息づく図像… あたたかい静寂… | 周豪作品展
先月 銀座のギャラリーで その場を去りがたい
気持ちにさせるすてきな展覧会があった。
周豪さんの油彩の作品展で
一見とても単純な抽象的図像が描かれた画面が
しずかに息づいて
こちらが気づかないうちに 自分の内面が
まったく自然に 作品と同期してしまっている …
なんと表現したらよいのか …
視覚の常識がくつがえされたような
単純図像ゆえに成しえたと思われる
深く そして あたたかい 〈 静寂の気 〉 に
作品全体が包まれていた …
かのマーク・ロスコは 非常にデリケートな色面によって
美しく深い抽象世界を作ってみせたが
単純な図像による絵画の場合は
人間の意識内における 〈 識別の限定性強度 〉 という特性が
からんできて 単純図像 = すぐに了解されて 妙味がない
ということに帰結してしまいがちである。
そもそも表現というものは 新鮮さとか おもしろさとか …
観者の内面に 〈 脈絡宇宙 〉 として存在しているであろう
複雑な背景に対して それに傾斜を生起させる
なんらかの効果ある 〈 異化作用 〉 を及ぼすものでなければ
感動をもたらすことはできない。
記号とか模様に利用されている単純図像は
識別されやすく 親しみやすい面があるが
しかし 陳腐 …
だから 単純図像を抽象絵画に用いることはむずかしい面がある。
ところが 周の場合は
単純図像が
「 こんなにも自然に こちらの眼を釘づけにしてしまうものか … 」
と かえって不思議な感じにさせられてしまう …
これはどうしたことか?
周の図像は 単純ではあるが 単純ではない!
自己の感覚だけをたよりに 〈 形の探索 〉 をくりかえして
これでもかという淘汰をへた結果 見出された
きわめてデリケートな 〈 細部特質 〉 を有する形は
周の 詩人としての内面宇宙が
〈 世界の感受として滲みださせる根源形 〉 であり
それは 見ようによっては
どこかで見たような形のイメージとも重なるが
しかし 実際は 「全体単純性の中の細部複雑性 」 ともいうべき
画面の妙味に 瞬時に こちらの内面が融解同化してしまい
そこに 陳腐という印象が 入りこむ余地はない。
ここが大切なところなのだが
周の図像は 図像自体を 直接描こうとはしていない!
背景に対して屹立した図像ではなく
絵の背景を少しずつ描きすすめる中から 〈 湧現してくる図像 〉 である。
だから そもそも通常の 「 図と地の関係 」 が 意図的に避けられていて
図像は 全体の 〈 気 〉 の中に 揺らいでいる …
画面に絵具を食い込ませるような気持ちで少しずつ描き進められるプロセスは
それこそ 気が遠くなるような作業であるが
他者からみれば あるいは愚直にもみえるそのプロセスこそが
周の無意識的内面宇宙と 表現体のありようとを
おのずと 融解同化させている魔法の独自描法なのではないか …
そして その描法が
しらずうちに 瞬時に 精度指向視覚から観者を引き離し
現実世界の三次元性リアリティとは距離のある
〈 平面ならではの抽象の力 〉 を発揮させて
画面と同期した観者の内面の運動を
一気に深層へとしずめてゆく …
そこにあるのは
絵画の 〈 観者に対する純化された作用 〉 で
メタフォリカルなイメージを寄せつけるような甘さのない
図像単独と 観者内面との
ダイレクトな融解同化…
だから 周のタブローは 〈 決まったテーマ 〉 を描いているわけではない。
作家と 観者と が
ともに
宇宙的スケールの 〈 命のプロセス 〉 に 美的融然とする
―― そういう 〈 契機としての表現 〉 といえるのではないか …
全体から細部にいたるまで すべてが
とことん周の感覚で密度高く包まれた世界 …
絵相互の配置関係や 作品とギャラリー空間との呼応関係 にいたるまで
その統御は徹底されている …
がしかし 作家の感覚による統御の痕跡を微塵も感じさせることはなく
〈 内面宇宙 〉 の無限の広がりの中に誘いこまれた自分が
あたたかく おおらかな響きの妙に ただ浸っているだけ …
「 暗闇の中でも その絵の気配が感じられるような そんな絵を描きたい … 」
会場で周が語っていたことばである。
写真:筆者撮影
*4枚目の写真は周豪氏撮影による
2014年12月22日