Live (リブ)| 意識されざる無限宇宙への通路… | 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

澄みわたった空に浮かぶ雲の千変万化する形と色合い…

水をふくんだ空気の粒子が生みだす形と色合いは、〈連続性〉の中に

かぎりなく精細な変化を織りなしている…

太陽からやってくる無尽蔵のエネルギーによって地球の表層の水は

循環をくりかえし、生き物たちの命を支え、役立ち、

そして水のつくりだす表情がときにわれわれの美感覚を根源的なところで

ゆさぶることがある…

外在するすべてのものは、人間にとっての既知・未知・不可知に関係なく

相互に脈絡をもったいわば全的な存在であり、

その外在を体験しあるいは感動している人間の内面世界の方は、

無意識世界における無限脈絡宇宙を基底にして生きているはずで、

さらに、その無意識的内面世界と外在とは、たとえば〈気〉のような

いまだ解明されざる関係性をはじめ、未知あるいは不可知のなんらかの

根源的な脈絡をもっているような気がしてならない…

 

 

 

昨秋、展覧会への出品という機会をとらえて石膏を用いたオブジェを制作

した。

それは、石膏で造形された〈大地〉と、円錐形の石膏ベースから立ちあがる

ワイヤー造形の〈雲〉、というふたつの要素の組み作品になっている。

〈大地〉は、型に用いた合板が偶然に生みだしてくれたまさに大地の断面を

想像させる粗い質感の側面と、流し込んだ石膏の粘性が自然に形づくって

くれた波紋様のやわらかな表情の上面と、そしてそれになじんでつづく

重力方向の変化を与える隆起面(石膏の流し込みボリュームからていねいに

削りだし適宜磨きをかけて仕上げた)、とおおきくは三つの表情から成って

いる。

〈大地〉の上面の端にある穴は、大地内部の空洞に通じている。

また、〈大地〉と〈雲〉のふたつは、作品が設置される環境の状況に応じて

相互の配置関係が決められる。

 

 

今回の作品は

 

抽象と具象との〈中間〉の力を求めて…

―― 自己の「無意識下の〈合理構築性〉」の外へ ――

 

ということを念頭において制作した。

 

したがって、自己内で決定することに加え、「向こうからやってくるもの」

を取りこむことに意識的であった。

 

 

 

以下は、具体の造形にとりかかるまえにまとめた文章である。

具体の造形の背後にひかえている〈私の世界視〉ともいうべきものの一端が

記されている。

 

 

──────────────────────────────────────────────

 

 

美しい!、おもしろい!…と、或る〈形〉に接したときに感じるのは、

自分の無意識世界の脈絡宇宙の中に、すでに「なんらかの感応尺度系」が

存在しているからだ。

その尺度系自体を、直にとらえることは、永遠にできない。

そして、その尺度系は、確固たる強さを有しているように思われる。

いっぽう、ある人生の時期に、まったく興味をもてなかったり、よいかたち

では受容されなかった〈世界〉や〈実在の形〉に対し、人生経験をへたのち

のある時期に、そして自己をとりまく〈時代性〉や自己固有の〈環境〉に

呼応して、よいかたちで出会い、反応する、ということもありうる。

つまり、〈美意識〉の背景にある尺度系は確固としたところがあるいっぽう

で、変化もしてゆく…

 

宇宙的な脈絡とともにある〈生命〉という存在が拠ってたつところの根源は

科学がいかに発達しようとも、永遠につかまれることはないのではないか。

少なくとも、いまの科学的アプローチの延長上に、生命自体をゼロから生み

だせる可能性はないような気がする。

生命の存立の全体とか、以心伝心とか、魂レベルでの彼岸から此方へと伝達

される暗示的波動のチャンネル(?)とか…  そもそも、これらの世界は、

科学的あるいは数学的認識とは異なる次元にも属した〈無限性世界〉の

出来事なのではないか…

オイラーの公式をご存知でない方もいらっしゃると思うが、1+2+3+ …と

整数を無限に足してゆくと、その合計は、なんと-1/12 になる。

現実世界の感覚の延長からすると、これはありえない数字である!

数学の進歩は想像以上のもののようで、素人目にもこれまでに発見された

〈真実〉は驚異的なものに映るのだが、しかし、数学を含む科学の延長線上

には、無限性の生命そのものの根底をつかむ可能性はないような気がする…

 

生命現象の一部としての〈美意識〉というものも、だから、その一番根底の

ところは、永遠にブラックボックスのままにおかれる…

そして、個人の人生はもちろんのこと、人類の進化の歴史も、永遠に完結

されることはなく、〈過程〉の中を生きていく…

ゲーデルが1931年初頭に完成させたという論文によって、「それ自体の中

に〈矛盾〉を抱えない論理体系」が前提の場合、言葉をふくむ記号論理体系

の世界に〈完全性〉は成立しない、ということが証明されている。 これを

わかりやすくいえば、完璧な理論というものはそもそも存在できないという

ことである。 そしてそのことは逆にいえば、「未来の中に、かならず、

既存知を越える可能性が存在する」――  そういう、これ以上はない力強い

希望をわれわれに与えてくれる真実を示してくれていることになる。

 

アートの制作過程では、創作者が自身の内面宇宙を、正直に透視しよう

とする。 では、なにが〈正直〉である、ということなのか? ――

そこのところが、すでにいろいろの意味を含んでいて、つねにゆらいでいて

定まらない。

逆に、それゆえに、見定めようとする志向活動に、〈価値〉が生じてくる

――  ともいえよう。

 

〈精神的自我〉は、社会的な関係性の結節点そのものである、つまり、

絶対的根拠というものは存在しない ―― という認識は現代思想のひとつの

大きな到達点であるが、〈身体性〉の方は、生命体の「開放系としての

無限性有機組織」とともにあり、〈本能〉というその拠ってきたるべき

ところがつかめない力学系とともにある。

 

美意識というものも、この〈本能力学系〉と脈絡し、作動している…

 

こうした、なにやら定まらぬ無限性脈絡の中にあって、

〈限定された世界〉としての三次元立体の自由造形を、いまの自分の

脱構築的〈超抽象〉の造形・精神運動のたのしみとして、

〈自分の眼の感受性〉を手がかりにして探索してみたい。

 

 

──────────────────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「新しい素材から生まれる重厚さと謎めいた姿の作品である。〈大地〉の

上面の表情が自然の中にありそうで、ありえなく、美しい。 制作過程で

あちこちから舞い降りてきた想念と作家の内に堆積してきた美意識が

合祀されて現出したように思える。 穴は異次元への通路であり、積層され

た始原への複眼的洞察の眼であり、切なさをともなう〈生〉の影を隠しも

している…」───

といみじくも新井九紀子氏が評してくれたように、〈大地〉と〈雲〉という

実存の具体的イメージを呼びよせながら、そのイメージに共鳴的な造形素材

の質感と形態による抽象化をおこない、外在世界と人間の内面世界における

「意識されざる〈無限性脈絡の妙〉」というものに思いをはせつつ、

「〈創造的な限定〉ゆえにもたらされる形象化の響き」をもとめてみたもの

である。

 

 

言葉による表現というものは、人間にとって欠くべからざるものであるが、

しかしそれは〈限定行為〉であり、実在を単純に説明する場合であっても、

無限脈絡の中にあるその〈全体〉をそのままのかたちでとらえることは

できない。 だから、〈限定的表現〉の積み重ねによって、立体的に説明

するよりほかはないのである。

しかもアート表現は、或ることを説明するものではないので、観者を宙吊り

にするようなアート表現なるものをまるごと言葉化することはむずかしい。

或るアートに関して語られた言葉であっても、それは語られた言葉が

対象のアート作品とは別個の独自世界を生み出してしまっている――

厳密にはそういうことになる。

 

しかし、私の作品に対する先の新井氏の評のように、作品に接したときの

「観者の内面の〈動き方〉」というものをその言葉を通して察し、美感覚

あるいは美意識の通底のよろこびを味わうことはできよう。

ときに、観者は、作品に関して作家自身は無意識の奥に潜ませてしまった

ことを、虚をつくかのごとくに気の効いた言葉で伝えてくれることがある。

そういうときは、作品評はまさに〈詩〉だな、響きだな…  などとひそかに

思ったりすることもある。

感覚と美学と世界視などが共鳴しあえる〈よき他者〉の存在というのは、

作家にとって生きているよろこびである―― そう私は感じてきた。

 

作品制作は、もともとオリジナルな自己内宇宙を独自のかたちで掘り下げて

ゆく孤独な世界であるが、同時に、作品世界が介在して作家とよき他者との

間にほかの方法ではなしえない「魂の共鳴」を生みだすというかけがえの

ない価値をもっている。

その点を重視してきた私は、自分が観者として他者の作品に深く感動した

ときは、その感動を自分なりの言葉にして作家にエールを贈りたい――

そう思ってきた。

本ブログにこれまで執筆してきた他者作品に対する評はそうして生まれた

ものである。

 

 

 

*美術作家の中村陽子氏に石膏作業を手伝っていただいた。

ここに記して謝意を表します。

 

写真:筆者撮影

 

創作者どうしの対話 | 周 豪 展

美 ○ 会う 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

作品の制作で

 

その前半は、「作品が、ぼくの従僕」

そして、後半は、「ぼくが、作品の従僕」…

 

制作の後半… ぼくが従僕にならないような作品は

結局、ロクな作品ではない!!

 

両親の老後の介護をした経験があるが

作品に対して自分が従僕になるというその状況は

ちょうど両親の介護に似ている…

 

 

 

作家の周さんとの会話は、創作をめぐって

そして人間世界をめぐっての本質論になることが多い。

二人は、作っている領域がたがいに異なるけれど

そのことがかえって「距離と共感」の話の興味深さを生む…

 

冒頭の言葉は、いま銀座のギャラリー巷房で開かれている彼の個展

会場で、作品を前に、彼の口から、考えながら、ゆっくりとつむぎださ

れた、創作をうまく言いあてた例え話であり、同時に、この人間世界に

対する彼のまなざしの柔軟な真摯さと、いつくしみの深さ、とを

感じさせる言葉である。

 

 

作品は、あくまでも「仮のもの」であり、それを足がかりにして

向こうへ…

向こうにある世界こそが重要であり、逆に、「作品という仮の存在」に

満足してしまったら、それでおしまいである…

彼のこの言葉にも、大いにうなづけるものがあった。

 

 

作品づくりに、とことん取り組む…

が、しかし、その生みだされた作品の存在は

その中を、人が生き、進む、《広大無辺の脈絡宇宙》の中に、たまたま

生みだされた「〈ひとつの位置〉からの照射」にすぎない…

そう、筆者は思う。

 

創作者は、先へ先へと果敢に進んでゆく…

それが、興味のつきぬこの世界の「密度ある旅」になってゆく…

 

 

 

 

 

掲載した写真は、ギャラリーが入っている建物の地下へと階段を下りて

いって、うす暗がりの 壁圧を感じさせる狭間のようなホールの先の

照明された展示室の正面に配されていた油彩作品で

部屋に入ったとたんに筆者の心をとらえた周の仕事である…

 

しばしの全的感動の時間をへて、筆者の視覚は、自由に画面世界の

〈部分〉へと向かう…

 

 

 

 

相呼応する 〈対〉 の形――

その穏やかなコンポジション…

 

ただそれだけのことだが

そこには観者の固有の視覚に応じて開かれる

「無意識世界の無限脈絡」の鼓動が

息づいている…

 

極限の極限まで つめられた図像…

その輪郭のきわめてデリケートな変化…

 

各色面は 何回もの塗り重ねを通して

(空間性)と(平面性)との境をゆらぎ…

呼吸をしている…

 

実存空間そのものではないゆえに

かえって生まれ出る

(空間性)の静かな呼吸とともにある

削ぎ落された平面抽象表現の力…

 

図像の布置は 一部のスキもないのに

それなのに、それは 動きの中にある…

 

 

ふたつの図像は

あたたかい空気につつまれて

さも気持ちよさそうに浮遊し

すなおに遊んでいる…

 

 

 

………………

 

 

 

人間は、一人では存立できない。

おおげさに聞こえるかもしれないが

宇宙史上唯一の (個) が

宇宙史上唯一の (固有の人生) を生きる…

それも、ただ一回…

 

筆者は、いつも、人生時空における

(よき話し相手) という存在の重み

のことを想う…

 

 

 

 

 

 

*周の作品世界については、過去に書いたもの

  があるので、そちらもご覧いただきたい。

   →  http://ops.co.jp/wp/?p=1398

 

 

 

写真:筆者撮影

*この展覧会は 2016.5.16-5.28 巷 房(東京銀座)で開催された。 

 

触覚的図像と人間の内面自然性 | 醍醐イサム作品

美 ○ 会う 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

山歩きをしていてふと出会う

なんとも表現できないような面白い断層面の岩肌の表情…

それは、ときに何かある動物の姿を連想させたり

またときには、幾何学的な図形にみえたり…

 そのとき、私の内面は、自然界が偶然に生成したにしては

ありえないものに出っくわしたという感動とともに

それが、「他の〈存在〉や〈感触〉」を暗示する「物質的な表情」に

すぎないものなのに、それをみた自分の内面世界が共振している―― 

その「暗示」という 深遠な内的運動そのものの不思議さのこと

を考えてしまう…

 

それは、美しい風景を眺めいる場合のように、〈実存〉を「そのもの

として」 じかに感受するのとは 「感覚の運動の様相」が異なっていて

〈実存〉を、きっかけとしながら

私の内面が、かってに遊びをはじめてしまう

「無限の深さを有する無意識世界の〈内発型宇宙運動〉」

ともいうべきものであろう。

 そのときの私は、眼前の〈実存〉の側に一方的に引き寄せられて

一体化させられてはいない ―― つまり受動的ではない状態である。

対象を眼で撫でながら、即 それに連動して、無意識世界の中の

なにかが「内的五感系の脈絡運動」をしている…

 

 

 

 

南青山の Gallery Storks で 最近みた 醍醐イサム のモノクロームの

平面作品のひとつが、自分の中で勝手に動いてしまう そういう

 「無意識世界の内発運動」の瞬間楽と不思議さとを つよく実感させる

機会を提供してくれた。

 しかも、そのあと いろいろのことを考えさせるおまけがついて

たいへんに興味深かった。

 

 

その作品は、醍醐が展開する幅広い作品世界の中では

例外的な性格のものと思われ、画面が複雑多様な要素から成り

「風景的な空間性 あるいは 空気感」を感じさせる。

小さな画面の中に、微細なる線分や明暗による複雑なテクスチャー

などが、きわめてデリケートに かつ 緊張感をもって刻され

あるいは、しっとりと湿度をふくんだかのような空気が融けあい…

そうかとおもえば、何やら異質な形象が唐突に投げいれられて

隣接する部分風景と融合して

筆者の〈記憶の風景〉の肌触りと重なりあったりする――

あるいは、なんとも意味不明にそこにある「とらえどころのない

物質性図像」を 味わう――

そういう「〈密度世界〉を 覗きこむことを こちらに自然に仕向ける

〈作品サイズの小ささ〉」が、まさに生かされた

 〈イマジネーション誘発装置〉であり〈眼の触感装置〉のような

作品であった。

 これがかりにサイズの大きな作品であったならば

観者側の視覚と内面運動とが、拡散的な性格を帯びることとなり

こういうふうな観者側の〈内向〉は、成立しにくくなるにちがいない。

 

 

 

「自然界の風景」に対する感動というものは、対象風景と一体融合的で

したがって、意識内時間がとまった〈刹那の受動態〉の中にとりこまれる

のが通例である。

 

しかしそれが、断層面の岩肌の表情のような「単純な物質図像的なもの」

になれば、こんどは、こちらの内面に自由度が生まれ

「内発的な想像運動や内的触感」の〈集中的時間〉を生成する。

 

そして、人間の手によって 自然が成すよりも自由に創出された抽象図像は

しかも、モノクロームという「リアルワールドとの〈距離〉をもたらす抽象

表現」は、とくに世界を感受するそれなりの眼をもった観者に対して

内面への独自の刺戟を誘発する可能性を秘めている…

 

 

人間の〈生きもののような感覚〉にとって、神が造化した自然物よりも

さらに刺戟的でたのしい世界を、醍醐は、造物神にかわる、あたかも

「人間の内なる宇宙神」として生み出すことを たのしんでいる ――

そんな想像をしたりもする…

 

 

 

 

醍醐の抽象は、画面構成において

 

 

  「内的に既存する調和感覚」にすなおに身をまかせることをせずに

  創造プロセスにおける美意識の〈必然〉の枠を あえて突きくずすように

  モノクロームで沈められた画面の中に、現実感覚の〈触覚〉とつながる

  ような〈触覚的図像〉を画面にとりこみ、それらを、唐突的関係

  をもおそれずにダイナミックに構成することにより

  〈人為的な整序指向〉とは逆の「自然性のゆらぎのベクトル」の中を

  生きる…

 

  そこでは、「現実世界の肌触り感」と「抽象的構成ならではの面白さ」

  との間を、観者の深奥は、ゆらぎつづける…

 

 

  それは

 

  〈リアルワールド〉と、密接し、共にある、〈抽象世界〉…

 

  とでも言えようか。

 

 

とても大胆な創造画面であるのに、その画面に「これ見よがし的な浮き」

 は感じられず、あたかも「現実の自然界の様相」のごとくに

かそけき〈 ゆらぎ〉とともに それはある…

 そうした醍醐の作品の性格が、観者をして、〈解放された想像運動〉の

上質な時間に じわっとひたらせてくれる…

 

 

 

 

抽象絵画の視覚的な表情の中を、観者の眼が、無意識世界と連動

しながら動き、視覚以外の外部刺激受容センサーが周囲の世界から

完全に切りはなされて、内面が想像運動の中を解放的にさまよい

同時に、内的触感を味わう…

 

 

その想像運動や内的触感がどういうものかといえば

 

イメージ的には とてもあいまいであり

〈絵画の表情〉を眼が舐めながら、なにか無意識世界の感覚系の脈絡を

「いつもはそうされていないような不思議な仕方で、マッサージされる」

―― そんな 宙づりにされるような感じ、とでも言おうか…

 

 

 

 

作品に接していると、画面をなぞる眼と連動する内的想像・触感運動は

文字どおり とどまるところをしらない…

 そこでは、作品を見終えたあとの「追想」はほとんど意味をなさず

作品を体感しているときの「進行しつつある時間」のみが

意味をもっている…

 

 

醍醐のとらわれない自由な創造力…

そして、観者側の感覚脈絡宇宙の広さと深さの個別性…

その〈出会い〉から生まれる 密やかで粛々とした可能性のロマン…

 

 

そのロマンは

 

  人間の  そのつどの

 

   「〈自然性〉への深奥回帰の時間」

 

でもある…

 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影

*醍醐イサム個展 ― 溶光融光 ― は 2016.5.11-5.21 

Gallery Storks (東京南青山) で開催された。

 

GARDEN | 金子清美作品

美 ○ 会う 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

その作品は、遠くから見ると一見ていねいに描かれた線描画

のようにもみえる…

がしかし、それは通常目にする平面アート作品とは一線を画するような

あるユニークな質の気配をたたえていることにすぐに気づく…

 

先日、金子清美さんの最近作をみる機会があったのだが

これはそこで体験した印象である。

 

 

 

なんと表現すればいいのだろう?

 

人が手で描いた線は、その背景に 描き手の意識および無意識の世界が

控えているがゆえに、それが ある種の 〈個的一貫性という世界限定性〉 に

かならず帰着してしまうところがある。

 

たとえば、美しい線を描こうとすれば

その線は、描き手の美意識と手の運動の相乗としての線であり

つまりその相乗的表現は、〈描き手の個性〉 のモーメントの中にある。

そこから 表現体のかけがえのない個性的美 がときに生まれてくるのだが

他方で、創造的行為は、つねに、あたらしい表現世界への越境であるから

そもそも表現者自身にとって なにやら不明な

この 〈個的一貫性という世界限定性〉 つまり 〈自己自身の殻〉 を

表現者はやぶろうやぶろうと苦しい時間と格闘することになる。

 

筆者はかつて、ピカソのドライポイント作品 「真夜中の馬たち」 に出会い

その作品の前で足が釘づけになってしまった経験がある。

カーブする一本の線の のびやかな勢いと その先に連続しながらも

不意に現われる線質の変化――  そのきわめてデリケートにして大胆な

融合美にただただ魅了されるばかりであった。

そのピカソの線は、ピカソのフリーハンドから生みだされた個性の線である。

それは、ピカソの 〈個的一貫性〉 の中にあり、強烈な個性であることは

いうまでもないが

同時に、いみじくも一個の天才の 「純粋な手技による線描の限界点」 を

示したものともいえよう。

 

 

 

 

金子作品は、そうしたフリーハンドで描かれた線とは異なる

にわかにはことばでうまく表現できないような 〈独特の空気〉 を

ただよわせていた…

 

人によるフリーハンドを超越した

「〈単純性〉 と 〈超複雑性〉 とが ないまぜになったような 〈線〉 の

抽象世界」 …

 

自由にゆらぐ 〈超複雑性〉 の線形が

人による 「全体視的な変形構成力」 と さりげなく化学反応し

観者の眼を不思議な感覚へとさそう…

 

 

 

作品に近づいていくと、ある距離のところで急に

作品のディテール世界が露わになってくる…

なんというか、自分の内面と作品とがなめらかな抽象的共鳴の中

にあった遠隔視の世界が、むりやりに現実世界に引きもどされるような…

そんな 内面の温感を唐突に引きさげられてしまう体験をする…

 

 

 

金子は 庭で植物とともにすごす時間を大切にしている人であるが

今回の作品は、氏の自宅の庭で繁茂しているワイヤープランツの

枯れ枝を集めてストックし、それを素材にして作品を創った。

それに、ところどころに融けのこった雪のように蜜ロウがからみ

また、銀緑色のふくよかな多肉植物の一葉一葉がアクセント的に

配されている。

アクリル板 (前面) とプラダン (背面) で枝をサンドイッチした

正方形のパネル2セットがすこしずらした形で重ねられており

重なった部分では、後ろ側の枝の影が 前側の乳半プラダンを通して

うっすらと透けてみえている…

 

 

 

そうした作品の構成を近くで見つめているうちに

ガーデニングという 〈行為〉 そのもの が ふと頭に浮かんでくる…

 

まさに リアリティの世界そのものである 〈ガーデニング行為〉…

植物という生命体との いつわらざる没我の交わり、愉しみ…

 

 

 

そう!…

 

金子の作品は、単なるイメージレベルの美的表現体ではないのだ!

 

 

 

作家の内面の根源に ゆたかなる栄養をプレゼントしつづけている

日常の 「厳然とした生活時空としてのガーデニング」 は

植物という静かなる生命体との 「無限性の内面的宇宙旅行」 であり

人間という固有性を越境して呼吸する本源性開放行為である…

 

そのいわば 植物という 〈実存〉 との交わりの旅は

植物の 〈良い面〉 を感受したい… という志向性をもちつつも

そうしたガーデナーの志向性を超えたところで

植物という生命体の 〈外姿〉 とか 〈匂い〉 とかの超複雑系に

ストレートに対面する―― そういう出来事である。

そこでは、「主観による選好」 という枠をこえたところで

時々刻々と 〈まるごとの実存〉 に感覚がさらされており

内面の宇宙世界とは次元を異にする 「自己外部の新世界」

との感覚的出会いと その認識とに、可能性が開かれている…

 

 

 

金子は、その 〈内面の栄養源としての日常宇宙〉 の

リアリティのかおりを 表現の素材レベルで積極的に保持しつつ

たとえば 〈生花〉 といった表現形式とはまったく異なる

〈抽象化の力〉 によって、独自の美的表現体を構成してみせた――

 

 

 

観者と作品との間の 〈距離〉 による視覚の変化を介在させることで

やわらかな美的抽象イメージとして伝わってくる遠距離で観るときの

作品の表情と

素材植物の 〈実物性〉 のもつ強さによって生々しくかもされる

「ガーデニングという旅」 の匂いただよう近距離での作品の表情とが

視覚のごく自然な連続性のうちに 異相世界として体現化され

観者をして それら二つの世界のあいだを往還させる…

 

つまり 作品の見かけはひかえめなのであるが

じつは、観者に対して 「内面のワープ装置」 のように作用する

ダイナミックな構造の表現体になっており

 

さらにいえば、この世界の 「実存の五感的まるごと性」 と

 「〈快〉 の方向へと主観的に誘導されがちな感受イメージ」 との

関係や それぞれの世界のもつ 〈独自の価値〉 といったものを

あらためて突きつけられてしまうような普遍的な暗示力をももった

 

「この世界の 〈多元性の意味深さ〉」 が秘められた作品

 

といえよう。

 

 

その作品が、作家の 〈植物という生命体〉 にたいする

深い慈しみから 生まれてきている…

 

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

自己表現の否定の地平で… | 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己表現の否定?―― それでどうやって作品が成立するのだろうか?

そう思われる方が多いのでは… と思われる。

 

筆者は、これまでもっぱら抽象立体作品をつくってきた人間だが

3次元性の抽象表現のことをあらためて考えてみると

たとえば、ある風景に出会って、その印象を、われわれが住んでいる

3次元空間と同じ次元の外化表現として 〈物理的に確定〉 しようとする。

また、かつて筆者は、「世界の連想」 というオブジェをつくったことがあり

その作品では、人間世界を生かしている力としての二つの存在 「自由を

もとめる個性的存在」 「異質性を統御しようとする全体中心化の存在」 を

イメージし、そして、その現実的な力の世界に、どこからやってきたのか

不思議におもわれるような 〈可能性〉 をもたらす 「〈存在の世界〉の外側

の不決定的なる宇宙」 という仮想的なイメージを加え

これら三つのそれ自体〈抽象的〉な契機を、ある意味 〈美的な抽象表現体〉

に変換して 固定する――

そういう いわば 「人間世界への根源的なまなざしの造形化」 を

したことがある。(*1)

 

自己表現の否定… といっているのは、制作者の内面にあらかじめ生まれる

「造形のためのいっさいのメタフォリカルなイメージ」 から出発することを

やめる―― そういう意味である。

 

自分を離れる…   内面を 〈空白〉 にする…

 

そして、制作に用いられる素材自体が 「形姿の可能性」 の旅にでる…

素材のもつ 〈形状の次元性〉、〈手による加工の性状〉 の意味…

そして、今この時の〈形姿の力〉… そうしたさまざまの可能性…

さらに、「造形という行為をめぐる 人間の内外宇宙の 〈全体性不可知の

脈絡〉」のことを想像つつ、交絡しながら、制作がすすめられてゆく…

 

しかし、制作の過程では、自分の内なる無意識の世界に

〈さまざまな脈絡の密度〉として そのルーツが存在しているであろう

ところの 〈世界認識〉とか〈美意識〉 などが作用しないわけは

もちろんなく、いぜんとして 自分がいる…

 

自分を 離れながらも、自分がいる…

 

そうして、造形の背景にあって、それをを先導する 「表現体のありかたに

〈統合〉 を指向させる内的な意味性」 を棄てさるところに立って制作を

おこない、結果として生成される作品は、感受される局面において

素材そのものの形姿が 〈裸の状態〉 で観者に作用し

「あいまいな連想を触発する装置」 のようなものとなる…

そういう試みから生まれたのが、ここに紹介する筆者の最近作である。

 

 

 

作品は、〈シンプルの力〉 をもちたいが、しかし、響きの浅い単調なもの

にはしたくない。

いろいろの過程はあったのだが、結果として、素材として ふたつのものが

選ばれ、その 〈対立的響き〉 の可能性を探ることにした。

 

素材をふたつに限定し、そして、素材の 《力学的特性》 を生かすなかで

〈自己の美学〉 を作動させながら、なんらかの 《力》 をもった表現体を

結果的に生成させる 「素材との 《手》 による対話」 としての制作…

 

素材の選定では、自分の美意識が当然に、つよく作用する。

そこでは、卑近なもの (高価だったり、立派だったり… そういうもの

ではないもの) で、手で切ったり曲げたりの加工がごくごく容易にできて

作業が大仰不自由にならないものに、こだわっている。

 

 

そして、具体の造形では、《軽やかさ》 や 《かそけさ》 のようなものを

目指した。

構築的なものがとかく有してしまう 「がっちりとした堅固さ」 とは逆の

《ゆらいで あいまいな世界》 …

 

素材として、軽やかなもの、はかないもの… が選ばれているのは

「いまこの時の感覚」 を重視している ということに加えて

素材の繊細さが、その存在性を希薄化し、夢かうつつか?

という浮遊感覚を 《空間性》 とともに現出させるからである。

 

たとえば建築の場合は、《空間》 の中を移動することで、刻々〈別の世界〉

を体験することになるが、立体アート作品は一点凝縮的で、せいぜい作品の

まわりをめぐって 異なった角度から作品をながめる変化がある程度である。

今回の作品では、そうした一点凝縮的なアート作品を

それに 《空間 》 あるいは 《気》 を与えることで

一点凝縮性から解放させることを試みた。

 

 

そもそも、筆者にとってのアート作品の制作行為は、

どこまでいってもつかみきれない

 「精神と物質にまたがる深い脈絡宇宙」 を

探索的に旅すること にひとしいのだが

そうした 《気》 の中にある素材のはかない形姿は

それが、観者の内面宇宙の無限へと解放されている――

そういう かそけき気分を

この作品を直に体感する者は感じることであろう。

 

 

 

この作品の中心をしめる 〈自由曲線を描く針金〉 は

亜鉛メッキされたスチールワイヤーで、径0.28mmの極細のもの。

指先で、ソフトにソフトに… 息をつめながら、カーブを作っていった。

ちょっとでも扱いをまちがえると、角がたってしまう…

スチールワイヤーは、外力に対してきわめて敏感に変形するので

「こちらの美学を満足させるカーブ」 になってもらうには

心をこめたこまやかな扱いが要求される。

そして、いったん形状ができると

その形状をしなやかに保持する 〈弾性〉 をもっていて

たとえば粘土のように、指で押したらへこんだまま… といった

こちらの言いなりになるような単純受動性のマテリアルとは異なり

《ひかえめな反発的個性》 を

手による造形のその場ですぐに主張してくるところがあり

そこが、なんともいじらしい!

 

いっぽう、クラッシュして造形した紙のほうは

バルカナイズドファイバーという 工業分野で用いられている硬い紙で

含水させてプレスすると成型できる、という特性をもつ。

今回の作品には、厚さが0.25mmの薄いものを使用しているのだが

それは、あたかもプラスチックのような感じで硬く

そのため、クラッシュしたときの折り目部分の陰影のグラデーションが

普通の紙では得られない独特の美しさを見せてくれることを、知った。

 

 

今回の作品での素材のありかたは

常識的感覚からすれば

柔らかいもの と思われている 〈紙〉 が硬く

硬い と思われている 〈針金〉 が 逆に柔らかい…

既成感覚を裏切る素材――  という意外性が

触れなければそれと分からないように、隠れている…

 

また、今回の作品では

《手》 による自由自在な造形、にこだわっているため

日常生活で通常視化されてしまっているマスプロダクツの

必然的形態であるところの 〈幾何学的単純形態〉 とは

あえて距離をおいている、ということを付記しておきたい。

 

 

 

 

 

今回の作品は

 

背景に、メタファーの元の 形態的イメージ や 概念 がないために

素材のダイナミックな外姿が 裸の状態 で観者につたわり

作品に対する観者の側の 〈構え〉 がとりはらわれていたことが

観者の反応でわかり、うれしかった。

 

また、実作品を体感するときの

 《立体視》 にひそむ妙味…

《全体と部分》 を重ねて見ている視覚の厚み…

そして目の 《ズーミング》 の自在さ…

そういうものが複合した実存の視覚的体感は

写真ではまったく消えてしまうということを

繊細な素材を用いた今作品では

とくに強く感じさせるところがあった…

だからこそ

実作品の 《生の体感》 こそを

大切にしなければならない、という…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―― 作品をじかに体感してくれた方からの反応 ――

 

 

 

作品の支持体の立ち上がる壁面が 〈斜め〉 になっている

ところに、最初に目がとまった。

ワイヤーが無限へと飛びだすためには

垂直ではなく、斜めに立ち上がらないと、力は弱い。

かつてバスケットをやっていたことがあるが、ゴールするときは

垂直にジャンプする。 だから、ゴールは垂直に立っている。

それらを連想しながら 〈斜めの勢い〉 が、ワイヤーを生かしている

と感じた。

その部分で、壁の〈斜め〉 が観者をみごとに裏切ることもきっとあり

それで戸惑うまわりの反応も、おもしろいだろう。

そこに、その人の既成の感受性が、垣間見えるから…

 

「無限へ飛びだそうとする線」 と

「永遠をそこに刻もうと、それぞれの形態で佇む紙の陰影」

との対比は

この自然界の仕組みのような…

人間の見えない 〈内的宇宙〉 が眼前に提示されたような…

言葉にはならない 〈漠然としたモヤモヤした空白〉 を

形にして見せたのが今回の作品、だと思う。

 

ワイヤーの醸す浮遊感は

この空白が、ほとんど陰影を作らず

そのもの自体がそこに存在する姿から

発している…

 

アートと建築の狭間をゆらいで

思考の闇をゆらし

そのまた深い宇宙を

垣間見させてくれる、作品世界…

 

目をこらして、作品を見る…

そして、目がなめらかに移動してゆく…

そこにある 「 〈一瞬のかたち〉 の自由さ」 が

見る者に自由に発想させる…

その無礙なる自由さ!

 

(佐藤省 artist/poet/art director)

 

 

 

自己表現を一度否定してみる、それでもなお滲み出る自己…

そこに個の作品が在るのでしょう。

今回の作品はコンセプトに言いつくされていて

付け加えるとすれば、実作品が観者にどうみえたか、だと思うが

コンセプトからの乖離を、かぎりなく縮めて可視化しえており、美しい。

作品は気息し、極微から極大の世界を取りこめている。

また、これまでの作品にくらべて、動的要素が増し

観る側に作品感受の余裕をもたらしているように思われる。

 

(新井九紀子|ことばの世界を図像世界化する墨画家)

 

 

 

畑さんの作品のような空間を歩きながら…

あの世界(観)に揺さぶられながら身を任せたら

どんなかな…

と作品を観てから考えていた。

 

(トヨダヒトシ|スライドショーのアーティスト)

 

 

 

 

 

*1 ―― 詳細については、2013年11月16日付の掲載文

「世界の連想 | 畑龍徳作品 - 存在性希薄化のアート – 」

をご覧ください。
写真:筆者撮影

 

格好をつけた 〈 整 〉 と 平凡な 〈 不整 〉 | 畑龍徳作品           Sharp Figuration / Crushing

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

                                           

 

99%の繊細さと

1%の大胆さにより

均衡を保っている宇宙

 

「 いまここ 」 

を生きる実感から導かれた

最小限で最大限の要素

 

清潔な布で

磨きあげられ浄められた

たったひとつの細胞空間

 

または浄化装置

 

そしてそれは

光と風を導き

やわらかく繋がるための

ひらかれた心の宇宙 …

 

 
 評 : 甲斐瞳 artist

 

 

―――――――――――――――――――

 

 

 

 

格好をつけた 〈 整 〉 と 平凡な 〈 不整 〉

Sharp Figuration / Crushing

 

というタイトルの小品を Message2014 という

毎年年末に開かれる展覧会 に今年も出品した。

 

 

作品構成に参加させる要素を縮減、シンプル化させた世界で

形態と空間の相互作用のバランス点を 〈 鋭敏化 〉 して

自己の 〈 内面宇宙 〉 にひそむ  「 美意識の性状 」 を

あぶり出してゆく …

 

逆にいえば 表現体の 〈 複雑性の妙 〉 や 〈 パッと見強度 〉 に

無意識的に 依存してしまうことを あえて避ける …

つまり 〈 美の法則 〉 の中にいながらも 

 「 美への 〈 可能性の豊穣 〉 」 に あえて浸からない

―― そういうプロセスによる 「 内面世界のあぶり出し 」 …

 

 

 

こういう趣旨で  ―― 素材は すべて 〈 純白の紙 〉  を使用 ――

 

〈 不整 〉 の部分要素は 特殊な白色紙を折り紙程度の大きさに切り

「 意図を働かせず 」 に手でクラッシュし その一個目と二個目を

あえて使用して 〈 選別 〉 のプロセスを介在させていない。

ただし クラッシュしたときの球状のサイズだけは

〈 整 〉 の部分要素である 〈 カベとのバランス 〉 がとれるように

大雑把ではあるが 配慮した。

クラッシュした紙の 〈 襞の部分 〉 に なぜか ほのかに

クリーム色のグラデーションが現われたのを発見したとき …

 これだ! と思った。 まさに 向こうからのプレゼント …

 

 

 

人の 〈 内面宇宙 〉 …

 

それは 人それぞれの人生経験をへて

はかり知れない複雑さと

不確定性を内包する 〈 脈絡 〉 を

形成しているはずだ。

その無意識世界は

直接的には とらえることができない …

 

でも 作品を制作するプロセスの各局面局面で

意識的に ある判断を  「 直観的に 」 するときに

それはイコール

〈 内的脈絡 〉 の いつわらざるアクションである。

 

 

 

そうして結果した作品は 〈 不整 〉 を含めて美的である ――

 という世界内にとどまりつつ、つまり 〈 美的 〉 という 〈 整 〉 に

包含されつつ

部分要素としての 〈 不整 〉 が、部分要素としての 〈 整 〉 との

対比の中で、平凡どころか かえって特色を主張しだした …

 

〈 不整 〉 がもつところの 〈 ゆらぎ 〉 …

 

 

 

 

 

自己の 「 内面世界のあぶり出し 」 という

自己中心の制作過程は

当然 他者の眼は 無関係であるが

100人以上の作家が参加する企画展へ出品する

という動機を自己に課して 制作をし

そして 自分自身が納得すれば

 「 結果として 」 作品を展覧会に出す ――

 

そうして 作品が衆目にさらされる …

 

 

 

来廊者の作品に対する印象などが ことばとして

ぼくの耳にとどくことは 通常きわめて限られているのだが

とくに今回は 前にのべた作品の性質上

他者の反応は 期待していなかった。

 

 

しかし 作品搬入のときに イラストレーターの小渕ももさんが

まだセッティングされる前の横っちょに置かれていたこの作品に

気づき シンプルな作品性に 真っ先に反応してくれた …

 

ぼくは 作品を構成してゆくときに

作品サイズがどんなに小さくても 物質を配置するごとに生成変化

してゆく 〈 空間性 〉 を見つめている。

だから 小渕さんの反応は 氏の眼が空間的であることを暗示して

いるのではないか … とぼくに想像させるところがあった。

 

 

 

ぼくの作品をみに 知りあいがわざわざ会場に足を運んでくれる

ということは ほんとうにありがたいことだと思っている。

そして 作品をめぐって来廊者と直接話をする機会があったり

感想メールがとどいたりすれば 自分は いわば作品を介した

〈 スペシャルな会話 〉 を楽しませてもらっていることになる …

一人歩きをはじめた自分の作品が 鏡のようになって こんどは

 ふつうの会話では 「 決して出現することはない角度 」 から

他者を 眺めさせてもらっている …

 

 

 「 白い小さな空間の中に、〈 不整な形 〉 の存在感の大きさに

驚いた。 光と影、白の持つ特性、相対するもの、が新鮮で

まるで宇宙を見るかのよう …

洗練された 何気ない シンプルな美しさ … 」

(岩崎恵美 singer)

 

 

「 光の差し込むシャープな影が キリコのよう …

薔薇の花のような 丸いクシャクシャしたオブジェが

大きなアジサイのようにも見え 色を様々に 想像できる … 」

(杉田茂樹 editor)

 

 

「 〈 要素の関係性 〉 の 苦悩など寄せつけぬ 強い存在感 …

風の通る道筋を思い … 光があやなす影の深さと匂い

に寄りそわれた 〈 空間を切る境界 〉 への認識 …

思わず じっと佇ませてくれる …

小さいがゆえの 凝縮された宇宙 …

光讃え 知的な陰影を放つオブジェ … 」

(佐藤省 artist/poet/art director)

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

世界の連想 | 畑龍徳作品 ‐ 存在性希薄化のアート ‐

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銀座のギャラリー悠玄で 「Message100 おしゃべりなArt展」 という

展覧会が毎年1回開かれていて、今年(2013年)も11月11日~23日

の2週間にわたって開催された。

同展では百人の作家たちがさまざまな関心の位置で作品を作って

いて、それぞれの個性を楽しめる 中味の濃い展覧会になっている。

この展覧会では、人間世界の 「多様性原理」 のことを毎回考えさせ

られてきたのだが、今回あらためて こんなことが頭に浮かんだ…

 

 

人はいつも自分自身のことを考えているけれども、でもこの世界には

自分とは異なるものをもった他者がいて 直接に間接に交流できる

からこそ 楽しい…

自分のことは自分が一番よくわかっている ―― これは真実であるが、

でも自分の良いところの多くは自分には見えず、他者こそがそれを

エンジョイしてくれる ということも真実。

おかしなことである。 自分のことばかりに意識が向かい過ぎていると

このことに気づかないで、ついつい傲慢になり、他者からはよ~く見える

その人の品格や美学のありようが すっかり萎縮してしまっていたり、

あるいは逆に、自分には良いところがひとつもない などと自暴自棄に

おちいってしまったりするかもしれない。

 

男女のことを考えればわかりやすいが、米国生活が長い日本人

女性が 「女と男は、まったく違う生き物よ!」 と語ったことがあり、

わたしはその時ハッとさせられたのだが、肉体的なことはともかく、

男女の内面の違いは それはそれは大きく…

でもそれは、《 対(つい)の世界の共鳴的深さ 》 へとつながる可能性を

秘めた違いである、ということ。
 

 

 

さて、わたしは、今回とても繊細な素材を用いた表現を試み、素材の

希薄化された存在感の中に立ち上がってくるものを求めて作品を制作し、

それを Message100展 に出した。

 

素材は、特別なものではない ごく身近なものなのだが、その素材が本来

もっている力学的特性を見つめ、そこから生まれる独自のシェイプを

メタファにして 「人間世界が生きていられる三つの次元」 を表現してみた。

 

 

 

 

 

 

素   材 :  トレーシングペーパー(t=02mm) 糸状針金(Φ0.23mm) 

         虫ピン(Φ0.5mm)

          ケント紙貼りイラストボード/台紙 

         スチレンボード/台形ベース

 

 

コンセプト :

 

長方形の白い紙を限定世界として、そこに3種類のデリケートな物質が

配置されてゆく…

トレーシングペーパーは、たわませると2次元性から3次元性へと変化し、

その弾性を固定するためにはベースにはいつくばせる必要がある。 

半透明な紙には、画面構成を大きく決定してしまう力がそなわり、そして

その陰影は実体の形と比べて、意外な様相を示す…

虫ピンは、剛直! 実体を1次元性から脱却させるためには相当の力を

強いなければならず、その陰影は、クリアな個別性の強さと、群の中の

リズムとを響かせる…

糸状の針金は、3次元中にそれこそ自由自在に形を展開してゆき、

雲のように浮遊を望む… 網目の陰影は、かそけさのグラデーション…

 

自由を求める個性的存在と 異質性を統御する全体中心化の存在と

不決定的な存在外宇宙と…

 

 

 

上の写真をご覧いただこう。

 

右側の抽象化された虫ピンたちが 「自由を求める個性的な存在としての

人」 を表していて、概して集まることを志向している現代の人間たちが

それこそ多様にそれぞれの位置で生きている。 

そこには、傾向を同じくする人たちの集合だとか 男女の結びつきだとか

いろいろあり…  こうして右側に、《 個の自由意思ベクトルの世界 》

ともいうべきものが抽象されている。

 

中央には 特殊なトレーシングペーパーの布置によって 「個性をもった

人間たちが 《 共に 》 生きてゆくための、主として不可視の存在である

 《 中心化の力 》 つまり 《 共通の仕組み 》 /その中で一番かたい存在が

 〈法律〉」 を、極限までシンプル化した形で表象している。

長方形の領域にバランスするように高さ2ミリまで縮減された曲線状の

トレーシングペーパーは、あえて正円弧にはしていない。 

自然なヘア―カーブともいうべきラインになっていて、

これは 「中心化の構造」 が硬直したものになっては駄目で、そうかといって

ふらふらしてもらっても困る。 そんなニュアンスを込めた形である。

 

以上のふたつが、この世界をつきつめてとらえたときの、

いわゆる 「存在」 である。

 

 

でも、人間世界が生きて存在してゆくためには、もうひとつの次元が

不可欠である。

それが左側に 髪の毛のように繊細なワイヤーで表現されていて、

われわれに、《 可能性 》 とか 《 ヒント 》 とかを思わぬかたちで付与して

くれる 「源泉としての宇宙」 ―― それである。

 

もともと人は、内面の認識世界では 「確定指向」 と 「不確定」 との間を

つねに曖昧性をかかえながら生きていて、また同時に、認識以前の

五感がまるごと脈絡する系としての感覚体験の中を生きている。

この宇宙の根底には 《 矛盾  》 が存在し、矛盾のない形での完全認識は

不可能であるのだが (ゲーデルの不完全性定理)、でも、生命という

これ以上ない不思議ですばらしい存在を生成するほどの宇宙の根底には、

記号論理を介した認識世界の一貫性とは別の何らかの 《 一貫性 》 が

厳として存在しているようにも思ってしまう。

この 「不決定的な、《 存在 》 の外の宇宙」 を、複数本ではないただ一本の

ワイヤーで表現してみた。

糸巻きに巻きつけられていたワイヤーは、一定の曲率で全体がカールして

いたが、巻きをほどくと、ゆるゆるとふくらんでゆく… 

そして、ちょっとでも無理な力を加えると なめらかな自然なカーブが壊れて

いってしまう。 

薄紙の風船でもあつかうように、ワイヤーをそっと手のひらの上でころがすように

形状の変化を引きだし、「素材のもつ力学的特性が生かされた 《 自ずの美 》 」

を体現していると思われたところで、交点を何ヶ所か接着剤で固定した。
 

 

作品は、このように、人間の三つの世界のメタファを 《 並置 》 して、

相互の響き合いとして表現されている。 

 

この 《 並置 》 という方法は、トレーシングペーパーと虫ピンとワイヤーを

同一領域の中で重合的に扱おうとすると、それらの間に 「視覚美における

相対的なバランス関係」 を発生してしまい、きわめて繊細な素材の

それぞれに、「繊細の中での、ある意味の視覚的強度」 をもたせたい

という条件との間に矛盾を生じてしまう ――

そういうことで着想されたものである。

 

 

色彩やマチエールの多様なゆたかさの世界にかかわることをあえて避け、

《 形のみ 》 で造形する。  しかも、その形の存在性を希薄化する。 

そこに立ち上がってくるデリケートな世界の響き…

 

 

 

 

 

 

 

希薄化された存在は、地平にどんな影を投影するのか? 

 

地べたに貼りついたヘアーカーブとアングル状の半透明な紙は、

濃い影を地平に落とすと同時に、光線の白い照り返しを

その影にダブらせる。 

ヘアーカーブの濃い影の方は、一見、白い地平に切り込まれた

溝のようにも見える…

一方、虫ピンと糸状ワイヤーの方は、地平にほのかな影しか投じない。

ところが、地平が白色なので、その白地を背景に素材の受照面の

反対側の蔭が、細くくっきりと浮かびあがる… 

そして、反射角度でちょうど眼に入る微細なハイライトを、

点々と息づかせる…

 

 

真っ白な台形ベースは、この作品の重要な要素である。 

ざわついた現実世界から繊細な造形世界へと観者の眼線を引きこみ、

感受性の態勢をデリケートな世界へとチューニングさせる――

そんな隠された機能をはたす装置になっている。

作品本体をよい状態で見せるという意味では3次元的な額と言えないこと

もないが、しかし、通常の額が、作品世界と外界との境界をつくる役割を

もたせられているのに対して、

台形ベースは、周囲の空間の中に作品世界を浮遊させ、現実世界との

間にほどよい距離を生みだしつつも、作品空間と周りの現実空間との間を

あいまい化して、観者の想像力の行き来を自由にしている。

 

 

 

「世界の連想」は、写真にはなりにくい作品である。

 

そのデリケートな静寂世界は、実物と静かに向かい合ってはじめて

体感できる複雑微妙なものだ。

ここに掲載した撮影方向が異なる2枚の全景写真は、肉眼で見た場合

の作品の見え方とはおおきくかけ離れたものになっている。

たとえば、ベースの形態の端正さを立たせる 「白さの映え」 はまったく

再現されていないし、肉眼では捉えられる線材の「硬質な か細さ」 も

とらえられていない。

 

 

 

 

本展を企画した佐藤省さん (ギャラリー悠玄チーフディレクター) が、

「世界の連想」 に対する評を送ってくれたので引用させていただく。  

わたしの作品が他者の眼にどういう波動を送ったのか… 

とても興味をもたされた評である。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

― 存在に内在する時間が水平に流れる 〈ざわめく静寂世界〉 ―

 

 

細いドローイングの線が空を切るように、

シャープにループする針金が発する光は、金属音の微妙な響きを

ともなって静寂を波立たせる。

静寂が形を得るとしたら、こんな形になるのかもしれない!

とさえ思わせる。

虫ピンの群れは、様々な関係性を際立たせ、

白い平地に落ちる影は、逆に光とは何か、静寂とは何か、

と問いかけてくる。

見えているからこそ、その深い影の間隙から  「見えない音」 が

聞こえてくるようだ…

ミリ単位のトレーシングペーパーのカーブも、しっかりと場を分割し、

微かな影を吐き出してはいるが、

肉眼でもその境はなかなか認識されない。

 

そんな物質たちによって構成された白い大地は、

巨大な中に仕掛けられた 「存在を消す装置」 のように、

見つめる網膜の奥にしか 本来の姿や色彩を結ばない。 

ごくわずかな選ばれた人にしか… 

 

このシンプルにして複雑性をもつ作品が、

なかなか一筋縄ではいかない性格を放っているところが面白い。

模型のようで そうではなく…

架空の王国が砂漠に出現したような…

 

 

あるはずの物質の重さが消え失せ、影が自立をうながされ、

そして、自立する影に内在する 「時間の影」 も消失させて…

ほとんど造形されていないように見せているその思索的な造形に

目を深く注げば、「見えていることの確信」 は揺らぐ。

 

虫ピンの狂ったリズム、

虫ピンが埋まり 崩壊してゆくバランス感覚の乱れ、

ループを描く細い針金が 頼りないが確実な旋律を踏んで、

それぞれの時間は、「未知」 へと吐かれている!

 

存在の輪郭を消失させるということは、

つまり 「何か」 へとイメージを飛躍させること。

作家の手により変容させられた物質たちが、

夢の一幕にサラサラと氷砂糖をふりかけると

地平に現れ出づる砂漠の蜃気楼のように 淡く 淡く…

余韻は深く 眩しく 輝いている。

 

そう簡単にその深さが何かを明かさない

崇高な鎮まり… 

そして永遠…

 

 
――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

佐藤さんの評を読むと、造形を導いた 「人間世界の三つの次元」 という

コンセプトとの関係はすっかり消えて、作品の造形面の特質が、現代美術

作家であり詩人でもある氏の好奇心と想像力とを動かしたようである。

 

 

 

 

【追記 131130】

 

「世界の連想」 の写真をご覧いただくと、糸状ワイヤーによる表現体は、

作品全体の領域の隅に寄せられた形で配置されており、そのすぐ横に

何も置かれていない空白領域を生みだしている。

展覧会最終日に来廊された甲斐瞳さん (現代美術作家) が、その空白

領域を 「空き地」 と呼んで おもしろい捉え方をしてくれたので、

その感想文をここに掲載させていただく。

 

 

あの作品の…

作家の内的宇宙は、いくら読み解いても終わりのない、多面的な 「今」

を含むものでした。

 

並列でありながら、あの分量配分の妙…

そして、あの 「空き地」 には… 何処まで意識を押し広げたとしても、

その果ての外側をほのめかす 「余」 の空白がありました。

そこは、閉じられていない解放感や、未知のものを許容する大らかな

精神まで感じられる 「場」 でもある と思いました。

 

 

 

 

Message100 おしゃべりなArt展 → 

http://www.gallery-yougen.com/cgi-bin/gallery-yougenHP/sitemaker.cgi?mode=page&page=page2&category=1

 

 

写真:筆者撮影

 

(131129 展覧会の会期と関連する記述を書きかえた)

風景の生命化 … | 藤井龍徳作品

美 ○ 思索

 

スコットランドから藤井龍徳さんが 氏のインスタレーションの写真を

送ってくれた。

 

 

 

 

 

 

深く沈んだ色調の写真が なんとも印象的だ。

 

繊細な皮膜のような透明感の空と、

フエルトのような柔らかな衣をまとって起伏する硬質な大地

との対比が、独特のテイストで迫ってくる …

 

私は、スコットランドには行ったことがないので、

風景の空気感と同化するような感じで、

初々しく写真の世界に入り込んだ …

 

美的なる世界への無心の共鳴 …

 

 

はじめに写真を見たときに 私をぐっとさせるその感動が、

氏による 「付加行為」 によってもたらされていることは確かだ …

風景に惚れこんで、氏が 〈造形的付加行為〉 にかりたてられる …

それは、「氏の魂による 自然風景の生命化」  …

 

 

 

氏のメールには、

 

日中の気温は15°前後、夜は寒い位で、

突然雨が降ったり晴れたりの繰り返しです。

冬の厳しい気候のためか

木々は小さく 可愛い花が沢山咲いています。

しかし風の弱い雨の時には

蚊の大群と格闘しながらの設置です。

…… しばらく、ピートの中の大きな石との生活です。

 

とある。

 

 

 

現地の時空を生きる作家自身は、

そこでの まあるい宇宙のゆたかさの 全ての中 にいる。

そして、写真世界は、〈世界の限定〉 による異化であり、

その 〈限定〉 は、現地で励起されている氏の美意識の中で

なされている …

 

これに対して、写真を見る側はというと、

写真の視覚情報以外の たとえば「蚊の大群」 といった

さまざまなリアリティーとは隔絶したところで、

かつ、いわゆる 〈意識知〉 が消えた眼が、

 〈物質的構成のムーヴメント〉 として写真をとらえ、

意識されていない内面に沈潜している記憶とか美的感受性が

呼応的に動き、意識に向かってささやく中で、

写真世界との共鳴を ただ純粋に生きている …

 

 

写真中央の巨きな岩を、氏は、「ピートの中の大きな石 」

と表現しているところをみると、それは、大地の突出部分ではなく

単独の岩なのだろうと想像するのだが、

そうだとすると、このど~んと居座る岩は、いつ、どのようにして

運ばれてきたのであろうか???

 

そういえば、長い時間の中で成立した存在と存在との境界の

詩的残響を即興するような何本もの放射する棒に、

てるてる坊主のような形をした白布が吊るされ

それが 付加された風景の妙として 響いている …

 

そこには、造形の 「曖昧なる多義性」 のようなものがあって、

それが、こちらの想像世界のかそけきふくらみを誘う …

 

氏の文章に、「風の弱い雨の時には蚊の大群と格闘 …」

とあるし、だから、天気を願うそういう 〈暗示的な意味性〉 が、

吊り下げる白布のあり方を決める際に、

あるいは関係しているのかもしれない …?

 

 

でも、そういうたぐいの 〈意味性〉 は、

あとから自然に、いろいろと想起されてくるもの …

あるいは、作家から話を聞いて、作品の世界の奥行きを

物語的に楽しませてくれるもの … ではあっても、

当初の私の写真世界との無心の共鳴には、

少なくとも 〈意識上〉 は なんの関係もないのだ …

 

 

 

作家の感動 …

 

そして、

 

写真観者の感動 …

 

 

それぞれの 「無意識世界と脈絡をもっているであろう美的感受性」

の間には、通底する何かがあるのではなかろうか。

 

 

 

 

【インスタレーション】

 

タイトル : Loch Maree Weather Station (ロッホマリー…)

        Gairloch (ゲアロッホ), Scotland

作   家 : 藤井龍徳 (写真撮影も)

 

 

森に住む | 金子清美のインスタレーション

美 ○ 思索

 

 

生命の燃焼 …

 

そして、それと裏腹に

 

どこかさみしさが

 

セットになった 夏 …

 

 

 

もうすぐ 夏である …

 

 

 

比企の国際野外の表現展で

金子清美さんが、《 森に住む 》  というインスタレーション

を行ったことがある。

 

なんとも、夏という季節が生きたインスタレーションで

それは、日常の生活と感覚、夏の外向的気分といった

諸相が、ごくごく自然に重なり合いながら

アートの異化作用が味わい深く響いた

女性作家ならではのすてきな 《 生活 → アート表現 》

であった。

 

 

【インスタレーションの動画】 

 

□ Windows →

live in woods, 2007 Installation by Kiyomi Kaneko ©2007 Ryutocu Hata

 

□ 携帯電話・Mac →

live in woods, 2007 Installation by Kiyomi Kaneko ©2007 Ryutocu Hata 

 

 

 

 

 

 

場所は、住宅地に隣接する谷合いの公園の 森の中 …

 

 

中心の白いテーブル ( かつて私がデザインしたもの ) は

金子さんが自宅で実際に使ってこられた 《 生活の中の家具 》。

そのテーブルの上に、日常の生活で身近にあるものの中から

作家が独自の感覚でチョイスしたモノたちが並べられている。

 

それらは、いつもの日常空間から離され

公園の中の白いテーブルの上 ―― という特別の時空に

移行させられることで、

機能するものとしてのイメージの卑近性が薄らぎ

純粋に物質的存在としての 《 形の美しさ 》 が

立ち表われてくる …

 

周辺には、作家が愛猫に与えているキャットフードの空き缶を

白く塗ったものや、現場で採集した木の実を入れた瓶などが

あたかも以前から置き去りにされたふうに

堆積する枯葉のうえに点々と配されて

ふだん目にするふつうのモノたちが

ここでは、なんとも言いがたい響きをつたえてくる …

 

 

作家が生活の中で使用したり接しているモノたちには

他者には知ることのできない 作家の思いや情感が

ともなっているであろう。

そこには、作家の美意識も当然ながら混然と関わっていて

そうした背景の中から、外在表現としてのインスタレーションが

生まれてくる。

 

そして、その外在として独立した表現作品を

観者は観者で、勝手なしかたで感じている …

 

でも、作家の世界と観者の世界は、大きく あるは 微妙に

異なるからこそ 《 共振のよろこび 》 が生成してくる、とも言え

そこには、同質とか異質とか 簡単なことばには還元できない

微妙な関係が存在しているといえよう …

 

 

夏という季節が、人をして、ある気分に導いている …

屋外でのインスタレーションは、そういう季節のムードが

人間同士を近づける契機として生かされて

より深い響きをかもしうる可能性をもつ。

 

 

 

 

*ビデオ撮影・編集:筆者

 

金子さんのwebsite  → http://www.kiyomi-k.info/

 

 

開かれている状態 | CAFE トワトワトが考えさせたこと

美 ○ 思索

 

 

 

 

 

アート作品は、通常は、作品単体として 完結的にまとめられた

ものとして創作される。 

そして、その作品が具体的な場に置かれる段階で、作品とまわり

の環境との間の関係性の問題をつきつけられる。

作家は、自分が想定した 〈 閉じた世界 ) の中で、完結している

がゆえにもたらされるある種の力を 純粋に トライする。 

でも、現実には、作品という完結体が完全に孤立状態で存在する

ことはできない。

 

美術館やギャラリーの白い壁面は、作品と環境との関係性を

もっとも単純化して 作品の違いを超えて作品を良くみせる無難な

方法だ。

作品にもよるが、作品が本当に生かされる環境は白い壁面では

ないかもしれないし、そもそも、作品と環境のもつ特性との相互

関係を調整する中に 相互の響き合いの可能性が開かれてくる。

それに、本当に作品を味わう ということからすれば、美術館で

つぎからつぎへと作品と真面目に向き合うことは 「効率的」では

あるかもしれないが、よい方法というわけでは 決してない。

楽しむどころか、くたびれはてて美術館をあとにする ということ

にもなりかねない。

作品を味わうためには、観者側の心身の状態がよい状態にある

という前提こそが大切だ。

 

 

私のHPの建築作品の中に、アートウォールというのがでてくるが、

それは、空間づくりのために 空間と完全に融和したアートをトライ

した事例だ。

しかも、そのアートウォールは、住宅の居間と企業の接客ラウンジ

に設置されているので、美術館ではどうしても堅い真面目さに陥っ

てしまいがちな日本人も、リラックスしたふつうの感じでアートの

かもすやわらいだ雰囲気に心地よくひたってくれることであろう。

 

また、私は、仕事をしているときの環境としては、ニュートラルを

好む。 しかも、リラックスできて 気持のよいニュートラル…

だから、アピール性の強いアートは、それが好みのものであっても、

アトリエの中には置かないことにしている。

仕事に没頭しているときは、まわりの世界云々は関係なくなるが、

でも、感覚はつねに動いているし、環境からの無意識レベルの

影響のことも考えると、やはり、ニュートラルにおちつく。

 

 

 

 

 

カフェの空間には昔からつよく関心をもってきた。

カフェの数と 質の高いカフェの存在は、そのまちの ある意味

総合的な文化水準を表しているのではないか とさえ思う。

 

 

 

数日前、CAFE トワトワトを再訪した。 がっちりとした木製のテー

ブルに席をきめて… ゆっくりあたりを見まわすと、前回ずいぶん

と念入りに細部まで楽しんだはずなのに、またあらたに新鮮な

ものが目にはいってきて感動してしまう…

 

 

カフェは、そこを利用する側が自分の好みで選べるから、店の外観

はともかく、インテリアについては それをつくる側が思いきって個性

を発揮しても公的になんら問題はない という性格をもっている。

 

「インテリアの個性」 と 「落ちつけるかどうか」 という二つの条件

に着目してみると、モダーンさを意識してデザインをがんばった

空間は、えてして落ちつけないことが多い。

いっぽう、触覚的視覚にあたたかみをもたらすインテリアの仕上げ

や家具があり、「このデザインはどうだ!」 といったおしつけがまし

いのとはちがう抑制されたデザインのものであれば、概して、落ち

つける雰囲気になる。

 

しかし、落ちつけるのはいいとしても、陳腐なのはつまらない。

やはり、個性を楽しめて、かつ、落ちつける というのが グッド…

 

 

トワトワトは、〈 古び 〉 というプロセスが 個物の様相を控えめ化し、

個物のかつての用途や意味性を希薄化して、微妙なテイストの

ささやきをもった個物に変化したものたちを、店主のたぐいまれな

る感覚がチョイスし、ストレートな直感でそれらを組み合わせる

ことで  〈 個物相互の共鳴 〉 をゆたかに実現している――そんな

くつろぎの空間だ。

そこは、個性のおもしろさにあふれているが、でも、あくまでも、

控えめ…  だから、気持ちがよい。

 

 

 

 

 

建築は、素材というものを さまざまな条件や機能を満たすように

組みあげてゆく。

条件とか機能という前提があるがゆえに、それまでは存在しなか

ったような思いきった形体、あるいはヘンテコでさえあるユニーク

な形体が、正当な理由をもって創造されうる。 エッフェル塔の例

をもちだすまでもなく、生みだされたときはヘンテコあるいは醜悪

なものとして受けとられるものであっても、時間の経過の中で、

馴染まれた存在になって、美しいものとして一般に受けいれられ

るようになってゆくこともある。

 

素材から組み立てる建築とはちがって、かつて生活の身辺で使用

されていたモノという 「すでに独自の機能をもった個物」 として成立

したものたちをチョイスし、組み合わせてスペースづくりをしている

トワトワトのようなケースは、〈 全的な個物のささやき 〉 という力を

生かしている。 

そこには、人間の活動を受け止めるベースづくりとしての建築デザ

インという骨格形成行為ではカバーできない種類の 「イマジネーシ

ョンをあいまいに刺激してくれる心地よさ」 が存在している。

 

 

*写真は CAFE トワトワト (筆者撮影)