開かれている状態 | CAFE トワトワトが考えさせたこと

美 ○ 思索

 

 

 

 

 

アート作品は、通常は、作品単体として 完結的にまとめられた

ものとして創作される。 

そして、その作品が具体的な場に置かれる段階で、作品とまわり

の環境との間の関係性の問題をつきつけられる。

作家は、自分が想定した 〈 閉じた世界 ) の中で、完結している

がゆえにもたらされるある種の力を 純粋に トライする。 

でも、現実には、作品という完結体が完全に孤立状態で存在する

ことはできない。

 

美術館やギャラリーの白い壁面は、作品と環境との関係性を

もっとも単純化して 作品の違いを超えて作品を良くみせる無難な

方法だ。

作品にもよるが、作品が本当に生かされる環境は白い壁面では

ないかもしれないし、そもそも、作品と環境のもつ特性との相互

関係を調整する中に 相互の響き合いの可能性が開かれてくる。

それに、本当に作品を味わう ということからすれば、美術館で

つぎからつぎへと作品と真面目に向き合うことは 「効率的」では

あるかもしれないが、よい方法というわけでは 決してない。

楽しむどころか、くたびれはてて美術館をあとにする ということ

にもなりかねない。

作品を味わうためには、観者側の心身の状態がよい状態にある

という前提こそが大切だ。

 

 

私のHPの建築作品の中に、アートウォールというのがでてくるが、

それは、空間づくりのために 空間と完全に融和したアートをトライ

した事例だ。

しかも、そのアートウォールは、住宅の居間と企業の接客ラウンジ

に設置されているので、美術館ではどうしても堅い真面目さに陥っ

てしまいがちな日本人も、リラックスしたふつうの感じでアートの

かもすやわらいだ雰囲気に心地よくひたってくれることであろう。

 

また、私は、仕事をしているときの環境としては、ニュートラルを

好む。 しかも、リラックスできて 気持のよいニュートラル…

だから、アピール性の強いアートは、それが好みのものであっても、

アトリエの中には置かないことにしている。

仕事に没頭しているときは、まわりの世界云々は関係なくなるが、

でも、感覚はつねに動いているし、環境からの無意識レベルの

影響のことも考えると、やはり、ニュートラルにおちつく。

 

 

 

 

 

カフェの空間には昔からつよく関心をもってきた。

カフェの数と 質の高いカフェの存在は、そのまちの ある意味

総合的な文化水準を表しているのではないか とさえ思う。

 

 

 

数日前、CAFE トワトワトを再訪した。 がっちりとした木製のテー

ブルに席をきめて… ゆっくりあたりを見まわすと、前回ずいぶん

と念入りに細部まで楽しんだはずなのに、またあらたに新鮮な

ものが目にはいってきて感動してしまう…

 

 

カフェは、そこを利用する側が自分の好みで選べるから、店の外観

はともかく、インテリアについては それをつくる側が思いきって個性

を発揮しても公的になんら問題はない という性格をもっている。

 

「インテリアの個性」 と 「落ちつけるかどうか」 という二つの条件

に着目してみると、モダーンさを意識してデザインをがんばった

空間は、えてして落ちつけないことが多い。

いっぽう、触覚的視覚にあたたかみをもたらすインテリアの仕上げ

や家具があり、「このデザインはどうだ!」 といったおしつけがまし

いのとはちがう抑制されたデザインのものであれば、概して、落ち

つける雰囲気になる。

 

しかし、落ちつけるのはいいとしても、陳腐なのはつまらない。

やはり、個性を楽しめて、かつ、落ちつける というのが グッド…

 

 

トワトワトは、〈 古び 〉 というプロセスが 個物の様相を控えめ化し、

個物のかつての用途や意味性を希薄化して、微妙なテイストの

ささやきをもった個物に変化したものたちを、店主のたぐいまれな

る感覚がチョイスし、ストレートな直感でそれらを組み合わせる

ことで  〈 個物相互の共鳴 〉 をゆたかに実現している――そんな

くつろぎの空間だ。

そこは、個性のおもしろさにあふれているが、でも、あくまでも、

控えめ…  だから、気持ちがよい。

 

 

 

 

 

建築は、素材というものを さまざまな条件や機能を満たすように

組みあげてゆく。

条件とか機能という前提があるがゆえに、それまでは存在しなか

ったような思いきった形体、あるいはヘンテコでさえあるユニーク

な形体が、正当な理由をもって創造されうる。 エッフェル塔の例

をもちだすまでもなく、生みだされたときはヘンテコあるいは醜悪

なものとして受けとられるものであっても、時間の経過の中で、

馴染まれた存在になって、美しいものとして一般に受けいれられ

るようになってゆくこともある。

 

素材から組み立てる建築とはちがって、かつて生活の身辺で使用

されていたモノという 「すでに独自の機能をもった個物」 として成立

したものたちをチョイスし、組み合わせてスペースづくりをしている

トワトワトのようなケースは、〈 全的な個物のささやき 〉 という力を

生かしている。 

そこには、人間の活動を受け止めるベースづくりとしての建築デザ

インという骨格形成行為ではカバーできない種類の 「イマジネーシ

ョンをあいまいに刺激してくれる心地よさ」 が存在している。

 

 

*写真は CAFE トワトワト (筆者撮影)

 

静止とスローモーションの無限性 | 趙寿玉の幽玄

美 ○ 会う

 

なにか自分自身が融けていくような そんないとしさを感じさせる――

( かそけき美 ) のひととき…

 

毎年一回 銀座のギャラリーで、最高の舞い人と創造的な舞台のしつらえ

による総合アートを ぜいたくに体験できる稀有なチャンスがあり、

私は、そのこじんまりとした深遠なる舞台を毎回のがさずみてきた。

舞い人は同じなのだが、意想外な演出の舞に 毎回引きこまれてしまう。

 

ギャラリーの空間は古く、その様態は整然からは遠いものなのだが、

それが、いわゆるこぎれいにまとめられたモダンスペースには

欠落しがちな ( 独特のゆるい空気 ) をかもしている。

整理されていない空間の出っぱり引っこみが、空間演出の陰影の中で

思わぬプラスのゆらぎをあたえ、うつくしい…

 

この総合アートの核には 作家でもある女性プロデューサーがいて、

その人の眼と創造の熱が ほかの才能を引きよせる。 

 

魂が 魂を 選んでいる…

 

 

 

舞い人は、静止することのゆたかさをうつくしく体現することのできる

魂と肉体の才女で、

その人はかつて 「静止している時は、体がきわめてはげしく働いている…」

と話していた。

もっともっと留まっていたい、でも体がもたない――そのぎりぎりのところで、

( 静の無限性のゆたかさ ) への愛が 燃焼する。

 

 

 

 

 

 

 

この12/17に行われた公演 「白い闇」 は4周年目にあたるが、

その舞台には、空間オブジェと映像の制作で女性作家2人が参加した。

しかも 2人とも今回初めての参加だ。

プロデューサーをふくめ、全員女性…

 

 

全体の舞台の組み上げがどのようになされたのか?

 

まず、プロデューサーがさまざまな音源をチョイスして、音響技術の

担当者(この人は男性)といっしょに40分の長さの音づくりをする。

その創音データを、舞い人、映像作家、空間オブジェ制作者に送り、

それぞれがそこから湧いたイメージでのびのびと創作をする。

そして、本番直前に、全員が集まって調整をしたという。

 

舞い人やほかの作家のことを、プロデューサーは深いところで直感的に

把握しており、信頼している。 

だから、舞い人や協力作家のもつ創造世界の質が相互に共鳴する

人たちによる創造世界なのだ。

そこには、プロデューサーのつくった音というやわらかい基軸が

まずあって、それがたとえば 「循環する水」 といったイメージ (実際の

基調イメージは多重的で詩的複雑さをもったものだが…) とともに

参加アーティストたちの間で共有されるが、あとは、それぞれの個性的な

創造のジャンプが展開されて、全体としてしっくりとした基調の空気を

もちつつも、しかし、まさに意想外の世界が相互に融け合ったうつくしい

静寂の世界が生成されていく…

舞いは、かならずしもリハーサル通りではなくて、即興が入る。

 

 

 

 

 

 

 

この公演は、再演されることはない。

 

プロデューサーと参加アーティストが声をかけた関係者50人ほど

 (空間の大きさからこの人数が限度) を観客とする。

 

まさにぜいたくの極みの時間…

 

 

 

クリエイティブな魂が

 

うつくしく融解しあう

 

人生でただ一回の

 

出来事としての

 

ぜいたくな

 

静寂のとき …

 

 

 

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「白い闇」/季節を舞う  2012.12.17

 

演出・サウンド : 佐藤 省  舞踏 : 趙 寿玉  空間オブジェ : 田尻 幸子

映像 : 小川 真理  音響技術 : 安本 尚平

 

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写真:筆者撮影 

 

手づくりの空間 | 水眠亭とCAFE トワトワト

美 ○ 会う

 

最近 手づくり空間の魅力的な事例に たてつづけにふたつ出会った。

ひとつは 男性がつくったもので、もうひとつは女性の手になるものだ。

 

 

ごく一般的には、男性は、自分の世界にのめりこんでマニアックに

モノや世界を追求し構築する傾向がつよい。

それは、身近な生活の質との関わりよりも、むしろ 「何かむこうの

抽象的な世界」 へのあこがれ(男性的な夢)や追求… 

そして、それにのめりこんでゆくモノトラック性… 

これにたいして 女性は、身近な生活のディテールにひろく関心をもち

それを楽しんでゆく傾向がつよい。

それは、「自己自身のすてきさの意識」 を核にして、生活にまつわる

多様なすてきなる世界への つよい関心(女性的な夢)と行動…

 

生活領域に視点をおけば、女性は 「夢半分、現実半分」 の感じで生き

視野にはいる多様な世界を マルチチャンネル的にあじわってゆく…

これにたいして、男性は、もっぱら仕事にかかわっているうちに 生活

領域のゆたかさをエンジョイする具体の行動からはなれてしまい、

知らぬまに それをたのしむ意識や美学を失いがち…

 

 

 

ところで、今回たまたま出会ったすてきな空間は、男性がつくったのは

住宅で、女性のほうはミニカフェ。 いずれも生活領域の空間だ。

 

 

蛍が生息するという清流に面してひっそりと建つ木造家屋は、じつに

百年以上の歴史をもち、これを、くみとり式トイレを浄化槽方式にする

工事や入りやすいオリジナルの五右衛門風呂をつくることをふくめて

すべての住宅改造を自らの手でやり… 緑深き清流を感じ、暗がりの

生きる独特の空間に仕立てあげてしまった… 

その 〈川の気に包まれた空間〉 は、山崎史朗さんの手になる水眠亭。

彫金をやり、めくるめく万華鏡や茶杓などをつくり、また ベ―シストで

あり、俳人でもある山崎さんは、手打ち蕎麦の名人でもあり、蕎麦は

もちろんだが蕎麦がきにいたってはお菓子のようで うなってしまうほど

おいしい…

自らが求めるものを ぶれることなく実行してきたまさに逸人だ。

串川沿いのその手づくり空間は、「自然態の快」 といったようなものを

実現していて、そこここに山崎さんの眼にかなった上質なモノたちが

しずかにくつろいでいる その 〈部分部分の世界〉 を 目のうつろいに

まかせて ただ たのしんでいる自分…

湯船につかったときのように自分が時空に浸っていて、目と耳と肌

が ここちよく 〈時空の変化〉 をたのしんでいる…

 

暖炉のすぐ近くの椅子にかけて 〈寒気の中の暖〉 をありがたく思い

キャパっシティのおおきなスピーカーから流れる張りのあるクリアな

サウンドにつつまれながら 目は 室内の部分部分を味わい そして

自由に移ろい… 背景に 川の流れの音が 聞こえたり消えたり…

川の緑が正面の窓ごしにたっぷり見えて 夜になると 落葉をのせた

一枚ガラスの天窓から煌煌とかがやくまんまるい月が見えた…

 

 

この空間は、時間をかけて絵を描くように手づくりされたコラージュ

作品であり、そこには、人の手が生みだしたものと自然、そして、

視覚と聴覚と温度感覚のここちよい変化があって、全体が 〈丸い

時間的宇宙〉 になっている。

人の手が生みだしたものといっても、それは、山崎さんの作品で

あったり、山崎さんの眼が選んだものであり、気やすく購入した

ものではけっしてない、ということ…

部屋の片隅に、日本でつくられた最初期のピアノが置かれている

が、ベ―シストの山崎さんは ここでよく仲間とライブをやっている。

そういう音の世界に、手打ち蕎麦をはじめとする自前の料理…

こうなると、もう、空間にゆったりひたって ただ 会話をたのしむ

だけ…

 

 

                                                 

 

 

 

 

 

女性が手づくりしたミニカフェのほうは、店主の沖田悦子さんの

とにかくこまやかなセンスが隅々までゆきとどいた空間だ。

塗装はフラットに仕上げたきれいさではなくて、不均一な表情の

味わいであり、家具類は 古びの美をもったものがそろえられて、

それぞれが異なったデザインである。

空間のそこここにさりげなく配された無数の味わいある小物たちは、

ただ置かれているのではなくて、空間や光との関係の中で独自の

位置をあたえられ、その詩的なひびきを奏でている。

ふと見ると、一隅にかれんな野花がしずかにおかれていたりして…

それらの配置は、計算された…というよりも、直感的なきめかたの

強さを秘めているように感じられた。

CAFE トワトワト という名称は、やわらかで軽やかなひびきをもって

いるが、それはアイヌ語で 「きつねの気配」 を意味するとのこと。

ガラスコップで出された水は、じつはお冷ではなく、お湯だった。

空間づくりと その他の面のこだわりや創造性が、一貫している。

 

 

 

 

 

 

 

 

低彩度な世界や、材質の時間的渋変の中に生成する味のある表情は、

ひとにやすらぎを感じさせ、異質的なもの同士を調和共存させる性質を

もつ。

そうした性質が生かされた空間としてふたつの事例は共通性をもつが、

水眠亭の方は ただただ浸る 〈まるい時空〉。 

これにたいして、トワトワトの方は、構成要素がどちらかといえば抽象的

な性格を有していて、つまり、かつて用途をもっていた 〈ごく身近なアイ

テム〉 で空間が構成されていて、 見る側がかってにふわっとした物語を

想像することはあっても、そこには 高価なアンティーク類にみられるよう

な強い象徴性はなく、だから、そうした部分要素の稠密な構成が、写真

の中でこそ可能な 〈魅力的構成〉 を遊ばせてくれるところがあった。

 

 

 

*写真はいずれも CAFEトワトワト (筆者撮影) 

 なお トワトワトは 2014年7月に営業を終了しています。