創作者どうしの対話 | 周 豪 展

美 ○ 会う 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

作品の制作で

 

その前半は、「作品が、ぼくの従僕」

そして、後半は、「ぼくが、作品の従僕」…

 

制作の後半… ぼくが従僕にならないような作品は

結局、ロクな作品ではない!!

 

両親の老後の介護をした経験があるが

作品に対して自分が従僕になるというその状況は

ちょうど両親の介護に似ている…

 

 

 

作家の周さんとの会話は、創作をめぐって

そして人間世界をめぐっての本質論になることが多い。

二人は、作っている領域がたがいに異なるけれど

そのことがかえって「距離と共感」の話の興味深さを生む…

 

冒頭の言葉は、いま銀座のギャラリー巷房で開かれている彼の個展

会場で、作品を前に、彼の口から、考えながら、ゆっくりとつむぎださ

れた、創作をうまく言いあてた例え話であり、同時に、この人間世界に

対する彼のまなざしの柔軟な真摯さと、いつくしみの深さ、とを

感じさせる言葉である。

 

 

作品は、あくまでも「仮のもの」であり、それを足がかりにして

向こうへ…

向こうにある世界こそが重要であり、逆に、「作品という仮の存在」に

満足してしまったら、それでおしまいである…

彼のこの言葉にも、大いにうなづけるものがあった。

 

 

作品づくりに、とことん取り組む…

が、しかし、その生みだされた作品の存在は

その中を、人が生き、進む、《広大無辺の脈絡宇宙》の中に、たまたま

生みだされた「〈ひとつの位置〉からの照射」にすぎない…

そう、筆者は思う。

 

創作者は、先へ先へと果敢に進んでゆく…

それが、興味のつきぬこの世界の「密度ある旅」になってゆく…

 

 

 

 

 

掲載した写真は、ギャラリーが入っている建物の地下へと階段を下りて

いって、うす暗がりの 壁圧を感じさせる狭間のようなホールの先の

照明された展示室の正面に配されていた油彩作品で

部屋に入ったとたんに筆者の心をとらえた周の仕事である…

 

しばしの全的感動の時間をへて、筆者の視覚は、自由に画面世界の

〈部分〉へと向かう…

 

 

 

 

相呼応する 〈対〉 の形――

その穏やかなコンポジション…

 

ただそれだけのことだが

そこには観者の固有の視覚に応じて開かれる

「無意識世界の無限脈絡」の鼓動が

息づいている…

 

極限の極限まで つめられた図像…

その輪郭のきわめてデリケートな変化…

 

各色面は 何回もの塗り重ねを通して

(空間性)と(平面性)との境をゆらぎ…

呼吸をしている…

 

実存空間そのものではないゆえに

かえって生まれ出る

(空間性)の静かな呼吸とともにある

削ぎ落された平面抽象表現の力…

 

図像の布置は 一部のスキもないのに

それなのに、それは 動きの中にある…

 

 

ふたつの図像は

あたたかい空気につつまれて

さも気持ちよさそうに浮遊し

すなおに遊んでいる…

 

 

 

………………

 

 

 

人間は、一人では存立できない。

おおげさに聞こえるかもしれないが

宇宙史上唯一の (個) が

宇宙史上唯一の (固有の人生) を生きる…

それも、ただ一回…

 

筆者は、いつも、人生時空における

(よき話し相手) という存在の重み

のことを想う…

 

 

 

 

 

 

*周の作品世界については、過去に書いたもの

  があるので、そちらもご覧いただきたい。

   →  http://ops.co.jp/wp/?p=1398

 

 

 

写真:筆者撮影

*この展覧会は 2016.5.16-5.28 巷 房(東京銀座)で開催された。 

 

触覚的図像と人間の内面自然性 | 醍醐イサム作品

美 ○ 会う 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

山歩きをしていてふと出会う

なんとも表現できないような面白い断層面の岩肌の表情…

それは、ときに何かある動物の姿を連想させたり

またときには、幾何学的な図形にみえたり…

 そのとき、私の内面は、自然界が偶然に生成したにしては

ありえないものに出っくわしたという感動とともに

それが、「他の〈存在〉や〈感触〉」を暗示する「物質的な表情」に

すぎないものなのに、それをみた自分の内面世界が共振している―― 

その「暗示」という 深遠な内的運動そのものの不思議さのこと

を考えてしまう…

 

それは、美しい風景を眺めいる場合のように、〈実存〉を「そのもの

として」 じかに感受するのとは 「感覚の運動の様相」が異なっていて

〈実存〉を、きっかけとしながら

私の内面が、かってに遊びをはじめてしまう

「無限の深さを有する無意識世界の〈内発型宇宙運動〉」

ともいうべきものであろう。

 そのときの私は、眼前の〈実存〉の側に一方的に引き寄せられて

一体化させられてはいない ―― つまり受動的ではない状態である。

対象を眼で撫でながら、即 それに連動して、無意識世界の中の

なにかが「内的五感系の脈絡運動」をしている…

 

 

 

 

南青山の Gallery Storks で 最近みた 醍醐イサム のモノクロームの

平面作品のひとつが、自分の中で勝手に動いてしまう そういう

 「無意識世界の内発運動」の瞬間楽と不思議さとを つよく実感させる

機会を提供してくれた。

 しかも、そのあと いろいろのことを考えさせるおまけがついて

たいへんに興味深かった。

 

 

その作品は、醍醐が展開する幅広い作品世界の中では

例外的な性格のものと思われ、画面が複雑多様な要素から成り

「風景的な空間性 あるいは 空気感」を感じさせる。

小さな画面の中に、微細なる線分や明暗による複雑なテクスチャー

などが、きわめてデリケートに かつ 緊張感をもって刻され

あるいは、しっとりと湿度をふくんだかのような空気が融けあい…

そうかとおもえば、何やら異質な形象が唐突に投げいれられて

隣接する部分風景と融合して

筆者の〈記憶の風景〉の肌触りと重なりあったりする――

あるいは、なんとも意味不明にそこにある「とらえどころのない

物質性図像」を 味わう――

そういう「〈密度世界〉を 覗きこむことを こちらに自然に仕向ける

〈作品サイズの小ささ〉」が、まさに生かされた

 〈イマジネーション誘発装置〉であり〈眼の触感装置〉のような

作品であった。

 これがかりにサイズの大きな作品であったならば

観者側の視覚と内面運動とが、拡散的な性格を帯びることとなり

こういうふうな観者側の〈内向〉は、成立しにくくなるにちがいない。

 

 

 

「自然界の風景」に対する感動というものは、対象風景と一体融合的で

したがって、意識内時間がとまった〈刹那の受動態〉の中にとりこまれる

のが通例である。

 

しかしそれが、断層面の岩肌の表情のような「単純な物質図像的なもの」

になれば、こんどは、こちらの内面に自由度が生まれ

「内発的な想像運動や内的触感」の〈集中的時間〉を生成する。

 

そして、人間の手によって 自然が成すよりも自由に創出された抽象図像は

しかも、モノクロームという「リアルワールドとの〈距離〉をもたらす抽象

表現」は、とくに世界を感受するそれなりの眼をもった観者に対して

内面への独自の刺戟を誘発する可能性を秘めている…

 

 

人間の〈生きもののような感覚〉にとって、神が造化した自然物よりも

さらに刺戟的でたのしい世界を、醍醐は、造物神にかわる、あたかも

「人間の内なる宇宙神」として生み出すことを たのしんでいる ――

そんな想像をしたりもする…

 

 

 

 

醍醐の抽象は、画面構成において

 

 

  「内的に既存する調和感覚」にすなおに身をまかせることをせずに

  創造プロセスにおける美意識の〈必然〉の枠を あえて突きくずすように

  モノクロームで沈められた画面の中に、現実感覚の〈触覚〉とつながる

  ような〈触覚的図像〉を画面にとりこみ、それらを、唐突的関係

  をもおそれずにダイナミックに構成することにより

  〈人為的な整序指向〉とは逆の「自然性のゆらぎのベクトル」の中を

  生きる…

 

  そこでは、「現実世界の肌触り感」と「抽象的構成ならではの面白さ」

  との間を、観者の深奥は、ゆらぎつづける…

 

 

  それは

 

  〈リアルワールド〉と、密接し、共にある、〈抽象世界〉…

 

  とでも言えようか。

 

 

とても大胆な創造画面であるのに、その画面に「これ見よがし的な浮き」

 は感じられず、あたかも「現実の自然界の様相」のごとくに

かそけき〈 ゆらぎ〉とともに それはある…

 そうした醍醐の作品の性格が、観者をして、〈解放された想像運動〉の

上質な時間に じわっとひたらせてくれる…

 

 

 

 

抽象絵画の視覚的な表情の中を、観者の眼が、無意識世界と連動

しながら動き、視覚以外の外部刺激受容センサーが周囲の世界から

完全に切りはなされて、内面が想像運動の中を解放的にさまよい

同時に、内的触感を味わう…

 

 

その想像運動や内的触感がどういうものかといえば

 

イメージ的には とてもあいまいであり

〈絵画の表情〉を眼が舐めながら、なにか無意識世界の感覚系の脈絡を

「いつもはそうされていないような不思議な仕方で、マッサージされる」

―― そんな 宙づりにされるような感じ、とでも言おうか…

 

 

 

 

作品に接していると、画面をなぞる眼と連動する内的想像・触感運動は

文字どおり とどまるところをしらない…

 そこでは、作品を見終えたあとの「追想」はほとんど意味をなさず

作品を体感しているときの「進行しつつある時間」のみが

意味をもっている…

 

 

醍醐のとらわれない自由な創造力…

そして、観者側の感覚脈絡宇宙の広さと深さの個別性…

その〈出会い〉から生まれる 密やかで粛々とした可能性のロマン…

 

 

そのロマンは

 

  人間の  そのつどの

 

   「〈自然性〉への深奥回帰の時間」

 

でもある…

 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影

*醍醐イサム個展 ― 溶光融光 ― は 2016.5.11-5.21 

Gallery Storks (東京南青山) で開催された。