美しいインスタレーション | 藤井龍徳の開かれた世界観

美 ○ 会う

 

アーティストが環境をえらび、そこで作品を制作する… その結果、環境と

作品が共鳴しあって独自の響きが生成される。 これがインスタレーション

のおもしろさだが、実際は、この作品と環境の共鳴というところがむずかし

く、作品が中途半端に浮いてしまっているケースをよく見かける。

 

数日前の秋晴れの日に、すばらしいインスタレーションをみた。

友人の藤井龍徳さんの作品で、今回はどんなものを作ったのかまったく

知らない状態で我孫子の布佐を訪ね、で、人影のまったくない住宅地を

歩き、すこし道にまよって丘の上に小学校を発見… 目指す公園が脇の

雑木林をくだった先にあることをおしえてもらった。

 

木漏れ日のゆれる林をくだったところで、木々の先に、明るい緑の空間

がひらけ、そこに… ぱっと目をひくかたちで それはあった…

 

一段低くなったところに細長い緑地がのびのびときもちよくつづいていて

そこを ただただ さわやかに 風が吹きぬけてゆく…

 

ゆるやかなカーブをえがく麻のロープに 無数の帯状の白布がつるされて

風の息とともに 光の陰影模様をきらきらとえがいている…

 

おだやかな 静寂 ……

 

 

 

 

 

 

 

 人の手によって構成された存在なのに、まわりの緑と 雲を浮かべる空の

たたずまいに 動的に完全融和 ―― そんな印象である。

肌に風をうけながら… なにかなつかしいようなにおいをただよわせて…

 

それは、無意識下のさまざまな記憶らしきものが、その輪郭があいまいな

ままに 微音をひびかせている…とでもいうような感覚か…

光の神々しさ…  いや、物干し台で陽光をまばゆく反射していた洗濯物

をただ幸せ感の中で見上げていた幼少時の記憶と重なっているのか?

 

環境とともにあるこういう動的融和はまったく写真にはならない、という

ことをあらためてつよく感じた。 現場体感こそが 文字どおり全的な力…

写真による異化された映像は、それ独自のテイストを発散しているが…

 

 

白布は、廃棄されたシーツを裁断したものを使用していて、ベッドの上

の夢を 天にむかって解放していきたい… そんな気持ちがこめられて

いる、と秋の光のもとで作家はおだやかに語っていた…

 

 

 

 

 

【追記】

 

藤井さんは、人間がふだんまったく感知していないもの、あるいは、

あいまいにしか意識していないようなもの、に一貫して関心をもち、

それをイマジネーション連鎖の基点として作品づくりをしてきた作家だ。

2011年の原発事故よりずっと以前から、《宇宙放射線》 に着目した作品を

作ってきた。

ここに掲載したインスタレーションには、『Abiko Weather Station 2012』 という

タイトルがつけられていたが、一年ちょっと前に、その怖さを五感が感知できない

という、そういう 《風》 が北からやってきた…

記憶に生々しいそのなんともイヤな感じというものを、

いま目の前で白布をたなびかせている 《風》 が、こんなにも爽やかに感じられ、

美しい光景を見せてくれているのに…   なのに、どうして…… 

という気持ちとして、対照的に、寡黙に、伝えているところがあった。

 

 

 

 

 

 

気持ちに余裕のあるときに、そのありがたさをつくづくと感じることがある

《爽やかな風》 とか、《ゆたかな風景》 とか、《雑音のない静寂》 とか…

いわば、「ふつうの、おおらかな、大切なものたち」 …

藤井さんのインスタレーションは、そうしたものの大切さを訴求してくる

《介在性の美》 ―― でもあり、

インスタレーションならではの 「作品とまわりの環境との交絡の響き」 が

きわだつ直覚美に隠れて、それとなく、密実に、生成されている。

 

 

 

写真:筆者撮影