風景の生命化 … | 藤井龍徳作品

美 ○ 思索

 

スコットランドから藤井龍徳さんが 氏のインスタレーションの写真を

送ってくれた。

 

 

 

 

 

 

深く沈んだ色調の写真が なんとも印象的だ。

 

繊細な皮膜のような透明感の空と、

フエルトのような柔らかな衣をまとって起伏する硬質な大地

との対比が、独特のテイストで迫ってくる …

 

私は、スコットランドには行ったことがないので、

風景の空気感と同化するような感じで、

初々しく写真の世界に入り込んだ …

 

美的なる世界への無心の共鳴 …

 

 

はじめに写真を見たときに 私をぐっとさせるその感動が、

氏による 「付加行為」 によってもたらされていることは確かだ …

風景に惚れこんで、氏が 〈造形的付加行為〉 にかりたてられる …

それは、「氏の魂による 自然風景の生命化」  …

 

 

 

氏のメールには、

 

日中の気温は15°前後、夜は寒い位で、

突然雨が降ったり晴れたりの繰り返しです。

冬の厳しい気候のためか

木々は小さく 可愛い花が沢山咲いています。

しかし風の弱い雨の時には

蚊の大群と格闘しながらの設置です。

…… しばらく、ピートの中の大きな石との生活です。

 

とある。

 

 

 

現地の時空を生きる作家自身は、

そこでの まあるい宇宙のゆたかさの 全ての中 にいる。

そして、写真世界は、〈世界の限定〉 による異化であり、

その 〈限定〉 は、現地で励起されている氏の美意識の中で

なされている …

 

これに対して、写真を見る側はというと、

写真の視覚情報以外の たとえば「蚊の大群」 といった

さまざまなリアリティーとは隔絶したところで、

かつ、いわゆる 〈意識知〉 が消えた眼が、

 〈物質的構成のムーヴメント〉 として写真をとらえ、

意識されていない内面に沈潜している記憶とか美的感受性が

呼応的に動き、意識に向かってささやく中で、

写真世界との共鳴を ただ純粋に生きている …

 

 

写真中央の巨きな岩を、氏は、「ピートの中の大きな石 」

と表現しているところをみると、それは、大地の突出部分ではなく

単独の岩なのだろうと想像するのだが、

そうだとすると、このど~んと居座る岩は、いつ、どのようにして

運ばれてきたのであろうか???

 

そういえば、長い時間の中で成立した存在と存在との境界の

詩的残響を即興するような何本もの放射する棒に、

てるてる坊主のような形をした白布が吊るされ

それが 付加された風景の妙として 響いている …

 

そこには、造形の 「曖昧なる多義性」 のようなものがあって、

それが、こちらの想像世界のかそけきふくらみを誘う …

 

氏の文章に、「風の弱い雨の時には蚊の大群と格闘 …」

とあるし、だから、天気を願うそういう 〈暗示的な意味性〉 が、

吊り下げる白布のあり方を決める際に、

あるいは関係しているのかもしれない …?

 

 

でも、そういうたぐいの 〈意味性〉 は、

あとから自然に、いろいろと想起されてくるもの …

あるいは、作家から話を聞いて、作品の世界の奥行きを

物語的に楽しませてくれるもの … ではあっても、

当初の私の写真世界との無心の共鳴には、

少なくとも 〈意識上〉 は なんの関係もないのだ …

 

 

 

作家の感動 …

 

そして、

 

写真観者の感動 …

 

 

それぞれの 「無意識世界と脈絡をもっているであろう美的感受性」

の間には、通底する何かがあるのではなかろうか。

 

 

 

 

【インスタレーション】

 

タイトル : Loch Maree Weather Station (ロッホマリー…)

        Gairloch (ゲアロッホ), Scotland

作   家 : 藤井龍徳 (写真撮影も)