空間性の詩的陰翳 | 田尻幸子作品

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これまで、空間性に着目した大小のオブジェ作品を発表してきた

田尻幸子さんの近作をみる機会があった。

 

かちっと整序されていないたたずまいの

やわらかみのあるギャラリーの空間に包まれて

その中央に、木製のさまざまな矩形フレームを丁番で結合したり

あるいは 独立にあつかったりして構成した作品を配置し

ギャラリーの壁面や低めの天井の凹凸などの空間的特質と呼応させて

 「 〈明快さ〉 と 〈微妙なテイストを息づかせる複雑性〉 とが混成した

不思議な魅力の作品空間 」 を仕立てあげていた…

 

それは、なんということのない簡単な仕組みの構成体ではあるが

しかし、ジワッとくるなんともいえぬ味わいが漂っていて

作品のまわりを移動してゆくと

それにつれて、個物的存在としてのいわゆる一般的な立体アートでは味わえない

「 空間性にもとづいて立ち現れるさまざまな妙味 」 が明滅する…

 

 

木製フレームの中は、透明シートを仕込むことなどはいっさいしていない

ただ抜けているだけの単純なつくりなのだが

手前のフレーム越しにむこうを見ると

むこうが なにか透明な液体の中にあるように 微妙にゆらいでいる…

あるいは、鏡像のように感じられる瞬間もある…
 

 

このゆたかな錯視は

幾何学的に単純に構成されたジャングルジムのようなものでは筆者は

経験したことのない現象なので

照度が落とされた空間におかれた 「 アート的にゆらぎをもって構成された全体 」

の中にある 〈フレーム越しの透視〉 がもたらす独自の現象なのではないかとも思う。

 

こうした錯視をふくめて、田尻作品は

そのまわりを移動する者の視界に

重なりあうフレームの実体と透視のからみあいの変化を

影の像の妙ともどもたのしませてくれて

観者を自然に作品とのたわむれにさそってくれるあたたかな親和性を体現していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パッと見では、あるいは建築現場の軸組を連想するひとがいるかもしれないが

それは、皮相的な連想というもので

田尻作品は、矩形という卑近な形状にともなう原初的連想を

観者の主として意識下で共鳴させながら

特別感のない表情のさまざまな比率の木製フレームを

あくまでも普段着のようにゆるく構成することによって

「 透けて 〈開放〉 された矩形フレームの 〈閉じた〉 整 」 と

「 重力に力学的にしたがう 〈安定感〉 の垂直構成の接合の

上方にむけて 〈あやうさ〉 をともなって開放される造形 」 という

いずれも矛盾性を内包するイメージの 〈共生〉 をやってのけていて

事前の入念なエスキースという予定調和の確かさを忘れさせるさりげなさの中に

構成風景のかろやかな変化の妙を実現している。

 

だから、構成が、端正さを有しつつも、それは

力学的に考えられた合理的構成などとは似て非なるものであって

観者の移動にともなって、相矛盾する視覚イメージ性を 観者の内奥で

微妙に多重融合・変化させて響かせる

いわば 〈詩的な陰翳交錯装置〉 になっている。

 

 

 

 

 

 

筆者は、カメラのモニター画面を見ながら作品のまわりをゆっくり移動して

さまざまな角度から作品をフレーミングすることもしてみたが

たしかに写真では、フレーミングの構図はたのしめるものの

そこでは田尻作品の微妙な空間性のゆたかさは、まったく失われてしまう。

リアルワールドは、もともと、そのなまの味わいを

写真に置換することは不可能であるが

田尻作品の微妙なテイストは、とりわけそのことを強く感じさせるところがあった。

 

 

思考のプロセスに男性型の垂直思考と女性型の斜めの思考というのがあるが

田尻作品のダイナミックな構築性は

単純な合理的構築や 男性型のある意味きっちりとおさめる志向の構築とはことなる

どこか日常性の温度感をもつ 〈きばらない構築世界〉 の

ゆたかさと 自然さと 親和性とを

体現しているように感じた。

 

 

 

写真:筆者撮影

*この展覧会は 2015.6.1-6.6  ギャラリー悠玄(東京銀座)で開催された。