連想世界を たゆたう澄明な作品群…│金子清美作品〈海座敷〉

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                          波の華

 

 

 

 

昨年につづき、足利のCON展*1に参加した金子清美さんが、内陸地である

足利市の古民家の二階の和室を使って、〈海座敷〉という大胆なテーマの

インスタレーションを行った。

松村記念館という百年近くまえに建てられた中心市街地の中のオアシスの

ような緑ゆたかなお庭の力強く優美な赤松の眺めと、伝統的な和風建築の

もつ陰影のゆたかさとともにある品格ある美しい室内空間と共鳴しあった

澄明な作品群からなるインスタレーションで、見る側の魂を自由に遊ばせ

てくれる、内面世界のさまざまな連想の不可知の脈絡に分けいらせてくれ

るような、さりげない誘いとしての美的形象化 ─── そういうおおきな

構想の展覧会であった。

 

ほの暗い階段を上り二階に行くと、そこに座敷に入るまえの畳敷きの小間

があり、小さな窓の障子戸越しのやわらかな光線とともに静謐の空気に包

まれる…

右手の小さな開口をもつしゃれた障子戸の先に十畳二間つづきの奥行きの

ある座敷空間が見通せ、そこに入るとすぐに、左手の縁側のガラス戸の

むこうに赤松の美しい色合いの分岐する樹幹のうねりが迫っていて、なに

はさておきその存在感に感動させられる…

 

このダイナミックな赤松の存在が、金子のインスタレーションの端緒を

導いた

 

─── 白砂青松 ───

 

はじめてこの赤松を目にしたとき、金子は〈潮騒〉を聞いた、という…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨年の金子のインスタレーションは、空間利用を前提にある程度の維持管理

がなされている空家の一階の和室で行われたのだが

今回の松村記念館は、ご当主の美意識によって支えられながら〈生かされて

いる空間〉で、ふだんは松村家伝来の書の扁額や掛軸などが飾られていて

一般に公開されている。

インスタレーションを行うにあたり、必要に応じてそうした展示品をなしに

して、和室空間の佇まいを「素な状態」にもどし、そこに、金子の作品群を

配置する ─── そうして、金子の作品群と、座敷の空間と、そして窓外風

景とが、相互に共鳴しあった見事な〈海座敷〉が生みだされた。

 

〈連想〉 ─── と、ひとくちに言っても、その奥行きは深く、しかも

連想のプロセスにかかわる脈絡そのものはつかむことはできず、ただ、その

結果が現象するのみである。

 

 

 

〈海座敷〉では、海を基点とする連想要素として6種類のものが造形された

 

・波の華                               nami-no-hana

・たまてばこ

・カケジク(掛軸)

・深淵            shin-en

・潮音            cho-on

・ヒョウリュウブツ(漂流物)

 

 

 

◎◎◎

 

インスタレーションの中核をなす〈波の華〉は、奥座敷の中央から南面の

縁側へと展開され、床上に直接並べられたコーヒーフィルター群 ──白色の

ものと、生成りのもの2種類と、青墨染めのもの、の4種類── の上を

フラットとうねりの面で変化をつけた半透明のロール紙がカバーしている。

前座敷に入るときに、この〈波の華〉が向こうの奥にのぞまれ、奥座敷への

空間のパースぺクティブの焦点になっていて、空間全体のたたずまいを引

きしめている。

 

この〈波の華〉は、「大海の、人間の力のおよばない〈生動〉」と連想呼応

していて、その大海は、人間の命と魂のよってきたる原初的宇宙であり

人生時空における よすが でもある。

抽象的に異化され、しかもやわらかく〈連想性〉に開かれたこの金子の

作品に、「窓外の赤松」という生命力ある本物の自然が、対峙している…

コーヒーフィルターは、金子が長いこと作品づくりに用いてきた素材で

あるが、そのろ過作用は、海のもつ「魂を浄化してくれる根源的な力」と

呼応している…

半透明紙を通して浮きあがるコーヒーフィルターの像は、説明をされなけ

れば、それが何なのかわからない人が多いと思われ、これまでに見たこと

もないようなとても不思議な美しさを漂わせている…

それは、最初の命が誕生した大海に潜む「不可視の種子」の幻影のように

も感じられたのであった…

 

 

 

◎◎◎

 

たまてばこ〉は、波の華と呼応した作品で、金子がはじめてコーヒーフィ

ルターによる立体作品化を試みたものである。

 

 

 

 

透明の薄いアクリル板で作られたボックスの中に〈波の華〉で用いた素材と

同じものを内蔵させて、じつに幻想的で不可思議な空気に包まれたオブジェ

を作りあげた。

端正な透明感の中に潜む「霧中に溶けいるようなグラデーションの像」は

普通の三次元造形にみられる反射光による形姿ではなく、虹のように

「〈光の粒子〉そのものが生みだした造形」のようで、まさに他に類例の

ない極美を体現している。 今日的素材、しかも、日常の近くにある素材を

用いての極美の造形といえよう。 それはまた、置かれた場所の光の条件に

よって、あくまでもデリケートなトーンのなかで、表情をがらっと変化させ

る…   いつまでも見飽きることがない光のオブジェ…

 

この作品が漂わせる摩訶不思議な雰囲気が、浦島太郎の物語の玉手箱という

連想を引き寄せてくる…

〈たまてばこ〉の外側に結ばれている純白または赤い細ヒモは、単なる飾

りではなく、嵌めあわせになっている底板と上箱とを一体化する役割をして

いて、その上でこの作品の視覚美を構成する要素にもなっているのはもちろ

んだが、ゆったりと結ばれた蝶結びを解いて、中の仕組みを覗いてみたい

─── という気持ちがおこったとき、この白と赤の蝶結びのヒモが容易に開

けられる様相をもっているがゆえに、誘惑されるが、しかし浦島物語と響き

あって、「開けてはいけない!」というメッセージが頭に浮かぶ ───

そういう仄かなシンボルとして活かされている。

 

 

 

 

 

 

◎◎◎

 

カケジク〉は、遠目ではわからないが、じつは平面の紙の上に描かれた

ものではなく、立体的な掛軸になっている。

 

 

 

 

金子が自宅の庭で育てているワイヤープランツを乾燥させたものを

〈波の華〉に用いている半透明紙と同じ紙の上に、あえて偏心させた配置で

重ねている。

 

そのワイヤープランツの枝のラインにそって、じつは鉛筆によって背面の紙

の上に細い線が描かれており、見る人は、説明されないと、それがワイヤー

プランツの影だと思ってしまう…

よく見れば、ワイヤープランツの本当の影が、暗色の壁に囲われた床の間の

仄暗い光の中で、模糊とした様相でそこにあることがわかるのである…

 

 

 

 

ここでは、自然界の生命体が生みだす「実物の形姿」と、それに愛着を寄

せる金子の「美意識」および「手による行為」と、そして、われわれが生き

るこの三次元時空での「ゆるぎない必然法則としての影」とが、床の間とい

う特別の空間の中で、「〈共〉の世界視」として象徴的に結晶化されている。

この〈カケジク〉は、掛軸の通常の有りようから異化されることで美の訴求

力を獲得しているのだが、それだけではなく、ワイヤープランツという

「自然物が生みだして、金子という人間側の美意識を感応させた

〈自然側生成×人間側感覚〉の、極度にシンプルな呼応造形」であり、その

感応の脈絡構造は、生け花と通じるところがある。 しかし、この〈カケジ

ク〉は、生け花ではなく、掛軸なのである。

 

 

 

 

 

◎◎◎

 

深淵〉は、浜辺に打ち上げられた海藻(アカモク)を乾燥させたものを

透明なアクリルのボックスに封じこめた作品群である。

 

 

 

 

 

 

奥行きの浅いボックスを立てた形のものと、キューブ状のボックスに海藻を

入れたものと、二種類のものが作られた。

外光で透ける竪繁組子の障子を背景にして配置された〈深淵〉は、やわらか

にろ過された光の中で、複雑なシルエットを舞い、障子の組子のシルエット

と融けあって、独特の美を生みだしていた…

奥座敷の正面右手の床脇の地袋の上に置かれたキューブ状のボックスのほう

は、暗色の壁と地板に囲われた仄暗い空間の中で、深海の静寂世界を連想さ

せた…   自然界および生命体の、驚異としかいいようがない、奥深さ…

 

 

 

 

 

◎◎◎

 

潮音〉は、作家が以前からストックしていた生成りの帯締めを用いての

造形で、海に近づくと、視覚よりもさきに岸辺にうちよせる波の音で海を

感じるように、海といえば鳴動の音 ─── それをシンプルなかたちで造形

したものである。

 

 

 

 

渦の造形群を並べる下敷きに用いられた白く染色された正方形の畳は、座敷

の現実の時空と距離を生みだす作用をしていて、観者の中で、遠くの海への

想いがおのずと立ちあがってくるのを暗にたすけているところがある。

 

〈波の華〉の半透明紙の造形は、昔よく目にした、呉服屋が反物を顧客訪問

販売するときに、畳の上に慣れた手つきで反物をサーッと展開する様を想い

おこさせるものがあったが、〈潮音〉の帯締めという素材は、そういう想い

出の中のイメージが介在して、〈波の華〉の造形や座敷の和風の空気と

じつは連想の脈絡でつながっていることがわかる。 そういう呼応が控えて

いる造形であるがゆえに、インスタレーションの全体に、しっくりとした調

和空間をもたらしているのだ。

 

 

 

 

 

◎◎◎

 

ヒョウリュウブツ〉は、浜辺でひろった二枚貝の断片と木片といくつかの

砂粒とを、ゴザマットの上に固定したかわいらしい作品である。 生命体の

形と、もとは同じ生命体であっても長い年月をへて物質の形へと変化した

ものとが、組み合わさった造形になっている。 貝殻の整ったシェイプと

木片の複雑形との対比の妙…

この作品は、インスタレーションの全体の中ではそのサイズは小ぶりではあ

るが、前述してきた五つの作品群のぴしっとした構成に対して、その存在が

全体の調子をちょっとゆるめる脇役的なものになっていて、しかし、「時間

の流れの中で、すべての存在が流転してゆく…」 ─── そういうまなざし

を感じさせる重要な要素にもなっている… それは、ほかの作品群のしっか

りとした構成の響きの中でこそ映えてくる存在力ではないか、と思われるし

逆に、こういう控えめな作品の存在が、全体の構成のバランスの中に

〈すき間〉を与え、作家の意図である「観者の魂を自由に遊ばせる」という

そもそものインスタレーションのあり方の基本を支えるデリケートな配慮で

あることを納得させられるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──────────────────────────────────────────────────

 

 

 

松村記念館の和室という「特別の質をもつ場」の中で、その場としっくりと

共鳴するようなかたちでアート作品を仕込み、その全体が、「いま、この

時」の美的な世界にならなければならない ─── この創造活動は、真っ白

な空間の美術館やギャラリーで作品を〈単独の存在〉として展示するのとは

まったく異なった次元のものになることは、言うまでもない。

 

しかも、赤松の存在が、作家に〈海座敷〉という発想を導いたところまでは

よいのだが、そのあと、海をめぐるさまざまな想いを整理し、同時に作品化

の方向についての思索を進め、それを試作造形しては美的な判断をする。

そしてまた逆に、造形の試行から発想そのものを再考することも当然する…

さらに、仕込まれる各作品相互の関係の全体が、美的なものにならなければ

ならない。 次から次へとアイデアが出てきても、それを試作に移してあれ

やこれややってみると、その試作の美的状態の良否は、直感ですぐに判断は

つくものの、では、どうしたら本物にたどりつけるのか? 手を動かし頭を

働かせながらのその試行錯誤の道のりは、大変に長く、苦しいものである…

でも、そうしたプロセスを経てはじめて、〈美の造形〉という次元での

人間の内面の〈不可知の世界〉と交わる、つまり、生命の根源的世界へと

食い入るこの創造活動が、作家の納得とやりがいとをおのずと結果すること

になるのである。

今回、金子も、これまでの制作では体験しなかった苦しい道のりをたどる

ことになったようだ。 そして、その長く苦しい制作の道のりが、ほかに

類例を見ないようなユニークで見事な澄明世界を実現させたのである。

 

 

 

金子は、これまで一貫して、作品の〈美しさ〉というものを外さないで表現

してきた作家である。 金子の作品は、歴史的にも、あるいは世界的にも、

他にたぐいのない〈澄明な世界〉をやわらかなかたちで体現しており、

そして、感受はできるが、捉えようとしても絶対に捉えることのできない

「光と融けあう〈おぼろな空気感〉」のようなものを実在化してきた。

そこでは、表現素材の〈物質特性〉が活かされていて、物質の確固とした

世界の中に、〈ゆらぐ世界〉を創造してきたのである。 現代の新しい素材

を用いての〈ゆらぐ世界〉─── これは、科学知や技術世界の「確定、ある

いは、明確化のための限定」および「それを前提にした確かな構築」という

世界とは、ある意味で、対極に位置する世界といえるかもしれない。

 

そして、アートは、人間の不可知の〈無意識世界の無限性〉と交絡をする

「生の根源にかかわる営為」である。

 

 

 

ひとくちにアートと言っても、アート的行為というものの幅は広く、「作品

が、他者に何かを感じさせる、何かを想像させる、何かを考えさせる」

そういう表現行為はすべてアートであると言えようが、しかし、その表現体

が本物であるか否かは別の話になる。

 

金子の作品はこれまで、たとえば多肉植物やコーヒーフィルターを作品の

主要な要素として用いていることからも想像できるように、〈日常性の世

界〉との交絡が表現行為の根底に根強く控えている。 これは、女性作家

ならではの特質で、本質的には、男性作家にはできない〈世界感覚〉と

〈表現〉であろう。 しかし、だからこそ、男性も、彼女の作品世界を

心から享受できるのである。

ここにあるのは、本源的な異質性のもつ「違和と通底」という、生の本質に

かかわる問題である。

 

アートは、たとえばスポーツのように体の特性によってその享受感が左右さ

れることはないし、あるいは、将棋や碁のように知的レベルによって勝敗が

導かれるような競い合いの世界とも一線を画している。

まったく、個人個人で自由に愉しめるのである。 それでいて、映画や演劇

の類のように、受動性に傾斜した楽しみでもなく、その気があれば、だれで

もが、能動的にその世界に分け入って愉しむことができる。

そして、前述したように、アートは、「生の根源にかかわる営為」なのである。

 

 

 

 

 

──あとがき──

  

 

筆者は、今回の金子のインスタレーションの制作過程でアドバイザーの立場

にあった。 作家は自己の内面のありようや自作の世界とは距離がとりにく

く、だから、距離をとっての世界視は、適当な他者のほうが有利につかめる

こともある。

 

筆者は、展覧会の会期中ずっと会場にいて、写真撮影をするかたわら、作家

とともに来場者の応対もした。

会期が4日間と限られていたが、多くの方々に作品を熱心に観ていただき

作品の不思議な外姿に対して、たくさんの質問を受けた。 「作家の説明を

うかがいながら作品を味わえたのがよかった!」と帰り際にうれしそうに話

された方が少なからずいらっしゃった。

 

ある日、会場に来られたご婦人が、個々の作品に眺め入っては感動のことば

をつぶやいておられる… この方は、ふつうの感覚の方ではないことはすぐ

に分かり、だから、つきそって丁寧に質問にお応えし、関連した話題をお話

しすることになった。 そのご婦人が、前座敷の床の間 ──そこには〈たま

てばこ〉が三つ並べられていた── の前でお話をしていると、そっと目頭を

おさえられたのである。 筆者は、それに、感動してしまった…

 

今回の〈海座敷〉は、この世界に対する作家の〈やさしい眼差し〉に包まれ

て、しっとりと心やすまる、そして詩的な馨りをただよわせた〈極美の展覧

会〉ともいうべきものであった。

 

 

 

最後に、格調の高いすばらしい和室空間をインスタレーションの場として

提供していただいた松村記念館の館主に、心からの感謝の気持ちを捧げたい

と思う。

 

会場の下見の打合せにうかがったときに、「(部屋内に)飾られている掛軸

や置物などを一時移動していただいて、格調の高い建築空間を素な状態で

見せたいのですが…」というご相談をさせていただいたのだが、館主は快く

その趣旨を理解され応じていただいた。

 

また、作品を搬入するときに、各作品の最終的な配置が決定されたのだが

そのときに、前座敷の床の間の掛軸として、松村家伝来の所蔵品の中から

金子の作品と季節にふさわしい軸を見立てていただいたのも館主で

その見立てはまさにその場にぴったりのものであった。

 

単なるスペースの提供ではなく、そうした格別に美意識の高い館主によって

生かされている記念館で、「建築空間および屋外の眺望と脈絡したインスタ

レーション」という総合的な創造を実現できたことは、まことに稀有なご縁

であり、金子のアート創作人生における一期一会のチャンスというにふさわ

しいゆたかさに祝福された展覧会であった、と筆者は思っている。

 

 

 

*1───あしかがアートクロス CON展 2019.5.29 – 6.9

◎◎◎      金子清美さんによる展示は、同 6.6 – 6.9 に開催

 

写真:筆者撮影