に展開する「ヒトの生の根底」を全的に形象化

した《宇宙繭》」とでもいえるような包括的な意味合いの作品になって

いる。

このようにきわめて大きい抽象的事象を、具体の形に抽象する ────

こういう創作は、筆者にとってはじめての試みであった。

 

 

 

 

 


構築                              自然

 

 

 

 

繭形の上側シェルの内側には、「無限の脈絡の中にある生命体を含む

《自然》」の性状を抽象的に表現しており、下側シェルの内側には

「ヒトによって構築されてきたさまざまなもの」のありようがメタファ

として抽象的に表現されている。

 

 

ヒトの生にとって

 

○ 《未知および不可知の無限の脈絡の中にある自然界》

                    →  根元的なゆたかさ│物足りなさ

 

○ 《ヒトによる限定的世界としての進化の世界》

   →  合目的に導かれる可能性│ある意味のかたさと全的な面での不完全性

 

 

 

このニュアンスを、シェル内の形態に滲ませている。

 

 

〈限っての営為〉―― ヒトの世界の思考や構築などは、すべてこれである。

しかし、生命体やその内面をふくむ自然界は、ヒトによって意識されない

あるいは、隠された「無限の脈絡」のなかにあり、これをどうこうすること

はできない超越的な世界である。

自然界はほんとうにゆたかだが、しかし、それだけではヒトの生がなり

ない…   ものたりなさがある…

 

ヒトは、自ずと探索し、創造する…

しかし、社会制度などををふくめ、ヒトによる〈構築〉には、ある意味の

「不備やカタサ」がともなってしまう。

 

ヒトは、新しい世界を求め、そして、馴染み、飽きる…

〈変化や深化の時空〉という個々の人生…

そして、その集合体としての社会…

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒトは、他者や環境とつながりをもち、ゆたかさを求めて生きるが

そのつながりの総体は、集団(家族、民族、同質文化圏内の人々…)の

性格や規模のレベルに応じて、それぞれに適当な〈空間領域〉を必要と

する。

そして、そういう空間領域の〈占有〉にかかわるそれ自体つねに変化して

ゆく複雑な脈絡と、異種領域間のぶつかりあいの問題… 

 

 

いま、ヒトの行方は…?

 

地球の行方は…?

 

 

本作品を見て、「これは、地球に亀裂が入っている ── そのように見え

る」 と、アーティストの周豪さんが感想を語ってくれた。

その言葉が、印象に残った…

 

この作品に用いられている石塑粘土は、造形後、含水の自然蒸発によって

収縮が進行する。その収縮で、《宇宙繭》の側面の三つのパーツの重なり

合いの部分に、自然に、意想外な隙間が生まれた。

 

生命体も、地球も、水と大気に支えられたそれは奥深い《循環》によって

生かされている…

 

 

 

ヒトの内面が目指すエネルギーと、向こうからやってくるもの ──

それらの共合としてのすべてのヒトの営為…

 

 

 

 

*1──   内景のオブジェ │ ヒトの行方──その可能性とあやうさ

               制作・発表:2018年

 

 

写真:筆者撮影

 

そもそも生命体がこの世界に存在していることの超越的不思議     ── 畑龍徳作品〈生成と消滅〉

美 ○ 創造

 

 

この世界では、まず、〈空間〉が広がっていて、そこに、物質的な具体物

が存在している …

 

気体でできた空をながめているときは、雲の形と無限にひろがる空間とを

同時に見、感じている …

 

しかし、立体アートをながめるときは、作品のシェイプのありようしだい

で、主として、シェイプそのものに眼が引かれてしまうこともあるし

それとは反対に、シェイプの存在があることで、かえってまわりの空間を

雰囲気的に感じることもある。

 

 

 

 

 

 

 

空白の造形 …

 

この作品は、〈形そのもの〉の構成によって表現体をつくるのではなく

物質的存在のまわりに寄り添っているかに感じられる「空白」を意識しな

がら、「最小限の形体」によって表現体をつくってみた。

素材は半磁土。(*1)

 

長方形の4枚の陶板は、「大地」を象徴し、その上にある空間は、「宇宙

への広がり」を表わしている。 

その大地から、どういうわけか生命が生まれ、人間という知技の生命体へ

と進化してきた ── そのことの、まさに超越的な不思議!

 

 

作品は、左から

 

黎明 → 知技的生命体の出現 →  創造 →  進歩と囲繞化

 

の各ステージを表している。 

 

 

 

人間は、自分のまわりに、人間特有の人工世界を創造してゆく…

人工的な創造物には、建築のような物質的な存在もあれば、インビジ

ブルなシステムもある。

 

初期のうちはよかった。 が、気づいてみると、いまや、競い合いを

通して淘汰された「全体性の中に強度をもつ人工的世界」の中へと

「唯一性宇宙としての人間の個々の生」が歯車のように埋没し、受働

態に傾斜してしまった感がある。

システムの強力巨大複雑化とその慣性モーメントの中で、個々人の内

的宇宙への脈絡の密度がとかく薄まりがちで、浮遊化を余儀なくされ

ている人間たち …

 

 

 

 

*1 ──   生成と消滅 制作・発表:2010年

 

 

写真:筆者撮影

 

五感が受けた〈土地の全的印象〉を〈視覚表現体〉にする    ── 畑龍徳作品〈 水 影 〉

美 ○ 創造

 

 

視覚でとらえた風景を、具象的あるいは抽象的に表現する──

というのでなく、視覚以外の印象をふくむ〈全的な感興〉を

「〈形〉という確たる存在」として造形固定化すること…

 

夏の陽射しを受けて輝く鬱蒼とした斜面林にかこまれて、開け放たれた窓

からはきもちのよい涼風が通りぬけ、近くに遠くに、蝉の鳴き声と小鳥の

さえずりが、じんわりと湿気を感じさせる大気の中を伝わってくる…

中之条のはずれの山奥にたまたまあった陶芸アトリエの片隅を使わせて

いただいて、そういう環境のリアルな体感を、まさに即興的に、〈形〉に

したことあった。(*1)

 

いま、身体のまわりの環境の、何を、感じているか…

視覚でとらえられた印象だけではないもっと全体的な感興というもの…

 

その感興にもとづいて、〈造形〉という「確立指向の創造行為」を行う。

この行為は、作り手の主観による「ごく自然体での感覚主題の抽出」

いう限定化をふまえながらの、〈形〉という固定的異次元世界への変換

ある、それも、結果としての〈造形〉が、それこそ種々雑多な形が

錯綜して存在する〈いまの現実〉という宇宙の中で、「単独の存在」

して新鮮に響くものとしてなんらかの魅力をもたなければならない。

 

いうまでもなく、この造形のプロセスは、いわゆる「説明的なもの」では

まったくない…

 

そういう構想の全体を、自分の直観にまかせて、造形のプロセスを自由

自在に行ったり来たりして、〈形〉にしてゆく…

 

シンプルで端正な形 ── これは、私の好みである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作品が生まれて、あとでふりかえって考えれば、このオブジェは

 

   水  影   ――  水、そして遠方からの生き物たちの声 ――

 

というタイトルが似合うかな、と思った。

 

 

 

 

 

大自然の循環を支えている〈水〉…

 

生命体を根底から支えてくれている〈水〉…

 

 

 

 

 

 

 

 

*1──   水    影  │  水、そして遠方からの生き物たちの声

陶  218×125×41mm  制作・発表:2011年

 

 

写真:筆者撮影

 

連想世界を たゆたう澄明な作品群…│金子清美作品〈海座敷〉

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                          波の華

 

 

 

 

昨年につづき、足利のCON展*1に参加した金子清美さんが、内陸地である

足利市の古民家の二階の和室を使って、〈海座敷〉という大胆なテーマの

インスタレーションを行った。

松村記念館という百年近くまえに建てられた中心市街地の中のオアシスの

ような緑ゆたかなお庭の力強く優美な赤松の眺めと、伝統的な和風建築の

もつ陰影のゆたかさとともにある品格ある美しい室内空間と共鳴しあった

澄明な作品群からなるインスタレーションで、見る側の魂を自由に遊ばせ

てくれる、内面世界のさまざまな連想の不可知の脈絡に分けいらせてくれ

るような、さりげない誘いとしての美的形象化 ─── そういうおおきな

構想の展覧会であった。

 

ほの暗い階段を上り二階に行くと、そこに座敷に入るまえの畳敷きの小間

があり、小さな窓の障子戸越しのやわらかな光線とともに静謐の空気に包

まれる…

右手の小さな開口をもつしゃれた障子戸の先に十畳二間つづきの奥行きの

ある座敷空間が見通せ、そこに入るとすぐに、左手の縁側のガラス戸の

むこうに赤松の美しい色合いの分岐する樹幹のうねりが迫っていて、なに

はさておきその存在感に感動させられる…

 

このダイナミックな赤松の存在が、金子のインスタレーションの端緒を

導いた

 

─── 白砂青松 ───

 

はじめてこの赤松を目にしたとき、金子は〈潮騒〉を聞いた、という…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨年の金子のインスタレーションは、空間利用を前提にある程度の維持管理

がなされている空家の一階の和室で行われたのだが

今回の松村記念館は、ご当主の美意識によって支えられながら〈生かされて

いる空間〉で、ふだんは松村家伝来の書の扁額や掛軸などが飾られていて

一般に公開されている。

インスタレーションを行うにあたり、必要に応じてそうした展示品をなしに

して、和室空間の佇まいを「素な状態」にもどし、そこに、金子の作品群を

配置する ─── そうして、金子の作品群と、座敷の空間と、そして窓外風

景とが、相互に共鳴しあった見事な〈海座敷〉が生みだされた。

 

〈連想〉 ─── と、ひとくちに言っても、その奥行きは深く、しかも

連想のプロセスにかかわる脈絡そのものはつかむことはできず、ただ、その

結果が現象するのみである。

 

 

 

〈海座敷〉では、海を基点とする連想要素として6種類のものが造形された

 

・波の華                               nami-no-hana

・たまてばこ

・カケジク(掛軸)

・深淵            shin-en

・潮音            cho-on

・ヒョウリュウブツ(漂流物)

 

 

 

◎◎◎

 

インスタレーションの中核をなす〈波の華〉は、奥座敷の中央から南面の

縁側へと展開され、床上に直接並べられたコーヒーフィルター群 ──白色の

ものと、生成りのもの2種類と、青墨染めのもの、の4種類── の上を

フラットとうねりの面で変化をつけた半透明のロール紙がカバーしている。

前座敷に入るときに、この〈波の華〉が向こうの奥にのぞまれ、奥座敷への

空間のパースぺクティブの焦点になっていて、空間全体のたたずまいを引

きしめている。

 

この〈波の華〉は、「大海の、人間の力のおよばない〈生動〉」と連想呼応

していて、その大海は、人間の命と魂のよってきたる原初的宇宙であり

人生時空における よすが でもある。

抽象的に異化され、しかもやわらかく〈連想性〉に開かれたこの金子の

作品に、「窓外の赤松」という生命力ある本物の自然が、対峙している…

コーヒーフィルターは、金子が長いこと作品づくりに用いてきた素材で

あるが、そのろ過作用は、海のもつ「魂を浄化してくれる根源的な力」と

呼応している…

半透明紙を通して浮きあがるコーヒーフィルターの像は、説明をされなけ

れば、それが何なのかわからない人が多いと思われ、これまでに見たこと

もないようなとても不思議な美しさを漂わせている…

それは、最初の命が誕生した大海に潜む「不可視の種子」の幻影のように

も感じられたのであった…

 

 

 

◎◎◎

 

たまてばこ〉は、波の華と呼応した作品で、金子がはじめてコーヒーフィ

ルターによる立体作品化を試みたものである。

 

 

 

 

透明の薄いアクリル板で作られたボックスの中に〈波の華〉で用いた素材と

同じものを内蔵させて、じつに幻想的で不可思議な空気に包まれたオブジェ

を作りあげた。

端正な透明感の中に潜む「霧中に溶けいるようなグラデーションの像」は

普通の三次元造形にみられる反射光による形姿ではなく、虹のように

「〈光の粒子〉そのものが生みだした造形」のようで、まさに他に類例の

ない極美を体現している。 今日的素材、しかも、日常の近くにある素材を

用いての極美の造形といえよう。 それはまた、置かれた場所の光の条件に

よって、あくまでもデリケートなトーンのなかで、表情をがらっと変化させ

る…   いつまでも見飽きることがない光のオブジェ…

 

この作品が漂わせる摩訶不思議な雰囲気が、浦島太郎の物語の玉手箱という

連想を引き寄せてくる…

〈たまてばこ〉の外側に結ばれている純白または赤い細ヒモは、単なる飾

りではなく、嵌めあわせになっている底板と上箱とを一体化する役割をして

いて、その上でこの作品の視覚美を構成する要素にもなっているのはもちろ

んだが、ゆったりと結ばれた蝶結びを解いて、中の仕組みを覗いてみたい

─── という気持ちがおこったとき、この白と赤の蝶結びのヒモが容易に開

けられる様相をもっているがゆえに、誘惑されるが、しかし浦島物語と響き

あって、「開けてはいけない!」というメッセージが頭に浮かぶ ───

そういう仄かなシンボルとして活かされている。

 

 

 

 

 

 

◎◎◎

 

カケジク〉は、遠目ではわからないが、じつは平面の紙の上に描かれた

ものではなく、立体的な掛軸になっている。

 

 

 

 

金子が自宅の庭で育てているワイヤープランツを乾燥させたものを

〈波の華〉に用いている半透明紙と同じ紙の上に、あえて偏心させた配置で

重ねている。

 

そのワイヤープランツの枝のラインにそって、じつは鉛筆によって背面の紙

の上に細い線が描かれており、見る人は、説明されないと、それがワイヤー

プランツの影だと思ってしまう…

よく見れば、ワイヤープランツの本当の影が、暗色の壁に囲われた床の間の

仄暗い光の中で、模糊とした様相でそこにあることがわかるのである…

 

 

 

 

ここでは、自然界の生命体が生みだす「実物の形姿」と、それに愛着を寄

せる金子の「美意識」および「手による行為」と、そして、われわれが生き

るこの三次元時空での「ゆるぎない必然法則としての影」とが、床の間とい

う特別の空間の中で、「〈共〉の世界視」として象徴的に結晶化されている。

この〈カケジク〉は、掛軸の通常の有りようから異化されることで美の訴求

力を獲得しているのだが、それだけではなく、ワイヤープランツという

「自然物が生みだして、金子という人間側の美意識を感応させた

〈自然側生成×人間側感覚〉の、極度にシンプルな呼応造形」であり、その

感応の脈絡構造は、生け花と通じるところがある。 しかし、この〈カケジ

ク〉は、生け花ではなく、掛軸なのである。

 

 

 

 

 

◎◎◎

 

深淵〉は、浜辺に打ち上げられた海藻(アカモク)を乾燥させたものを

透明なアクリルのボックスに封じこめた作品群である。

 

 

 

 

 

 

奥行きの浅いボックスを立てた形のものと、キューブ状のボックスに海藻を

入れたものと、二種類のものが作られた。

外光で透ける竪繁組子の障子を背景にして配置された〈深淵〉は、やわらか

にろ過された光の中で、複雑なシルエットを舞い、障子の組子のシルエット

と融けあって、独特の美を生みだしていた…

奥座敷の正面右手の床脇の地袋の上に置かれたキューブ状のボックスのほう

は、暗色の壁と地板に囲われた仄暗い空間の中で、深海の静寂世界を連想さ

せた…   自然界および生命体の、驚異としかいいようがない、奥深さ…

 

 

 

 

 

◎◎◎

 

潮音〉は、作家が以前からストックしていた生成りの帯締めを用いての

造形で、海に近づくと、視覚よりもさきに岸辺にうちよせる波の音で海を

感じるように、海といえば鳴動の音 ─── それをシンプルなかたちで造形

したものである。

 

 

 

 

渦の造形群を並べる下敷きに用いられた白く染色された正方形の畳は、座敷

の現実の時空と距離を生みだす作用をしていて、観者の中で、遠くの海への

想いがおのずと立ちあがってくるのを暗にたすけているところがある。

 

〈波の華〉の半透明紙の造形は、昔よく目にした、呉服屋が反物を顧客訪問

販売するときに、畳の上に慣れた手つきで反物をサーッと展開する様を想い

おこさせるものがあったが、〈潮音〉の帯締めという素材は、そういう想い

出の中のイメージが介在して、〈波の華〉の造形や座敷の和風の空気と

じつは連想の脈絡でつながっていることがわかる。 そういう呼応が控えて

いる造形であるがゆえに、インスタレーションの全体に、しっくりとした調

和空間をもたらしているのだ。

 

 

 

 

 

◎◎◎

 

ヒョウリュウブツ〉は、浜辺でひろった二枚貝の断片と木片といくつかの

砂粒とを、ゴザマットの上に固定したかわいらしい作品である。 生命体の

形と、もとは同じ生命体であっても長い年月をへて物質の形へと変化した

ものとが、組み合わさった造形になっている。 貝殻の整ったシェイプと

木片の複雑形との対比の妙…

この作品は、インスタレーションの全体の中ではそのサイズは小ぶりではあ

るが、前述してきた五つの作品群のぴしっとした構成に対して、その存在が

全体の調子をちょっとゆるめる脇役的なものになっていて、しかし、「時間

の流れの中で、すべての存在が流転してゆく…」 ─── そういうまなざし

を感じさせる重要な要素にもなっている… それは、ほかの作品群のしっか

りとした構成の響きの中でこそ映えてくる存在力ではないか、と思われるし

逆に、こういう控えめな作品の存在が、全体の構成のバランスの中に

〈すき間〉を与え、作家の意図である「観者の魂を自由に遊ばせる」という

そもそものインスタレーションのあり方の基本を支えるデリケートな配慮で

あることを納得させられるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──────────────────────────────────────────────────

 

 

 

松村記念館の和室という「特別の質をもつ場」の中で、その場としっくりと

共鳴するようなかたちでアート作品を仕込み、その全体が、「いま、この

時」の美的な世界にならなければならない ─── この創造活動は、真っ白

な空間の美術館やギャラリーで作品を〈単独の存在〉として展示するのとは

まったく異なった次元のものになることは、言うまでもない。

 

しかも、赤松の存在が、作家に〈海座敷〉という発想を導いたところまでは

よいのだが、そのあと、海をめぐるさまざまな想いを整理し、同時に作品化

の方向についての思索を進め、それを試作造形しては美的な判断をする。

そしてまた逆に、造形の試行から発想そのものを再考することも当然する…

さらに、仕込まれる各作品相互の関係の全体が、美的なものにならなければ

ならない。 次から次へとアイデアが出てきても、それを試作に移してあれ

やこれややってみると、その試作の美的状態の良否は、直感ですぐに判断は

つくものの、では、どうしたら本物にたどりつけるのか? 手を動かし頭を

働かせながらのその試行錯誤の道のりは、大変に長く、苦しいものである…

でも、そうしたプロセスを経てはじめて、〈美の造形〉という次元での

人間の内面の〈不可知の世界〉と交わる、つまり、生命の根源的世界へと

食い入るこの創造活動が、作家の納得とやりがいとをおのずと結果すること

になるのである。

今回、金子も、これまでの制作では体験しなかった苦しい道のりをたどる

ことになったようだ。 そして、その長く苦しい制作の道のりが、ほかに

類例を見ないようなユニークで見事な澄明世界を実現させたのである。

 

 

 

金子は、これまで一貫して、作品の〈美しさ〉というものを外さないで表現

してきた作家である。 金子の作品は、歴史的にも、あるいは世界的にも、

他にたぐいのない〈澄明な世界〉をやわらかなかたちで体現しており、

そして、感受はできるが、捉えようとしても絶対に捉えることのできない

「光と融けあう〈おぼろな空気感〉」のようなものを実在化してきた。

そこでは、表現素材の〈物質特性〉が活かされていて、物質の確固とした

世界の中に、〈ゆらぐ世界〉を創造してきたのである。 現代の新しい素材

を用いての〈ゆらぐ世界〉─── これは、科学知や技術世界の「確定、ある

いは、明確化のための限定」および「それを前提にした確かな構築」という

世界とは、ある意味で、対極に位置する世界といえるかもしれない。

 

そして、アートは、人間の不可知の〈無意識世界の無限性〉と交絡をする

「生の根源にかかわる営為」である。

 

 

 

ひとくちにアートと言っても、アート的行為というものの幅は広く、「作品

が、他者に何かを感じさせる、何かを想像させる、何かを考えさせる」

そういう表現行為はすべてアートであると言えようが、しかし、その表現体

が本物であるか否かは別の話になる。

 

金子の作品はこれまで、たとえば多肉植物やコーヒーフィルターを作品の

主要な要素として用いていることからも想像できるように、〈日常性の世

界〉との交絡が表現行為の根底に根強く控えている。 これは、女性作家

ならではの特質で、本質的には、男性作家にはできない〈世界感覚〉と

〈表現〉であろう。 しかし、だからこそ、男性も、彼女の作品世界を

心から享受できるのである。

ここにあるのは、本源的な異質性のもつ「違和と通底」という、生の本質に

かかわる問題である。

 

アートは、たとえばスポーツのように体の特性によってその享受感が左右さ

れることはないし、あるいは、将棋や碁のように知的レベルによって勝敗が

導かれるような競い合いの世界とも一線を画している。

まったく、個人個人で自由に愉しめるのである。 それでいて、映画や演劇

の類のように、受動性に傾斜した楽しみでもなく、その気があれば、だれで

もが、能動的にその世界に分け入って愉しむことができる。

そして、前述したように、アートは、「生の根源にかかわる営為」なのである。

 

 

 

 

 

──あとがき──

  

 

筆者は、今回の金子のインスタレーションの制作過程でアドバイザーの立場

にあった。 作家は自己の内面のありようや自作の世界とは距離がとりにく

く、だから、距離をとっての世界視は、適当な他者のほうが有利につかめる

こともある。

 

筆者は、展覧会の会期中ずっと会場にいて、写真撮影をするかたわら、作家

とともに来場者の応対もした。

会期が4日間と限られていたが、多くの方々に作品を熱心に観ていただき

作品の不思議な外姿に対して、たくさんの質問を受けた。 「作家の説明を

うかがいながら作品を味わえたのがよかった!」と帰り際にうれしそうに話

された方が少なからずいらっしゃった。

 

ある日、会場に来られたご婦人が、個々の作品に眺め入っては感動のことば

をつぶやいておられる… この方は、ふつうの感覚の方ではないことはすぐ

に分かり、だから、つきそって丁寧に質問にお応えし、関連した話題をお話

しすることになった。 そのご婦人が、前座敷の床の間 ──そこには〈たま

てばこ〉が三つ並べられていた── の前でお話をしていると、そっと目頭を

おさえられたのである。 筆者は、それに、感動してしまった…

 

今回の〈海座敷〉は、この世界に対する作家の〈やさしい眼差し〉に包まれ

て、しっとりと心やすまる、そして詩的な馨りをただよわせた〈極美の展覧

会〉ともいうべきものであった。

 

 

 

最後に、格調の高いすばらしい和室空間をインスタレーションの場として

提供していただいた松村記念館の館主に、心からの感謝の気持ちを捧げたい

と思う。

 

会場の下見の打合せにうかがったときに、「(部屋内に)飾られている掛軸

や置物などを一時移動していただいて、格調の高い建築空間を素な状態で

見せたいのですが…」というご相談をさせていただいたのだが、館主は快く

その趣旨を理解され応じていただいた。

 

また、作品を搬入するときに、各作品の最終的な配置が決定されたのだが

そのときに、前座敷の床の間の掛軸として、松村家伝来の所蔵品の中から

金子の作品と季節にふさわしい軸を見立てていただいたのも館主で

その見立てはまさにその場にぴったりのものであった。

 

単なるスペースの提供ではなく、そうした格別に美意識の高い館主によって

生かされている記念館で、「建築空間および屋外の眺望と脈絡したインスタ

レーション」という総合的な創造を実現できたことは、まことに稀有なご縁

であり、金子のアート創作人生における一期一会のチャンスというにふさわ

しいゆたかさに祝福された展覧会であった、と筆者は思っている。

 

 

 

*1───あしかがアートクロス CON展 2019.5.29 – 6.9

◎◎◎      金子清美さんによる展示は、同 6.6 – 6.9 に開催

 

写真:筆者撮影

 

 

人間世界の〈やさしい光〉のヒント… │ 金子清美作品〈束の間〉

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和の初期に建てられた足利の民家の和室で、金子清美さんが

ひさしぶりにインスタレーション作品に取り組んだ。*1

 

 

廊下ごしに庭に面する東南の角部屋とその続きの間を利用して

〈光の間〉と〈翳の間〉が、対になって呼吸している作品で

インスタレーションの傑作ともいうべき静謐美の作品である。

 

障子越しのやわらかな光が主調をなす「気づくと変化している

外光」の綾と、そこにすでに在る空間性や諸々の文化遺物の存在

── そうしたものたちと深いところで共鳴しあう金子特有の作品

要素が、実にていねいに仕込まれ、配置されている… 

作品要素のなかには「書かれたことば」もふくまれているのだが

このインスタレーションは、視覚美を偏重したアートというよりは

ひとが「生きる」こと、あるいは「いのち」、とのコンテックスト

支えられていて、いわば生命的なアートとしての根源性と包括性

有しているといえよう。

そして、作品が成立してゆく過程における創造的思考に

向こうからやってきた偶然的な条件との不思議な出会いが絡み

それが、偶然にしてはできすぎた脈絡を呈する ──

そうした導きの力が加わって、インスタレーションの全体が

「寡黙な背後脈絡世界」としての密度体現するにいたる…

 

そうした、いわば「〈存在〉そのもの」の深遠にしてデリケートな

つぶやきは曖昧さの中に包まれ、現場で実際に感受され、あるいは

想像力が動く全的なる世界は、観者の視線の動きから瞬間瞬間に生成

されつづける動的な性格の内的世界であり、それは、言葉や写真では

とらえることができない複雑系の世界である。

作品空間に接する時間は、まさに一期一会 ── そういういとしさを                

作品のたたずまいに強く感じたのが今回の金子の作品であった。

 

 金子の作品は、さりげなさの中に醸される

「人間世界の〈やさしい光〉のヒント」であり

自己主張にもっぱら占された「目立ちのアート」とは

ずばり、真逆の世界である。

 

 

(photo ───── click → wide view)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1── 足利CON展参加インスタレーション 2018.5.13-19

 

写真:筆者撮影

 

Live (リブ)| 意識されざる無限宇宙への通路… | 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

澄みわたった空に浮かぶ雲の千変万化する形と色合い…

水をふくんだ空気の粒子が生みだす形と色合いは、〈連続性〉の中に

かぎりなく精細な変化を織りなしている…

太陽からやってくる無尽蔵のエネルギーによって地球の表層の水は

循環をくりかえし、生き物たちの命を支え、役立ち、

そして水のつくりだす表情がときにわれわれの美感覚を根源的なところで

ゆさぶることがある…

外在するすべてのものは、人間にとっての既知・未知・不可知に関係なく

相互に脈絡をもったいわば全的な存在であり、

その外在を体験しあるいは感動している人間の内面世界の方は、

無意識世界における無限脈絡宇宙を基底にして生きているはずで、

さらに、その無意識的内面世界と外在とは、たとえば〈気〉のような

いまだ解明されざる関係性をはじめ、未知あるいは不可知のなんらかの

根源的な脈絡をもっているような気がしてならない…

 

 

 

昨秋、展覧会への出品という機会をとらえて石膏を用いたオブジェを制作

した。

それは、石膏で造形された〈大地〉と、円錐形の石膏ベースから立ちあがる

ワイヤー造形の〈雲〉、というふたつの要素の組み作品になっている。

〈大地〉は、型に用いた合板が偶然に生みだしてくれたまさに大地の断面を

想像させる粗い質感の側面と、流し込んだ石膏の粘性が自然に形づくって

くれた波紋様のやわらかな表情の上面と、そしてそれになじんでつづく

重力方向の変化を与える隆起面(石膏の流し込みボリュームからていねいに

削りだし適宜磨きをかけて仕上げた)、とおおきくは三つの表情から成って

いる。

〈大地〉の上面の端にある穴は、大地内部の空洞に通じている。

また、〈大地〉と〈雲〉のふたつは、作品が設置される環境の状況に応じて

相互の配置関係が決められる。

 

 

今回の作品は

 

抽象と具象との〈中間〉の力を求めて…

―― 自己の「無意識下の〈合理構築性〉」の外へ ――

 

ということを念頭において制作した。

 

したがって、自己内で決定することに加え、「向こうからやってくるもの」

を取りこむことに意識的であった。

 

 

 

以下は、具体の造形にとりかかるまえにまとめた文章である。

具体の造形の背後にひかえている〈私の世界視〉ともいうべきものの一端が

記されている。

 

 

──────────────────────────────────────────────

 

 

美しい!、おもしろい!…と、或る〈形〉に接したときに感じるのは、

自分の無意識世界の脈絡宇宙の中に、すでに「なんらかの感応尺度系」が

存在しているからだ。

その尺度系自体を、直にとらえることは、永遠にできない。

そして、その尺度系は、確固たる強さを有しているように思われる。

いっぽう、ある人生の時期に、まったく興味をもてなかったり、よいかたち

では受容されなかった〈世界〉や〈実在の形〉に対し、人生経験をへたのち

のある時期に、そして自己をとりまく〈時代性〉や自己固有の〈環境〉に

呼応して、よいかたちで出会い、反応する、ということもありうる。

つまり、〈美意識〉の背景にある尺度系は確固としたところがあるいっぽう

で、変化もしてゆく…

 

宇宙的な脈絡とともにある〈生命〉という存在が拠ってたつところの根源は

科学がいかに発達しようとも、永遠につかまれることはないのではないか。

少なくとも、いまの科学的アプローチの延長上に、生命自体をゼロから生み

だせる可能性はないような気がする。

生命の存立の全体とか、以心伝心とか、魂レベルでの彼岸から此方へと伝達

される暗示的波動のチャンネル(?)とか…  そもそも、これらの世界は、

科学的あるいは数学的認識とは異なる次元にも属した〈無限性世界〉の

出来事なのではないか…

オイラーの公式をご存知でない方もいらっしゃると思うが、1+2+3+ …と

整数を無限に足してゆくと、その合計は、なんと-1/12 になる。

現実世界の感覚の延長からすると、これはありえない数字である!

数学の進歩は想像以上のもののようで、素人目にもこれまでに発見された

〈真実〉は驚異的なものに映るのだが、しかし、数学を含む科学の延長線上

には、無限性の生命そのものの根底をつかむ可能性はないような気がする…

 

生命現象の一部としての〈美意識〉というものも、だから、その一番根底の

ところは、永遠にブラックボックスのままにおかれる…

そして、個人の人生はもちろんのこと、人類の進化の歴史も、永遠に完結

されることはなく、〈過程〉の中を生きていく…

ゲーデルが1931年初頭に完成させたという論文によって、「それ自体の中

に〈矛盾〉を抱えない論理体系」が前提の場合、言葉をふくむ記号論理体系

の世界に〈完全性〉は成立しない、ということが証明されている。 これを

わかりやすくいえば、完璧な理論というものはそもそも存在できないという

ことである。 そしてそのことは逆にいえば、「未来の中に、かならず、

既存知を越える可能性が存在する」――  そういう、これ以上はない力強い

希望をわれわれに与えてくれる真実を示してくれていることになる。

 

アートの制作過程では、創作者が自身の内面宇宙を、正直に透視しよう

とする。 では、なにが〈正直〉である、ということなのか? ――

そこのところが、すでにいろいろの意味を含んでいて、つねにゆらいでいて

定まらない。

逆に、それゆえに、見定めようとする志向活動に、〈価値〉が生じてくる

――  ともいえよう。

 

〈精神的自我〉は、社会的な関係性の結節点そのものである、つまり、

絶対的根拠というものは存在しない ―― という認識は現代思想のひとつの

大きな到達点であるが、〈身体性〉の方は、生命体の「開放系としての

無限性有機組織」とともにあり、〈本能〉というその拠ってきたるべき

ところがつかめない力学系とともにある。

 

美意識というものも、この〈本能力学系〉と脈絡し、作動している…

 

こうした、なにやら定まらぬ無限性脈絡の中にあって、

〈限定された世界〉としての三次元立体の自由造形を、いまの自分の

脱構築的〈超抽象〉の造形・精神運動のたのしみとして、

〈自分の眼の感受性〉を手がかりにして探索してみたい。

 

 

──────────────────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「新しい素材から生まれる重厚さと謎めいた姿の作品である。〈大地〉の

上面の表情が自然の中にありそうで、ありえなく、美しい。 制作過程で

あちこちから舞い降りてきた想念と作家の内に堆積してきた美意識が

合祀されて現出したように思える。 穴は異次元への通路であり、積層され

た始原への複眼的洞察の眼であり、切なさをともなう〈生〉の影を隠しも

している…」───

といみじくも新井九紀子氏が評してくれたように、〈大地〉と〈雲〉という

実存の具体的イメージを呼びよせながら、そのイメージに共鳴的な造形素材

の質感と形態による抽象化をおこない、外在世界と人間の内面世界における

「意識されざる〈無限性脈絡の妙〉」というものに思いをはせつつ、

「〈創造的な限定〉ゆえにもたらされる形象化の響き」をもとめてみたもの

である。

 

 

言葉による表現というものは、人間にとって欠くべからざるものであるが、

しかしそれは〈限定行為〉であり、実在を単純に説明する場合であっても、

無限脈絡の中にあるその〈全体〉をそのままのかたちでとらえることは

できない。 だから、〈限定的表現〉の積み重ねによって、立体的に説明

するよりほかはないのである。

しかもアート表現は、或ることを説明するものではないので、観者を宙吊り

にするようなアート表現なるものをまるごと言葉化することはむずかしい。

或るアートに関して語られた言葉であっても、それは語られた言葉が

対象のアート作品とは別個の独自世界を生み出してしまっている――

厳密にはそういうことになる。

 

しかし、私の作品に対する先の新井氏の評のように、作品に接したときの

「観者の内面の〈動き方〉」というものをその言葉を通して察し、美感覚

あるいは美意識の通底のよろこびを味わうことはできよう。

ときに、観者は、作品に関して作家自身は無意識の奥に潜ませてしまった

ことを、虚をつくかのごとくに気の効いた言葉で伝えてくれることがある。

そういうときは、作品評はまさに〈詩〉だな、響きだな…  などとひそかに

思ったりすることもある。

感覚と美学と世界視などが共鳴しあえる〈よき他者〉の存在というのは、

作家にとって生きているよろこびである―― そう私は感じてきた。

 

作品制作は、もともとオリジナルな自己内宇宙を独自のかたちで掘り下げて

ゆく孤独な世界であるが、同時に、作品世界が介在して作家とよき他者との

間にほかの方法ではなしえない「魂の共鳴」を生みだすというかけがえの

ない価値をもっている。

その点を重視してきた私は、自分が観者として他者の作品に深く感動した

ときは、その感動を自分なりの言葉にして作家にエールを贈りたい――

そう思ってきた。

本ブログにこれまで執筆してきた他者作品に対する評はそうして生まれた

ものである。

 

 

 

*美術作家の中村陽子氏に石膏作業を手伝っていただいた。

ここに記して謝意を表します。

 

写真:筆者撮影

 

自己表現の否定の地平で… | 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己表現の否定?―― それでどうやって作品が成立するのだろうか?

そう思われる方が多いのでは… と思われる。

 

筆者は、これまでもっぱら抽象立体作品をつくってきた人間だが

3次元性の抽象表現のことをあらためて考えてみると

たとえば、ある風景に出会って、その印象を、われわれが住んでいる

3次元空間と同じ次元の外化表現として 〈物理的に確定〉 しようとする。

また、かつて筆者は、「世界の連想」 というオブジェをつくったことがあり

その作品では、人間世界を生かしている力としての二つの存在 「自由を

もとめる個性的存在」 「異質性を統御しようとする全体中心化の存在」 を

イメージし、そして、その現実的な力の世界に、どこからやってきたのか

不思議におもわれるような 〈可能性〉 をもたらす 「〈存在の世界〉の外側

の不決定的なる宇宙」 という仮想的なイメージを加え

これら三つのそれ自体〈抽象的〉な契機を、ある意味 〈美的な抽象表現体〉

に変換して 固定する――

そういう いわば 「人間世界への根源的なまなざしの造形化」 を

したことがある。(*1)

 

自己表現の否定… といっているのは、制作者の内面にあらかじめ生まれる

「造形のためのいっさいのメタフォリカルなイメージ」 から出発することを

やめる―― そういう意味である。

 

自分を離れる…   内面を 〈空白〉 にする…

 

そして、制作に用いられる素材自体が 「形姿の可能性」 の旅にでる…

素材のもつ 〈形状の次元性〉、〈手による加工の性状〉 の意味…

そして、今この時の〈形姿の力〉… そうしたさまざまの可能性…

さらに、「造形という行為をめぐる 人間の内外宇宙の 〈全体性不可知の

脈絡〉」のことを想像つつ、交絡しながら、制作がすすめられてゆく…

 

しかし、制作の過程では、自分の内なる無意識の世界に

〈さまざまな脈絡の密度〉として そのルーツが存在しているであろう

ところの 〈世界認識〉とか〈美意識〉 などが作用しないわけは

もちろんなく、いぜんとして 自分がいる…

 

自分を 離れながらも、自分がいる…

 

そうして、造形の背景にあって、それをを先導する 「表現体のありかたに

〈統合〉 を指向させる内的な意味性」 を棄てさるところに立って制作を

おこない、結果として生成される作品は、感受される局面において

素材そのものの形姿が 〈裸の状態〉 で観者に作用し

「あいまいな連想を触発する装置」 のようなものとなる…

そういう試みから生まれたのが、ここに紹介する筆者の最近作である。

 

 

 

作品は、〈シンプルの力〉 をもちたいが、しかし、響きの浅い単調なもの

にはしたくない。

いろいろの過程はあったのだが、結果として、素材として ふたつのものが

選ばれ、その 〈対立的響き〉 の可能性を探ることにした。

 

素材をふたつに限定し、そして、素材の 《力学的特性》 を生かすなかで

〈自己の美学〉 を作動させながら、なんらかの 《力》 をもった表現体を

結果的に生成させる 「素材との 《手》 による対話」 としての制作…

 

素材の選定では、自分の美意識が当然に、つよく作用する。

そこでは、卑近なもの (高価だったり、立派だったり… そういうもの

ではないもの) で、手で切ったり曲げたりの加工がごくごく容易にできて

作業が大仰不自由にならないものに、こだわっている。

 

 

そして、具体の造形では、《軽やかさ》 や 《かそけさ》 のようなものを

目指した。

構築的なものがとかく有してしまう 「がっちりとした堅固さ」 とは逆の

《ゆらいで あいまいな世界》 …

 

素材として、軽やかなもの、はかないもの… が選ばれているのは

「いまこの時の感覚」 を重視している ということに加えて

素材の繊細さが、その存在性を希薄化し、夢かうつつか?

という浮遊感覚を 《空間性》 とともに現出させるからである。

 

たとえば建築の場合は、《空間》 の中を移動することで、刻々〈別の世界〉

を体験することになるが、立体アート作品は一点凝縮的で、せいぜい作品の

まわりをめぐって 異なった角度から作品をながめる変化がある程度である。

今回の作品では、そうした一点凝縮的なアート作品を

それに 《空間 》 あるいは 《気》 を与えることで

一点凝縮性から解放させることを試みた。

 

 

そもそも、筆者にとってのアート作品の制作行為は、

どこまでいってもつかみきれない

 「精神と物質にまたがる深い脈絡宇宙」 を

探索的に旅すること にひとしいのだが

そうした 《気》 の中にある素材のはかない形姿は

それが、観者の内面宇宙の無限へと解放されている――

そういう かそけき気分を

この作品を直に体感する者は感じることであろう。

 

 

 

この作品の中心をしめる 〈自由曲線を描く針金〉 は

亜鉛メッキされたスチールワイヤーで、径0.28mmの極細のもの。

指先で、ソフトにソフトに… 息をつめながら、カーブを作っていった。

ちょっとでも扱いをまちがえると、角がたってしまう…

スチールワイヤーは、外力に対してきわめて敏感に変形するので

「こちらの美学を満足させるカーブ」 になってもらうには

心をこめたこまやかな扱いが要求される。

そして、いったん形状ができると

その形状をしなやかに保持する 〈弾性〉 をもっていて

たとえば粘土のように、指で押したらへこんだまま… といった

こちらの言いなりになるような単純受動性のマテリアルとは異なり

《ひかえめな反発的個性》 を

手による造形のその場ですぐに主張してくるところがあり

そこが、なんともいじらしい!

 

いっぽう、クラッシュして造形した紙のほうは

バルカナイズドファイバーという 工業分野で用いられている硬い紙で

含水させてプレスすると成型できる、という特性をもつ。

今回の作品には、厚さが0.25mmの薄いものを使用しているのだが

それは、あたかもプラスチックのような感じで硬く

そのため、クラッシュしたときの折り目部分の陰影のグラデーションが

普通の紙では得られない独特の美しさを見せてくれることを、知った。

 

 

今回の作品での素材のありかたは

常識的感覚からすれば

柔らかいもの と思われている 〈紙〉 が硬く

硬い と思われている 〈針金〉 が 逆に柔らかい…

既成感覚を裏切る素材――  という意外性が

触れなければそれと分からないように、隠れている…

 

また、今回の作品では

《手》 による自由自在な造形、にこだわっているため

日常生活で通常視化されてしまっているマスプロダクツの

必然的形態であるところの 〈幾何学的単純形態〉 とは

あえて距離をおいている、ということを付記しておきたい。

 

 

 

 

 

今回の作品は

 

背景に、メタファーの元の 形態的イメージ や 概念 がないために

素材のダイナミックな外姿が 裸の状態 で観者につたわり

作品に対する観者の側の 〈構え〉 がとりはらわれていたことが

観者の反応でわかり、うれしかった。

 

また、実作品を体感するときの

 《立体視》 にひそむ妙味…

《全体と部分》 を重ねて見ている視覚の厚み…

そして目の 《ズーミング》 の自在さ…

そういうものが複合した実存の視覚的体感は

写真ではまったく消えてしまうということを

繊細な素材を用いた今作品では

とくに強く感じさせるところがあった…

だからこそ

実作品の 《生の体感》 こそを

大切にしなければならない、という…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―― 作品をじかに体感してくれた方からの反応 ――

 

 

 

作品の支持体の立ち上がる壁面が 〈斜め〉 になっている

ところに、最初に目がとまった。

ワイヤーが無限へと飛びだすためには

垂直ではなく、斜めに立ち上がらないと、力は弱い。

かつてバスケットをやっていたことがあるが、ゴールするときは

垂直にジャンプする。 だから、ゴールは垂直に立っている。

それらを連想しながら 〈斜めの勢い〉 が、ワイヤーを生かしている

と感じた。

その部分で、壁の〈斜め〉 が観者をみごとに裏切ることもきっとあり

それで戸惑うまわりの反応も、おもしろいだろう。

そこに、その人の既成の感受性が、垣間見えるから…

 

「無限へ飛びだそうとする線」 と

「永遠をそこに刻もうと、それぞれの形態で佇む紙の陰影」

との対比は

この自然界の仕組みのような…

人間の見えない 〈内的宇宙〉 が眼前に提示されたような…

言葉にはならない 〈漠然としたモヤモヤした空白〉 を

形にして見せたのが今回の作品、だと思う。

 

ワイヤーの醸す浮遊感は

この空白が、ほとんど陰影を作らず

そのもの自体がそこに存在する姿から

発している…

 

アートと建築の狭間をゆらいで

思考の闇をゆらし

そのまた深い宇宙を

垣間見させてくれる、作品世界…

 

目をこらして、作品を見る…

そして、目がなめらかに移動してゆく…

そこにある 「 〈一瞬のかたち〉 の自由さ」 が

見る者に自由に発想させる…

その無礙なる自由さ!

 

(佐藤省 artist/poet/art director)

 

 

 

自己表現を一度否定してみる、それでもなお滲み出る自己…

そこに個の作品が在るのでしょう。

今回の作品はコンセプトに言いつくされていて

付け加えるとすれば、実作品が観者にどうみえたか、だと思うが

コンセプトからの乖離を、かぎりなく縮めて可視化しえており、美しい。

作品は気息し、極微から極大の世界を取りこめている。

また、これまでの作品にくらべて、動的要素が増し

観る側に作品感受の余裕をもたらしているように思われる。

 

(新井九紀子|ことばの世界を図像世界化する墨画家)

 

 

 

畑さんの作品のような空間を歩きながら…

あの世界(観)に揺さぶられながら身を任せたら

どんなかな…

と作品を観てから考えていた。

 

(トヨダヒトシ|スライドショーのアーティスト)

 

 

 

 

 

*1 ―― 詳細については、2013年11月16日付の掲載文

「世界の連想 | 畑龍徳作品 - 存在性希薄化のアート – 」

をご覧ください。
写真:筆者撮影

 

生き物オブジェ | 多肉植物と白磁鉢のデザイン

美 ○ 創造

 

 

 

 

 

 

いかにもみずみずしい多肉植物に出会ったのが

そもそもの ことのはじまりである …

 

 

最近は まちでよく多肉植物をみかけるが

しかし 「これは」 というものには なかなか出会わない …

それが 昨年の春(2014)のこと

隅田川を見晴らす木造家屋の二階の物干し台に

多肉植物が展示されているのにでくわし

その多肉植物たちがいずれも 〈命の光〉 を発しているかのように

いかにもみずみずしい姿をしているのにすぐに気づいた …

 

そして 房状の多肉葉を赤く染めている株立ちの一鉢 (乙女心) に

目がとまった …

色合いの美しさとリズミカルな全体の姿とが

なんともいえずいい感じで すっかりほれこんでしまった …

 

で その場で ふとイメージがわいたのである …

この多肉植物のために円筒形のシンプルな白鉢を用意して

自分のアトリエにオブジェのようなかたちで飾ってみたら …

 

 

その元気な多肉植物を育てているのは 高橋なつみさん という人

であった。 

とりあえず気にいった 〈乙女心〉 の一株を取っておいていただくよう

高橋さんにつたえ その一株をいちおう想定しながら鉢の図面を描いた。

その図面にもとづいて 平松祐子さん という白磁の作家に

実際の鉢を作っていただくことになった (*)

氏の生みだすシンプルな三次元曲面はとても美しく

その感覚に信頼をおいての 筆者にとっては

とてもぜいたくなコラボになった。

 

 

多肉植物という生命体の有機的なフォルムと

そのフォルムを映えさせる 「それ自体はデザインを強く主張しない

シンプルな幾何学的形態」 の組み合わせ――

そこでは とくに鉢自体のプロポーションを重視しており

その自立したプロポーションに対して、多肉植物のサイズの大小や

多様な形姿に応じて、それなりに、植物と鉢とが一体となって

独自のバランス美を生成してくれる。

 

また、平松さんに作っていただいた鉢の厚みはきわめて薄く

多肉植物をななめ上方からみたときの 「鉢のエッジの丸いライン」 が

きりっとかろやかで 美しい!

 

 

結局 四つの白磁鉢に、筆者が希望した品種を高橋さんが植えこんで

くれて今年の梅雨入りのころにそれを届けてくれた。

そのときはじめて目にした 鉢上に展開する多肉植物それぞれの姿に

格別の感動をおぼえたのをわすれることができない …

 

ここに掲載した写真は その中の 〈福娘〉 という品種である。

 

 

 

 

写真:筆者撮影

*佐藤省さん(ギャラリー悠玄)に間を橋渡ししていただいた。

ここに記して感謝の気持ちを表します。

 

格好をつけた 〈 整 〉 と 平凡な 〈 不整 〉 | 畑龍徳作品           Sharp Figuration / Crushing

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

                                           

 

99%の繊細さと

1%の大胆さにより

均衡を保っている宇宙

 

「 いまここ 」 

を生きる実感から導かれた

最小限で最大限の要素

 

清潔な布で

磨きあげられ浄められた

たったひとつの細胞空間

 

または浄化装置

 

そしてそれは

光と風を導き

やわらかく繋がるための

ひらかれた心の宇宙 …

 

 
 評 : 甲斐瞳 artist

 

 

―――――――――――――――――――

 

 

 

 

格好をつけた 〈 整 〉 と 平凡な 〈 不整 〉

Sharp Figuration / Crushing

 

というタイトルの小品を Message2014 という

毎年年末に開かれる展覧会 に今年も出品した。

 

 

作品構成に参加させる要素を縮減、シンプル化させた世界で

形態と空間の相互作用のバランス点を 〈 鋭敏化 〉 して

自己の 〈 内面宇宙 〉 にひそむ  「 美意識の性状 」 を

あぶり出してゆく …

 

逆にいえば 表現体の 〈 複雑性の妙 〉 や 〈 パッと見強度 〉 に

無意識的に 依存してしまうことを あえて避ける …

つまり 〈 美の法則 〉 の中にいながらも 

 「 美への 〈 可能性の豊穣 〉 」 に あえて浸からない

―― そういうプロセスによる 「 内面世界のあぶり出し 」 …

 

 

 

こういう趣旨で  ―― 素材は すべて 〈 純白の紙 〉  を使用 ――

 

〈 不整 〉 の部分要素は 特殊な白色紙を折り紙程度の大きさに切り

「 意図を働かせず 」 に手でクラッシュし その一個目と二個目を

あえて使用して 〈 選別 〉 のプロセスを介在させていない。

ただし クラッシュしたときの球状のサイズだけは

〈 整 〉 の部分要素である 〈 カベとのバランス 〉 がとれるように

大雑把ではあるが 配慮した。

クラッシュした紙の 〈 襞の部分 〉 に なぜか ほのかに

クリーム色のグラデーションが現われたのを発見したとき …

 これだ! と思った。 まさに 向こうからのプレゼント …

 

 

 

人の 〈 内面宇宙 〉 …

 

それは 人それぞれの人生経験をへて

はかり知れない複雑さと

不確定性を内包する 〈 脈絡 〉 を

形成しているはずだ。

その無意識世界は

直接的には とらえることができない …

 

でも 作品を制作するプロセスの各局面局面で

意識的に ある判断を  「 直観的に 」 するときに

それはイコール

〈 内的脈絡 〉 の いつわらざるアクションである。

 

 

 

そうして結果した作品は 〈 不整 〉 を含めて美的である ――

 という世界内にとどまりつつ、つまり 〈 美的 〉 という 〈 整 〉 に

包含されつつ

部分要素としての 〈 不整 〉 が、部分要素としての 〈 整 〉 との

対比の中で、平凡どころか かえって特色を主張しだした …

 

〈 不整 〉 がもつところの 〈 ゆらぎ 〉 …

 

 

 

 

 

自己の 「 内面世界のあぶり出し 」 という

自己中心の制作過程は

当然 他者の眼は 無関係であるが

100人以上の作家が参加する企画展へ出品する

という動機を自己に課して 制作をし

そして 自分自身が納得すれば

 「 結果として 」 作品を展覧会に出す ――

 

そうして 作品が衆目にさらされる …

 

 

 

来廊者の作品に対する印象などが ことばとして

ぼくの耳にとどくことは 通常きわめて限られているのだが

とくに今回は 前にのべた作品の性質上

他者の反応は 期待していなかった。

 

 

しかし 作品搬入のときに イラストレーターの小渕ももさんが

まだセッティングされる前の横っちょに置かれていたこの作品に

気づき シンプルな作品性に 真っ先に反応してくれた …

 

ぼくは 作品を構成してゆくときに

作品サイズがどんなに小さくても 物質を配置するごとに生成変化

してゆく 〈 空間性 〉 を見つめている。

だから 小渕さんの反応は 氏の眼が空間的であることを暗示して

いるのではないか … とぼくに想像させるところがあった。

 

 

 

ぼくの作品をみに 知りあいがわざわざ会場に足を運んでくれる

ということは ほんとうにありがたいことだと思っている。

そして 作品をめぐって来廊者と直接話をする機会があったり

感想メールがとどいたりすれば 自分は いわば作品を介した

〈 スペシャルな会話 〉 を楽しませてもらっていることになる …

一人歩きをはじめた自分の作品が 鏡のようになって こんどは

 ふつうの会話では 「 決して出現することはない角度 」 から

他者を 眺めさせてもらっている …

 

 

 「 白い小さな空間の中に、〈 不整な形 〉 の存在感の大きさに

驚いた。 光と影、白の持つ特性、相対するもの、が新鮮で

まるで宇宙を見るかのよう …

洗練された 何気ない シンプルな美しさ … 」

(岩崎恵美 singer)

 

 

「 光の差し込むシャープな影が キリコのよう …

薔薇の花のような 丸いクシャクシャしたオブジェが

大きなアジサイのようにも見え 色を様々に 想像できる … 」

(杉田茂樹 editor)

 

 

「 〈 要素の関係性 〉 の 苦悩など寄せつけぬ 強い存在感 …

風の通る道筋を思い … 光があやなす影の深さと匂い

に寄りそわれた 〈 空間を切る境界 〉 への認識 …

思わず じっと佇ませてくれる …

小さいがゆえの 凝縮された宇宙 …

光讃え 知的な陰影を放つオブジェ … 」

(佐藤省 artist/poet/art director)

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

世界の連想 | 畑龍徳作品 ‐ 存在性希薄化のアート ‐

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銀座のギャラリー悠玄で 「Message100 おしゃべりなArt展」 という

展覧会が毎年1回開かれていて、今年(2013年)も11月11日~23日

の2週間にわたって開催された。

同展では百人の作家たちがさまざまな関心の位置で作品を作って

いて、それぞれの個性を楽しめる 中味の濃い展覧会になっている。

この展覧会では、人間世界の 「多様性原理」 のことを毎回考えさせ

られてきたのだが、今回あらためて こんなことが頭に浮かんだ…

 

 

人はいつも自分自身のことを考えているけれども、でもこの世界には

自分とは異なるものをもった他者がいて 直接に間接に交流できる

からこそ 楽しい…

自分のことは自分が一番よくわかっている ―― これは真実であるが、

でも自分の良いところの多くは自分には見えず、他者こそがそれを

エンジョイしてくれる ということも真実。

おかしなことである。 自分のことばかりに意識が向かい過ぎていると

このことに気づかないで、ついつい傲慢になり、他者からはよ~く見える

その人の品格や美学のありようが すっかり萎縮してしまっていたり、

あるいは逆に、自分には良いところがひとつもない などと自暴自棄に

おちいってしまったりするかもしれない。

 

男女のことを考えればわかりやすいが、米国生活が長い日本人

女性が 「女と男は、まったく違う生き物よ!」 と語ったことがあり、

わたしはその時ハッとさせられたのだが、肉体的なことはともかく、

男女の内面の違いは それはそれは大きく…

でもそれは、《 対(つい)の世界の共鳴的深さ 》 へとつながる可能性を

秘めた違いである、ということ。
 

 

 

さて、わたしは、今回とても繊細な素材を用いた表現を試み、素材の

希薄化された存在感の中に立ち上がってくるものを求めて作品を制作し、

それを Message100展 に出した。

 

素材は、特別なものではない ごく身近なものなのだが、その素材が本来

もっている力学的特性を見つめ、そこから生まれる独自のシェイプを

メタファにして 「人間世界が生きていられる三つの次元」 を表現してみた。

 

 

 

 

 

 

素   材 :  トレーシングペーパー(t=02mm) 糸状針金(Φ0.23mm) 

         虫ピン(Φ0.5mm)

          ケント紙貼りイラストボード/台紙 

         スチレンボード/台形ベース

 

 

コンセプト :

 

長方形の白い紙を限定世界として、そこに3種類のデリケートな物質が

配置されてゆく…

トレーシングペーパーは、たわませると2次元性から3次元性へと変化し、

その弾性を固定するためにはベースにはいつくばせる必要がある。 

半透明な紙には、画面構成を大きく決定してしまう力がそなわり、そして

その陰影は実体の形と比べて、意外な様相を示す…

虫ピンは、剛直! 実体を1次元性から脱却させるためには相当の力を

強いなければならず、その陰影は、クリアな個別性の強さと、群の中の

リズムとを響かせる…

糸状の針金は、3次元中にそれこそ自由自在に形を展開してゆき、

雲のように浮遊を望む… 網目の陰影は、かそけさのグラデーション…

 

自由を求める個性的存在と 異質性を統御する全体中心化の存在と

不決定的な存在外宇宙と…

 

 

 

上の写真をご覧いただこう。

 

右側の抽象化された虫ピンたちが 「自由を求める個性的な存在としての

人」 を表していて、概して集まることを志向している現代の人間たちが

それこそ多様にそれぞれの位置で生きている。 

そこには、傾向を同じくする人たちの集合だとか 男女の結びつきだとか

いろいろあり…  こうして右側に、《 個の自由意思ベクトルの世界 》

ともいうべきものが抽象されている。

 

中央には 特殊なトレーシングペーパーの布置によって 「個性をもった

人間たちが 《 共に 》 生きてゆくための、主として不可視の存在である

 《 中心化の力 》 つまり 《 共通の仕組み 》 /その中で一番かたい存在が

 〈法律〉」 を、極限までシンプル化した形で表象している。

長方形の領域にバランスするように高さ2ミリまで縮減された曲線状の

トレーシングペーパーは、あえて正円弧にはしていない。 

自然なヘア―カーブともいうべきラインになっていて、

これは 「中心化の構造」 が硬直したものになっては駄目で、そうかといって

ふらふらしてもらっても困る。 そんなニュアンスを込めた形である。

 

以上のふたつが、この世界をつきつめてとらえたときの、

いわゆる 「存在」 である。

 

 

でも、人間世界が生きて存在してゆくためには、もうひとつの次元が

不可欠である。

それが左側に 髪の毛のように繊細なワイヤーで表現されていて、

われわれに、《 可能性 》 とか 《 ヒント 》 とかを思わぬかたちで付与して

くれる 「源泉としての宇宙」 ―― それである。

 

もともと人は、内面の認識世界では 「確定指向」 と 「不確定」 との間を

つねに曖昧性をかかえながら生きていて、また同時に、認識以前の

五感がまるごと脈絡する系としての感覚体験の中を生きている。

この宇宙の根底には 《 矛盾  》 が存在し、矛盾のない形での完全認識は

不可能であるのだが (ゲーデルの不完全性定理)、でも、生命という

これ以上ない不思議ですばらしい存在を生成するほどの宇宙の根底には、

記号論理を介した認識世界の一貫性とは別の何らかの 《 一貫性 》 が

厳として存在しているようにも思ってしまう。

この 「不決定的な、《 存在 》 の外の宇宙」 を、複数本ではないただ一本の

ワイヤーで表現してみた。

糸巻きに巻きつけられていたワイヤーは、一定の曲率で全体がカールして

いたが、巻きをほどくと、ゆるゆるとふくらんでゆく… 

そして、ちょっとでも無理な力を加えると なめらかな自然なカーブが壊れて

いってしまう。 

薄紙の風船でもあつかうように、ワイヤーをそっと手のひらの上でころがすように

形状の変化を引きだし、「素材のもつ力学的特性が生かされた 《 自ずの美 》 」

を体現していると思われたところで、交点を何ヶ所か接着剤で固定した。
 

 

作品は、このように、人間の三つの世界のメタファを 《 並置 》 して、

相互の響き合いとして表現されている。 

 

この 《 並置 》 という方法は、トレーシングペーパーと虫ピンとワイヤーを

同一領域の中で重合的に扱おうとすると、それらの間に 「視覚美における

相対的なバランス関係」 を発生してしまい、きわめて繊細な素材の

それぞれに、「繊細の中での、ある意味の視覚的強度」 をもたせたい

という条件との間に矛盾を生じてしまう ――

そういうことで着想されたものである。

 

 

色彩やマチエールの多様なゆたかさの世界にかかわることをあえて避け、

《 形のみ 》 で造形する。  しかも、その形の存在性を希薄化する。 

そこに立ち上がってくるデリケートな世界の響き…

 

 

 

 

 

 

 

希薄化された存在は、地平にどんな影を投影するのか? 

 

地べたに貼りついたヘアーカーブとアングル状の半透明な紙は、

濃い影を地平に落とすと同時に、光線の白い照り返しを

その影にダブらせる。 

ヘアーカーブの濃い影の方は、一見、白い地平に切り込まれた

溝のようにも見える…

一方、虫ピンと糸状ワイヤーの方は、地平にほのかな影しか投じない。

ところが、地平が白色なので、その白地を背景に素材の受照面の

反対側の蔭が、細くくっきりと浮かびあがる… 

そして、反射角度でちょうど眼に入る微細なハイライトを、

点々と息づかせる…

 

 

真っ白な台形ベースは、この作品の重要な要素である。 

ざわついた現実世界から繊細な造形世界へと観者の眼線を引きこみ、

感受性の態勢をデリケートな世界へとチューニングさせる――

そんな隠された機能をはたす装置になっている。

作品本体をよい状態で見せるという意味では3次元的な額と言えないこと

もないが、しかし、通常の額が、作品世界と外界との境界をつくる役割を

もたせられているのに対して、

台形ベースは、周囲の空間の中に作品世界を浮遊させ、現実世界との

間にほどよい距離を生みだしつつも、作品空間と周りの現実空間との間を

あいまい化して、観者の想像力の行き来を自由にしている。

 

 

 

「世界の連想」は、写真にはなりにくい作品である。

 

そのデリケートな静寂世界は、実物と静かに向かい合ってはじめて

体感できる複雑微妙なものだ。

ここに掲載した撮影方向が異なる2枚の全景写真は、肉眼で見た場合

の作品の見え方とはおおきくかけ離れたものになっている。

たとえば、ベースの形態の端正さを立たせる 「白さの映え」 はまったく

再現されていないし、肉眼では捉えられる線材の「硬質な か細さ」 も

とらえられていない。

 

 

 

 

本展を企画した佐藤省さん (ギャラリー悠玄チーフディレクター) が、

「世界の連想」 に対する評を送ってくれたので引用させていただく。  

わたしの作品が他者の眼にどういう波動を送ったのか… 

とても興味をもたされた評である。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

― 存在に内在する時間が水平に流れる 〈ざわめく静寂世界〉 ―

 

 

細いドローイングの線が空を切るように、

シャープにループする針金が発する光は、金属音の微妙な響きを

ともなって静寂を波立たせる。

静寂が形を得るとしたら、こんな形になるのかもしれない!

とさえ思わせる。

虫ピンの群れは、様々な関係性を際立たせ、

白い平地に落ちる影は、逆に光とは何か、静寂とは何か、

と問いかけてくる。

見えているからこそ、その深い影の間隙から  「見えない音」 が

聞こえてくるようだ…

ミリ単位のトレーシングペーパーのカーブも、しっかりと場を分割し、

微かな影を吐き出してはいるが、

肉眼でもその境はなかなか認識されない。

 

そんな物質たちによって構成された白い大地は、

巨大な中に仕掛けられた 「存在を消す装置」 のように、

見つめる網膜の奥にしか 本来の姿や色彩を結ばない。 

ごくわずかな選ばれた人にしか… 

 

このシンプルにして複雑性をもつ作品が、

なかなか一筋縄ではいかない性格を放っているところが面白い。

模型のようで そうではなく…

架空の王国が砂漠に出現したような…

 

 

あるはずの物質の重さが消え失せ、影が自立をうながされ、

そして、自立する影に内在する 「時間の影」 も消失させて…

ほとんど造形されていないように見せているその思索的な造形に

目を深く注げば、「見えていることの確信」 は揺らぐ。

 

虫ピンの狂ったリズム、

虫ピンが埋まり 崩壊してゆくバランス感覚の乱れ、

ループを描く細い針金が 頼りないが確実な旋律を踏んで、

それぞれの時間は、「未知」 へと吐かれている!

 

存在の輪郭を消失させるということは、

つまり 「何か」 へとイメージを飛躍させること。

作家の手により変容させられた物質たちが、

夢の一幕にサラサラと氷砂糖をふりかけると

地平に現れ出づる砂漠の蜃気楼のように 淡く 淡く…

余韻は深く 眩しく 輝いている。

 

そう簡単にその深さが何かを明かさない

崇高な鎮まり… 

そして永遠…

 

 
――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

佐藤さんの評を読むと、造形を導いた 「人間世界の三つの次元」 という

コンセプトとの関係はすっかり消えて、作品の造形面の特質が、現代美術

作家であり詩人でもある氏の好奇心と想像力とを動かしたようである。

 

 

 

 

【追記 131130】

 

「世界の連想」 の写真をご覧いただくと、糸状ワイヤーによる表現体は、

作品全体の領域の隅に寄せられた形で配置されており、そのすぐ横に

何も置かれていない空白領域を生みだしている。

展覧会最終日に来廊された甲斐瞳さん (現代美術作家) が、その空白

領域を 「空き地」 と呼んで おもしろい捉え方をしてくれたので、

その感想文をここに掲載させていただく。

 

 

あの作品の…

作家の内的宇宙は、いくら読み解いても終わりのない、多面的な 「今」

を含むものでした。

 

並列でありながら、あの分量配分の妙…

そして、あの 「空き地」 には… 何処まで意識を押し広げたとしても、

その果ての外側をほのめかす 「余」 の空白がありました。

そこは、閉じられていない解放感や、未知のものを許容する大らかな

精神まで感じられる 「場」 でもある と思いました。

 

 

 

 

Message100 おしゃべりなArt展 → 

http://www.gallery-yougen.com/cgi-bin/gallery-yougenHP/sitemaker.cgi?mode=page&page=page2&category=1

 

 

写真:筆者撮影

 

(131129 展覧会の会期と関連する記述を書きかえた)

全体美と部分間共鳴 | RINZ カフェギャラリー

美 ○ 創造

 

 

 

 

まちで見かける 手書きや手作りの個性的なメニュー看板 …

 

 

きちっと作られた固定看板が、

周囲の環境のあり方との対照関係で大なり小なり視認され、

通常の雑然とした環境の中にあって、

「看板全体としての整序の力」 をデザインに生かそうとする

のに対して、

 

日々、掲出内容を更新できる店頭の手作り看板の方は、

見る側の眼を 部分部分の情報に向かわせる注視性を有し、

したがって、看板全体の整序美というよりも、

「親しみを感じさせる おもしろさ」 というところで、

ユニークな表現が生まれる自由さがある。

 

「テンポラリーな性格のもの」 の中に現われる

多様な個性のゆたかさ …

 

 

写真は、前回の文章で紹介したカフェギャラリーのメニュー看板。

 

埼玉県東松山市に RINZ/Bakery Cafe   あ~との国

( Rinz Gallery+ を併設 ) が、今年2月にオープンした。

 

看板は、そこでアートディレクターを務めている金子清美さんの

手作り即興だ。

ふかふかしたパンのイメージが生かされたデザインで、

それとなく人目を惹いて、グッド …

既存の小椅子を利用して、その上にピンナップボードをのせ、

そうした制約の中で、臨機応変にボード面の構成を考える …

 

そこに、キッチリ決められたものには欠落しがちな

〈テンポラリーの軽やかさ〉 のようなものが漂う …

 

 

 

写真:金子撮影

*あ~との国は 2014年2月にRINZビルから移転しました。

 

手作りのフロアランプ | 金子清美作品

美 ○ 創造

 

 

 

 

 

 

 

写真は、あるカフェギャラリーのために手作りされたフロアランプで、

大型のガラス瓶の中にLED光源を仕込み、外側を特殊な紙で

くるんだだけの単純な構成ではあるが、紙のくるみ方がユニークで、

市販品にはない複雑微妙な陰影が とても柔らかで、美しい!

見る角度を変えると、微妙な表情が、大胆に、変化してゆく…

制作したのは、私のアトリエのパートナーであり、現代美術作家でも

ある金子清美さん。

 

 

売ることを目的にした量産品は、それが優れたデザインのもの

であっても、量産に適した素材の選定とか 組み立て方式とか、

最終的にはコストという条件に制約された中での可能性である。

 

一方、そのモノが置かれる場所の具体的な条件を読み込んで

より自由に発想すれば、現代的な魅力をもったデザインの

可能性が、思わぬかたちで姿をあらわすかもしれない…

 

本ホームページ Furniture のところに掲載してある

片手で軽々と持ちあげることのできる スツール moonwalk  は

それが使用される住宅の住まい手が、スツールを丁寧に扱って

くれることがわかっていたので、そういうデザインが実現した

のだった。

 

販売された後、どういう場所に置かれ、どういう使われ方を

されるのか ―― そこに一定の幅を見込まなければならない

のが量産品であり、その場合は、当然に、強度的な面で

安全側のデザインがなされ、結果、とかくドテッとした姿の

ものになりがちである。

 

 

手づくりしたものの場合、やけに作り手の個性が強くでたり、

あるいは、どこかで見たようなコピー的なものになったり、

真に優れたデザインは めったに生まれないのも事実。

 

でも、そうだからといって、ハイスペックで無難な量産品に

選好意識が安易に短絡してしまうのは さびしいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影

 

異形の庭 | 佐藤省 個展

美 ○ 創造

 

前回のブログで書いた佐藤省さんの展覧会は、

来廊者それぞれの眼に 独特の印象を刻印したようだった。

 

展覧会の会場は、住宅地の中の一軒家を改造したもので、

昔の木造車庫が 小屋組みの見えるギャラリー空間に改修され、

隣接する和室空間には 床の間があり、

縁側越しには 緑豊かな中庭が望める ――

そういう、いわば 〈気取りのない空間〉 なので、

観者は、空間に馴染んだ状態で 作品にゆっくりと

接することができたのではないかと思われる。

 

展覧会の実際の空気と その中での作品の印象は、

断片的な写真を並べてみても、伝えることはできない。

住宅部分を含む展示空間の全体は、ホワイトキューブとは違って、

さまざまな性格をもつ部分空間の集合体であるが、

それぞれの部分空間にふさわしい作品が厳選され配置されるとき、

実際の空間では、観者の 「相互に性格を異にする空間から空間への

《移動》」 が、展示作品とまわりの空間がセットになった感覚体験の

 〈相互異質性〉 を 違和感なく内面に共存させてしまう役割をはたして

いることに気づく。

 

そういう 「空間性と共にある プロセス的な作品対話」 というものは、

「断片としての写真の並置」 から受ける印象とはかけ離れたもの

であることを踏まえつつも、あえて 筆者が撮影した写真を以下に

掲載してみたいと思う。

(→ 写真をクリックすると拡大写真が見れます)

 

 

 

 

 

               ギャラリー空間

 

 

 

 

   〈刻を落下する花の発光〉

 

左側の写真の額は、生命的自然との日常の対話からうまれる

作家の感興を トレーシングペーパーの向こう側に昇化させた

肩ひじはらぬ微音的世界を、白壁にそっと凹部をつくって

さりげなく飾れたら… というイメージで 筆者がデザインしたもの。

額の 「額然とした様相」 を限りなく消して、簡素化してみた。

 

 

 

 

 

 〈光を通過する風のゆらぎ〉      〈風の成す形〉

 

和室の奥の屏風の前の暗がりの中に、一点、静寂の灯りが

ともされ、その上に、透光性の作品が置かれた。

ここは、展覧会場の一番奥の位置にあたるので、いろいろ作品に

接したその最後に、観者は この美しい透光の世界に 沈潜する…

この透光作品をみて、作家が表現したい世界がすっと

つかめた ―― と感想を話していたアーティストもいた。

なお、ライトボックスは、筆者が 10年程前に AZAMINO house

 のためにデザインしたムーバブルワゴンを転用したもの。

→ 本ホームページ Furniture のところに掲載

 

 

 

       

         〈海〉

 

 

 

 

写真:筆者撮影

 

紙のオブジェ | 畑龍徳作品

美 ○ 創造

 

友人のアーティストから個展への協力を依頼され、それがきっかけで

このたび、紙のオブジェを二種類制作することになった。

 

紙の 「ペラペラな感じ」 を生かして、紙ならではの造形をしたい…

これが、終始こだわりつづけた造形指針。

 

 

 

その展覧会は、《 異形の庭 》 というタイトルがつけられた展覧会で、

「庭をもつ住宅空間とともにあるギャラリー」 という空間の特性と

共振させながら、

 《 詩性のことば 》 と 《 抽象アート表現 》 が相互に還流しつつ

多相的に生みだされた作品群が

それぞれの場所を得ながら 展示されている。

 

これは、女性作家である佐藤省さんが

作りためてきた 《 肩ひじはらぬ日常表現作品 》 をベースにして、

内面世界を、「日常空間性を有する展示空間」 へと重ねあわせを

行ってゆく――そういう 「展示を考えるプロセス自体」 が

アート創造行為になっている展覧会である。

 

実際に、作家は庭がとても好きで、そういう作家が、

庭と住宅とギャラリー空間――という多様性をもった展示空間

を相手に 展示の構想を練る… 

あるいは、床の間の軸物のあり方を テーマにそって異化すべく、

専門の他者に制作の協力を求める… 

そうした 「他者との縁」 もふくめて、

 《 間(あわい)の豊かさ 》 を体現したインスタレーション――

といってよいであろう。

 

 

 

ギャラリーの入り口のすぐ横の 緑が寄りそう窓辺に、

作家がことばを記した短冊を差した 《 ことばの家 》 を置いて、

七夕の日のオープニングの来廊者に

小さな荷札に 何かことばを自由に書いてもらうお返しに、

短冊を一本引いてもらい、おみやげとしてさしあげる。

そういう 「ことばの交換」 をたのしく介在する 《 ことばの家 》 なのだが、

その紙の家を 筆者が制作してさしあげた。

特殊な半透明の紙を用いて、《 紙独自の薄さがもつ美しさ 》 と、

《 折り目が生みだす端正さ 》 とを、表現してみたいと思った。

 

 

 

 

 

 

人の頭の中は いわば無限宇宙…

意識の動きとか、外部からの感覚の刺激に触発されて、

無意識無限宇宙から、時々刻々、断続的に、

ことばやイメージが送りだされてくる…

そんなことを考えながら、《 ことばを発する人間 》 を抽象するような感じで

《 ことばの家 》 を作ってみた。

 

 

 

 

 

 

 

七夕のオープニングでは、和室に配されたさまざまな作品たちと

共鳴するように 舞踏家の趙寿玉さんが純白の衣装をつけて、舞った。

 

 

…彷徨する光の鼓動の下 昼夜 見えない一瞬を揺らぎ

野天に気泡を結わえる一双の舟…

 

 

作家自身によるこの詩のことばに呼応させて、

床の間一面に敷かれた珊瑚砂の上に

――この珊瑚砂は、展覧会の直前に 作家がたまたま出会った

小浜島のアーティストが好意で送ってくれたもの――

一筋の墨の線が引かれたロール紙を納めた 《 ことばの舟 》 が 二艘…

 

その一艘を、寿玉さんが手にとり、ロール紙を引き出して、線を読み、

メッセージを七夕の天空に届けた…

 

この 《 ことばの舟 》 を、舞い人が手にとることを想像しながら、

厚手のトレーシングペーパーでつくってみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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佐藤 省  ― 異形の庭 ―

2013.7.7(日)~7.15(月) 12:00~18:00 (最終日16:00)

ギャラリー 水・土・木/みず・と・き

東京都練馬区小竹町1-44-1  TEL 3955-2508

西武池袋線「江古田駅」または副都心線「小竹向原駅」より徒歩

 

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【追記】

 

この文章と写真を見た友人の新井九紀子さん(墨アーティスト) から

以下のすてきな感想が届いた。

七夕という、人が何かしらの記憶をもっている日に、床の間や庭のある画廊で

〈ことば〉 が紡がれた展覧会のオープニングがあったのは、素敵なことです。

〈ことばの家〉 や 〈ことばの舟〉 の かそけさは、観者それぞれの胸に、秘かに

郷愁を灯らせたことでしょう…

 

 

 

写真:筆者撮影