人間世界の〈やさしい光〉のヒント… │ 金子清美作品〈束の間〉

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和の初期に建てられた足利の民家の和室で、金子清美さんが

ひさしぶりにインスタレーション作品に取り組んだ。*1

 

 

廊下ごしに庭に面する東南の角部屋とその続きの間を利用して

〈光の間〉と〈翳の間〉が、対になって呼吸している作品で

インスタレーションの傑作ともいうべき静謐美の作品である。

 

障子越しのやわらかな光が主調をなす「気づくと変化している

外光」の綾と、そこにすでに在る空間性や諸々の文化遺物の存在

── そうしたものたちと深いところで共鳴しあう金子特有の作品

要素が、実にていねいに仕込まれ、配置されている… 

作品要素のなかには「書かれたことば」もふくまれているのだが

このインスタレーションは、視覚美を偏重したアートというよりは

ひとが「生きる」こと、あるいは「いのち」、とのコンテックスト

支えられていて、いわば生命的なアートとしての根源性と包括性

有しているといえよう。

そして、作品が成立してゆく過程における創造的思考に

向こうからやってきた偶然的な条件との不思議な出会いが絡み

それが、偶然にしてはできすぎた脈絡を呈する ──

そうした導きの力が加わって、インスタレーションの全体が

「寡黙な背後脈絡世界」としての密度体現するにいたる…

 

そうした、いわば「〈存在〉そのもの」の深遠にしてデリケートな

つぶやきは曖昧さの中に包まれ、現場で実際に感受され、あるいは

想像力が動く全的なる世界は、観者の視線の動きから瞬間瞬間に生成

されつづける動的な性格の内的世界であり、それは、言葉や写真では

とらえることができない複雑系の世界である。

作品空間に接する時間は、まさに一期一会 ── そういういとしさを                

作品のたたずまいに強く感じたのが今回の金子の作品であった。

 

 金子の作品は、さりげなさの中に醸される

「人間世界の〈やさしい光〉のヒント」であり

自己主張にもっぱら占された「目立ちのアート」とは

ずばり、真逆の世界である。

 

 

(photo ───── click → wide view)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1── 足利CON展参加インスタレーション 2018.5.13-19

 

写真:筆者撮影

 

Live (リブ)| 意識されざる無限宇宙への通路… | 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

澄みわたった空に浮かぶ雲の千変万化する形と色合い…

水をふくんだ空気の粒子が生みだす形と色合いは、〈連続性〉の中に

かぎりなく精細な変化を織りなしている…

太陽からやってくる無尽蔵のエネルギーによって地球の表層の水は

循環をくりかえし、生き物たちの命を支え、役立ち、

そして水のつくりだす表情がときにわれわれの美感覚を根源的なところで

ゆさぶることがある…

外在するすべてのものは、人間にとっての既知・未知・不可知に関係なく

相互に脈絡をもったいわば全的な存在であり、

その外在を体験しあるいは感動している人間の内面世界の方は、

無意識世界における無限脈絡宇宙を基底にして生きているはずで、

さらに、その無意識的内面世界と外在とは、たとえば〈気〉のような

いまだ解明されざる関係性をはじめ、未知あるいは不可知のなんらかの

根源的な脈絡をもっているような気がしてならない…

 

 

 

昨秋、展覧会への出品という機会をとらえて石膏を用いたオブジェを制作

した。

それは、石膏で造形された〈大地〉と、円錐形の石膏ベースから立ちあがる

ワイヤー造形の〈雲〉、というふたつの要素の組み作品になっている。

〈大地〉は、型に用いた合板が偶然に生みだしてくれたまさに大地の断面を

想像させる粗い質感の側面と、流し込んだ石膏の粘性が自然に形づくって

くれた波紋様のやわらかな表情の上面と、そしてそれになじんでつづく

重力方向の変化を与える隆起面(石膏の流し込みボリュームからていねいに

削りだし適宜磨きをかけて仕上げた)、とおおきくは三つの表情から成って

いる。

〈大地〉の上面の端にある穴は、大地内部の空洞に通じている。

また、〈大地〉と〈雲〉のふたつは、作品が設置される環境の状況に応じて

相互の配置関係が決められる。

 

 

今回の作品は

 

抽象と具象との〈中間〉の力を求めて…

―― 自己の「無意識下の〈合理構築性〉」の外へ ――

 

ということを念頭において制作した。

 

したがって、自己内で決定することに加え、「向こうからやってくるもの」

を取りこむことに意識的であった。

 

 

 

以下は、具体の造形にとりかかるまえにまとめた文章である。

具体の造形の背後にひかえている〈私の世界視〉ともいうべきものの一端が

記されている。

 

 

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美しい!、おもしろい!…と、或る〈形〉に接したときに感じるのは、

自分の無意識世界の脈絡宇宙の中に、すでに「なんらかの感応尺度系」が

存在しているからだ。

その尺度系自体を、直にとらえることは、永遠にできない。

そして、その尺度系は、確固たる強さを有しているように思われる。

いっぽう、ある人生の時期に、まったく興味をもてなかったり、よいかたち

では受容されなかった〈世界〉や〈実在の形〉に対し、人生経験をへたのち

のある時期に、そして自己をとりまく〈時代性〉や自己固有の〈環境〉に

呼応して、よいかたちで出会い、反応する、ということもありうる。

つまり、〈美意識〉の背景にある尺度系は確固としたところがあるいっぽう

で、変化もしてゆく…

 

宇宙的な脈絡とともにある〈生命〉という存在が拠ってたつところの根源は

科学がいかに発達しようとも、永遠につかまれることはないのではないか。

少なくとも、いまの科学的アプローチの延長上に、生命自体をゼロから生み

だせる可能性はないような気がする。

生命の存立の全体とか、以心伝心とか、魂レベルでの彼岸から此方へと伝達

される暗示的波動のチャンネル(?)とか…  そもそも、これらの世界は、

科学的あるいは数学的認識とは異なる次元にも属した〈無限性世界〉の

出来事なのではないか…

オイラーの公式をご存知でない方もいらっしゃると思うが、1+2+3+ …と

整数を無限に足してゆくと、その合計は、なんと-1/12 になる。

現実世界の感覚の延長からすると、これはありえない数字である!

数学の進歩は想像以上のもののようで、素人目にもこれまでに発見された

〈真実〉は驚異的なものに映るのだが、しかし、数学を含む科学の延長線上

には、無限性の生命そのものの根底をつかむ可能性はないような気がする…

 

生命現象の一部としての〈美意識〉というものも、だから、その一番根底の

ところは、永遠にブラックボックスのままにおかれる…

そして、個人の人生はもちろんのこと、人類の進化の歴史も、永遠に完結

されることはなく、〈過程〉の中を生きていく…

ゲーデルが1931年初頭に完成させたという論文によって、「それ自体の中

に〈矛盾〉を抱えない論理体系」が前提の場合、言葉をふくむ記号論理体系

の世界に〈完全性〉は成立しない、ということが証明されている。 これを

わかりやすくいえば、完璧な理論というものはそもそも存在できないという

ことである。 そしてそのことは逆にいえば、「未来の中に、かならず、

既存知を越える可能性が存在する」――  そういう、これ以上はない力強い

希望をわれわれに与えてくれる真実を示してくれていることになる。

 

アートの制作過程では、創作者が自身の内面宇宙を、正直に透視しよう

とする。 では、なにが〈正直〉である、ということなのか? ――

そこのところが、すでにいろいろの意味を含んでいて、つねにゆらいでいて

定まらない。

逆に、それゆえに、見定めようとする志向活動に、〈価値〉が生じてくる

――  ともいえよう。

 

〈精神的自我〉は、社会的な関係性の結節点そのものである、つまり、

絶対的根拠というものは存在しない ―― という認識は現代思想のひとつの

大きな到達点であるが、〈身体性〉の方は、生命体の「開放系としての

無限性有機組織」とともにあり、〈本能〉というその拠ってきたるべき

ところがつかめない力学系とともにある。

 

美意識というものも、この〈本能力学系〉と脈絡し、作動している…

 

こうした、なにやら定まらぬ無限性脈絡の中にあって、

〈限定された世界〉としての三次元立体の自由造形を、いまの自分の

脱構築的〈超抽象〉の造形・精神運動のたのしみとして、

〈自分の眼の感受性〉を手がかりにして探索してみたい。

 

 

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「新しい素材から生まれる重厚さと謎めいた姿の作品である。〈大地〉の

上面の表情が自然の中にありそうで、ありえなく、美しい。 制作過程で

あちこちから舞い降りてきた想念と作家の内に堆積してきた美意識が

合祀されて現出したように思える。 穴は異次元への通路であり、積層され

た始原への複眼的洞察の眼であり、切なさをともなう〈生〉の影を隠しも

している…」───

といみじくも新井九紀子氏が評してくれたように、〈大地〉と〈雲〉という

実存の具体的イメージを呼びよせながら、そのイメージに共鳴的な造形素材

の質感と形態による抽象化をおこない、外在世界と人間の内面世界における

「意識されざる〈無限性脈絡の妙〉」というものに思いをはせつつ、

「〈創造的な限定〉ゆえにもたらされる形象化の響き」をもとめてみたもの

である。

 

 

言葉による表現というものは、人間にとって欠くべからざるものであるが、

しかしそれは〈限定行為〉であり、実在を単純に説明する場合であっても、

無限脈絡の中にあるその〈全体〉をそのままのかたちでとらえることは

できない。 だから、〈限定的表現〉の積み重ねによって、立体的に説明

するよりほかはないのである。

しかもアート表現は、或ることを説明するものではないので、観者を宙吊り

にするようなアート表現なるものをまるごと言葉化することはむずかしい。

或るアートに関して語られた言葉であっても、それは語られた言葉が

対象のアート作品とは別個の独自世界を生み出してしまっている――

厳密にはそういうことになる。

 

しかし、私の作品に対する先の新井氏の評のように、作品に接したときの

「観者の内面の〈動き方〉」というものをその言葉を通して察し、美感覚

あるいは美意識の通底のよろこびを味わうことはできよう。

ときに、観者は、作品に関して作家自身は無意識の奥に潜ませてしまった

ことを、虚をつくかのごとくに気の効いた言葉で伝えてくれることがある。

そういうときは、作品評はまさに〈詩〉だな、響きだな…  などとひそかに

思ったりすることもある。

感覚と美学と世界視などが共鳴しあえる〈よき他者〉の存在というのは、

作家にとって生きているよろこびである―― そう私は感じてきた。

 

作品制作は、もともとオリジナルな自己内宇宙を独自のかたちで掘り下げて

ゆく孤独な世界であるが、同時に、作品世界が介在して作家とよき他者との

間にほかの方法ではなしえない「魂の共鳴」を生みだすというかけがえの

ない価値をもっている。

その点を重視してきた私は、自分が観者として他者の作品に深く感動した

ときは、その感動を自分なりの言葉にして作家にエールを贈りたい――

そう思ってきた。

本ブログにこれまで執筆してきた他者作品に対する評はそうして生まれた

ものである。

 

 

 

*美術作家の中村陽子氏に石膏作業を手伝っていただいた。

ここに記して謝意を表します。

 

写真:筆者撮影

 

創作者どうしの対話 | 周 豪 展

美 ○ 会う 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

作品の制作で

 

その前半は、「作品が、ぼくの従僕」

そして、後半は、「ぼくが、作品の従僕」…

 

制作の後半… ぼくが従僕にならないような作品は

結局、ロクな作品ではない!!

 

両親の老後の介護をした経験があるが

作品に対して自分が従僕になるというその状況は

ちょうど両親の介護に似ている…

 

 

 

作家の周さんとの会話は、創作をめぐって

そして人間世界をめぐっての本質論になることが多い。

二人は、作っている領域がたがいに異なるけれど

そのことがかえって「距離と共感」の話の興味深さを生む…

 

冒頭の言葉は、いま銀座のギャラリー巷房で開かれている彼の個展

会場で、作品を前に、彼の口から、考えながら、ゆっくりとつむぎださ

れた、創作をうまく言いあてた例え話であり、同時に、この人間世界に

対する彼のまなざしの柔軟な真摯さと、いつくしみの深さ、とを

感じさせる言葉である。

 

 

作品は、あくまでも「仮のもの」であり、それを足がかりにして

向こうへ…

向こうにある世界こそが重要であり、逆に、「作品という仮の存在」に

満足してしまったら、それでおしまいである…

彼のこの言葉にも、大いにうなづけるものがあった。

 

 

作品づくりに、とことん取り組む…

が、しかし、その生みだされた作品の存在は

その中を、人が生き、進む、《広大無辺の脈絡宇宙》の中に、たまたま

生みだされた「〈ひとつの位置〉からの照射」にすぎない…

そう、筆者は思う。

 

創作者は、先へ先へと果敢に進んでゆく…

それが、興味のつきぬこの世界の「密度ある旅」になってゆく…

 

 

 

 

 

掲載した写真は、ギャラリーが入っている建物の地下へと階段を下りて

いって、うす暗がりの 壁圧を感じさせる狭間のようなホールの先の

照明された展示室の正面に配されていた油彩作品で

部屋に入ったとたんに筆者の心をとらえた周の仕事である…

 

しばしの全的感動の時間をへて、筆者の視覚は、自由に画面世界の

〈部分〉へと向かう…

 

 

 

 

相呼応する 〈対〉 の形――

その穏やかなコンポジション…

 

ただそれだけのことだが

そこには観者の固有の視覚に応じて開かれる

「無意識世界の無限脈絡」の鼓動が

息づいている…

 

極限の極限まで つめられた図像…

その輪郭のきわめてデリケートな変化…

 

各色面は 何回もの塗り重ねを通して

(空間性)と(平面性)との境をゆらぎ…

呼吸をしている…

 

実存空間そのものではないゆえに

かえって生まれ出る

(空間性)の静かな呼吸とともにある

削ぎ落された平面抽象表現の力…

 

図像の布置は 一部のスキもないのに

それなのに、それは 動きの中にある…

 

 

ふたつの図像は

あたたかい空気につつまれて

さも気持ちよさそうに浮遊し

すなおに遊んでいる…

 

 

 

………………

 

 

 

人間は、一人では存立できない。

おおげさに聞こえるかもしれないが

宇宙史上唯一の (個) が

宇宙史上唯一の (固有の人生) を生きる…

それも、ただ一回…

 

筆者は、いつも、人生時空における

(よき話し相手) という存在の重み

のことを想う…

 

 

 

 

 

 

*周の作品世界については、過去に書いたもの

  があるので、そちらもご覧いただきたい。

   →  http://ops.co.jp/wp/?p=1398

 

 

 

写真:筆者撮影

*この展覧会は 2016.5.16-5.28 巷 房(東京銀座)で開催された。 

 

触覚的図像と人間の内面自然性 | 醍醐イサム作品

美 ○ 会う 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

山歩きをしていてふと出会う

なんとも表現できないような面白い断層面の岩肌の表情…

それは、ときに何かある動物の姿を連想させたり

またときには、幾何学的な図形にみえたり…

 そのとき、私の内面は、自然界が偶然に生成したにしては

ありえないものに出っくわしたという感動とともに

それが、「他の〈存在〉や〈感触〉」を暗示する「物質的な表情」に

すぎないものなのに、それをみた自分の内面世界が共振している―― 

その「暗示」という 深遠な内的運動そのものの不思議さのこと

を考えてしまう…

 

それは、美しい風景を眺めいる場合のように、〈実存〉を「そのもの

として」 じかに感受するのとは 「感覚の運動の様相」が異なっていて

〈実存〉を、きっかけとしながら

私の内面が、かってに遊びをはじめてしまう

「無限の深さを有する無意識世界の〈内発型宇宙運動〉」

ともいうべきものであろう。

 そのときの私は、眼前の〈実存〉の側に一方的に引き寄せられて

一体化させられてはいない ―― つまり受動的ではない状態である。

対象を眼で撫でながら、即 それに連動して、無意識世界の中の

なにかが「内的五感系の脈絡運動」をしている…

 

 

 

 

南青山の Gallery Storks で 最近みた 醍醐イサム のモノクロームの

平面作品のひとつが、自分の中で勝手に動いてしまう そういう

 「無意識世界の内発運動」の瞬間楽と不思議さとを つよく実感させる

機会を提供してくれた。

 しかも、そのあと いろいろのことを考えさせるおまけがついて

たいへんに興味深かった。

 

 

その作品は、醍醐が展開する幅広い作品世界の中では

例外的な性格のものと思われ、画面が複雑多様な要素から成り

「風景的な空間性 あるいは 空気感」を感じさせる。

小さな画面の中に、微細なる線分や明暗による複雑なテクスチャー

などが、きわめてデリケートに かつ 緊張感をもって刻され

あるいは、しっとりと湿度をふくんだかのような空気が融けあい…

そうかとおもえば、何やら異質な形象が唐突に投げいれられて

隣接する部分風景と融合して

筆者の〈記憶の風景〉の肌触りと重なりあったりする――

あるいは、なんとも意味不明にそこにある「とらえどころのない

物質性図像」を 味わう――

そういう「〈密度世界〉を 覗きこむことを こちらに自然に仕向ける

〈作品サイズの小ささ〉」が、まさに生かされた

 〈イマジネーション誘発装置〉であり〈眼の触感装置〉のような

作品であった。

 これがかりにサイズの大きな作品であったならば

観者側の視覚と内面運動とが、拡散的な性格を帯びることとなり

こういうふうな観者側の〈内向〉は、成立しにくくなるにちがいない。

 

 

 

「自然界の風景」に対する感動というものは、対象風景と一体融合的で

したがって、意識内時間がとまった〈刹那の受動態〉の中にとりこまれる

のが通例である。

 

しかしそれが、断層面の岩肌の表情のような「単純な物質図像的なもの」

になれば、こんどは、こちらの内面に自由度が生まれ

「内発的な想像運動や内的触感」の〈集中的時間〉を生成する。

 

そして、人間の手によって 自然が成すよりも自由に創出された抽象図像は

しかも、モノクロームという「リアルワールドとの〈距離〉をもたらす抽象

表現」は、とくに世界を感受するそれなりの眼をもった観者に対して

内面への独自の刺戟を誘発する可能性を秘めている…

 

 

人間の〈生きもののような感覚〉にとって、神が造化した自然物よりも

さらに刺戟的でたのしい世界を、醍醐は、造物神にかわる、あたかも

「人間の内なる宇宙神」として生み出すことを たのしんでいる ――

そんな想像をしたりもする…

 

 

 

 

醍醐の抽象は、画面構成において

 

 

  「内的に既存する調和感覚」にすなおに身をまかせることをせずに

  創造プロセスにおける美意識の〈必然〉の枠を あえて突きくずすように

  モノクロームで沈められた画面の中に、現実感覚の〈触覚〉とつながる

  ような〈触覚的図像〉を画面にとりこみ、それらを、唐突的関係

  をもおそれずにダイナミックに構成することにより

  〈人為的な整序指向〉とは逆の「自然性のゆらぎのベクトル」の中を

  生きる…

 

  そこでは、「現実世界の肌触り感」と「抽象的構成ならではの面白さ」

  との間を、観者の深奥は、ゆらぎつづける…

 

 

  それは

 

  〈リアルワールド〉と、密接し、共にある、〈抽象世界〉…

 

  とでも言えようか。

 

 

とても大胆な創造画面であるのに、その画面に「これ見よがし的な浮き」

 は感じられず、あたかも「現実の自然界の様相」のごとくに

かそけき〈 ゆらぎ〉とともに それはある…

 そうした醍醐の作品の性格が、観者をして、〈解放された想像運動〉の

上質な時間に じわっとひたらせてくれる…

 

 

 

 

抽象絵画の視覚的な表情の中を、観者の眼が、無意識世界と連動

しながら動き、視覚以外の外部刺激受容センサーが周囲の世界から

完全に切りはなされて、内面が想像運動の中を解放的にさまよい

同時に、内的触感を味わう…

 

 

その想像運動や内的触感がどういうものかといえば

 

イメージ的には とてもあいまいであり

〈絵画の表情〉を眼が舐めながら、なにか無意識世界の感覚系の脈絡を

「いつもはそうされていないような不思議な仕方で、マッサージされる」

―― そんな 宙づりにされるような感じ、とでも言おうか…

 

 

 

 

作品に接していると、画面をなぞる眼と連動する内的想像・触感運動は

文字どおり とどまるところをしらない…

 そこでは、作品を見終えたあとの「追想」はほとんど意味をなさず

作品を体感しているときの「進行しつつある時間」のみが

意味をもっている…

 

 

醍醐のとらわれない自由な創造力…

そして、観者側の感覚脈絡宇宙の広さと深さの個別性…

その〈出会い〉から生まれる 密やかで粛々とした可能性のロマン…

 

 

そのロマンは

 

  人間の  そのつどの

 

   「〈自然性〉への深奥回帰の時間」

 

でもある…

 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影

*醍醐イサム個展 ― 溶光融光 ― は 2016.5.11-5.21 

Gallery Storks (東京南青山) で開催された。

 

GARDEN | 金子清美作品

美 ○ 会う 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

その作品は、遠くから見ると一見ていねいに描かれた線描画

のようにもみえる…

がしかし、それは通常目にする平面アート作品とは一線を画するような

あるユニークな質の気配をたたえていることにすぐに気づく…

 

先日、金子清美さんの最近作をみる機会があったのだが

これはそこで体験した印象である。

 

 

 

なんと表現すればいいのだろう?

 

人が手で描いた線は、その背景に 描き手の意識および無意識の世界が

控えているがゆえに、それが ある種の 〈個的一貫性という世界限定性〉 に

かならず帰着してしまうところがある。

 

たとえば、美しい線を描こうとすれば

その線は、描き手の美意識と手の運動の相乗としての線であり

つまりその相乗的表現は、〈描き手の個性〉 のモーメントの中にある。

そこから 表現体のかけがえのない個性的美 がときに生まれてくるのだが

他方で、創造的行為は、つねに、あたらしい表現世界への越境であるから

そもそも表現者自身にとって なにやら不明な

この 〈個的一貫性という世界限定性〉 つまり 〈自己自身の殻〉 を

表現者はやぶろうやぶろうと苦しい時間と格闘することになる。

 

筆者はかつて、ピカソのドライポイント作品 「真夜中の馬たち」 に出会い

その作品の前で足が釘づけになってしまった経験がある。

カーブする一本の線の のびやかな勢いと その先に連続しながらも

不意に現われる線質の変化――  そのきわめてデリケートにして大胆な

融合美にただただ魅了されるばかりであった。

そのピカソの線は、ピカソのフリーハンドから生みだされた個性の線である。

それは、ピカソの 〈個的一貫性〉 の中にあり、強烈な個性であることは

いうまでもないが

同時に、いみじくも一個の天才の 「純粋な手技による線描の限界点」 を

示したものともいえよう。

 

 

 

 

金子作品は、そうしたフリーハンドで描かれた線とは異なる

にわかにはことばでうまく表現できないような 〈独特の空気〉 を

ただよわせていた…

 

人によるフリーハンドを超越した

「〈単純性〉 と 〈超複雑性〉 とが ないまぜになったような 〈線〉 の

抽象世界」 …

 

自由にゆらぐ 〈超複雑性〉 の線形が

人による 「全体視的な変形構成力」 と さりげなく化学反応し

観者の眼を不思議な感覚へとさそう…

 

 

 

作品に近づいていくと、ある距離のところで急に

作品のディテール世界が露わになってくる…

なんというか、自分の内面と作品とがなめらかな抽象的共鳴の中

にあった遠隔視の世界が、むりやりに現実世界に引きもどされるような…

そんな 内面の温感を唐突に引きさげられてしまう体験をする…

 

 

 

金子は 庭で植物とともにすごす時間を大切にしている人であるが

今回の作品は、氏の自宅の庭で繁茂しているワイヤープランツの

枯れ枝を集めてストックし、それを素材にして作品を創った。

それに、ところどころに融けのこった雪のように蜜ロウがからみ

また、銀緑色のふくよかな多肉植物の一葉一葉がアクセント的に

配されている。

アクリル板 (前面) とプラダン (背面) で枝をサンドイッチした

正方形のパネル2セットがすこしずらした形で重ねられており

重なった部分では、後ろ側の枝の影が 前側の乳半プラダンを通して

うっすらと透けてみえている…

 

 

 

そうした作品の構成を近くで見つめているうちに

ガーデニングという 〈行為〉 そのもの が ふと頭に浮かんでくる…

 

まさに リアリティの世界そのものである 〈ガーデニング行為〉…

植物という生命体との いつわらざる没我の交わり、愉しみ…

 

 

 

そう!…

 

金子の作品は、単なるイメージレベルの美的表現体ではないのだ!

 

 

 

作家の内面の根源に ゆたかなる栄養をプレゼントしつづけている

日常の 「厳然とした生活時空としてのガーデニング」 は

植物という静かなる生命体との 「無限性の内面的宇宙旅行」 であり

人間という固有性を越境して呼吸する本源性開放行為である…

 

そのいわば 植物という 〈実存〉 との交わりの旅は

植物の 〈良い面〉 を感受したい… という志向性をもちつつも

そうしたガーデナーの志向性を超えたところで

植物という生命体の 〈外姿〉 とか 〈匂い〉 とかの超複雑系に

ストレートに対面する―― そういう出来事である。

そこでは、「主観による選好」 という枠をこえたところで

時々刻々と 〈まるごとの実存〉 に感覚がさらされており

内面の宇宙世界とは次元を異にする 「自己外部の新世界」

との感覚的出会いと その認識とに、可能性が開かれている…

 

 

 

金子は、その 〈内面の栄養源としての日常宇宙〉 の

リアリティのかおりを 表現の素材レベルで積極的に保持しつつ

たとえば 〈生花〉 といった表現形式とはまったく異なる

〈抽象化の力〉 によって、独自の美的表現体を構成してみせた――

 

 

 

観者と作品との間の 〈距離〉 による視覚の変化を介在させることで

やわらかな美的抽象イメージとして伝わってくる遠距離で観るときの

作品の表情と

素材植物の 〈実物性〉 のもつ強さによって生々しくかもされる

「ガーデニングという旅」 の匂いただよう近距離での作品の表情とが

視覚のごく自然な連続性のうちに 異相世界として体現化され

観者をして それら二つの世界のあいだを往還させる…

 

つまり 作品の見かけはひかえめなのであるが

じつは、観者に対して 「内面のワープ装置」 のように作用する

ダイナミックな構造の表現体になっており

 

さらにいえば、この世界の 「実存の五感的まるごと性」 と

 「〈快〉 の方向へと主観的に誘導されがちな感受イメージ」 との

関係や それぞれの世界のもつ 〈独自の価値〉 といったものを

あらためて突きつけられてしまうような普遍的な暗示力をももった

 

「この世界の 〈多元性の意味深さ〉」 が秘められた作品

 

といえよう。

 

 

その作品が、作家の 〈植物という生命体〉 にたいする

深い慈しみから 生まれてきている…

 

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

自己表現の否定の地平で… | 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己表現の否定?―― それでどうやって作品が成立するのだろうか?

そう思われる方が多いのでは… と思われる。

 

筆者は、これまでもっぱら抽象立体作品をつくってきた人間だが

3次元性の抽象表現のことをあらためて考えてみると

たとえば、ある風景に出会って、その印象を、われわれが住んでいる

3次元空間と同じ次元の外化表現として 〈物理的に確定〉 しようとする。

また、かつて筆者は、「世界の連想」 というオブジェをつくったことがあり

その作品では、人間世界を生かしている力としての二つの存在 「自由を

もとめる個性的存在」 「異質性を統御しようとする全体中心化の存在」 を

イメージし、そして、その現実的な力の世界に、どこからやってきたのか

不思議におもわれるような 〈可能性〉 をもたらす 「〈存在の世界〉の外側

の不決定的なる宇宙」 という仮想的なイメージを加え

これら三つのそれ自体〈抽象的〉な契機を、ある意味 〈美的な抽象表現体〉

に変換して 固定する――

そういう いわば 「人間世界への根源的なまなざしの造形化」 を

したことがある。(*1)

 

自己表現の否定… といっているのは、制作者の内面にあらかじめ生まれる

「造形のためのいっさいのメタフォリカルなイメージ」 から出発することを

やめる―― そういう意味である。

 

自分を離れる…   内面を 〈空白〉 にする…

 

そして、制作に用いられる素材自体が 「形姿の可能性」 の旅にでる…

素材のもつ 〈形状の次元性〉、〈手による加工の性状〉 の意味…

そして、今この時の〈形姿の力〉… そうしたさまざまの可能性…

さらに、「造形という行為をめぐる 人間の内外宇宙の 〈全体性不可知の

脈絡〉」のことを想像つつ、交絡しながら、制作がすすめられてゆく…

 

しかし、制作の過程では、自分の内なる無意識の世界に

〈さまざまな脈絡の密度〉として そのルーツが存在しているであろう

ところの 〈世界認識〉とか〈美意識〉 などが作用しないわけは

もちろんなく、いぜんとして 自分がいる…

 

自分を 離れながらも、自分がいる…

 

そうして、造形の背景にあって、それをを先導する 「表現体のありかたに

〈統合〉 を指向させる内的な意味性」 を棄てさるところに立って制作を

おこない、結果として生成される作品は、感受される局面において

素材そのものの形姿が 〈裸の状態〉 で観者に作用し

「あいまいな連想を触発する装置」 のようなものとなる…

そういう試みから生まれたのが、ここに紹介する筆者の最近作である。

 

 

 

作品は、〈シンプルの力〉 をもちたいが、しかし、響きの浅い単調なもの

にはしたくない。

いろいろの過程はあったのだが、結果として、素材として ふたつのものが

選ばれ、その 〈対立的響き〉 の可能性を探ることにした。

 

素材をふたつに限定し、そして、素材の 《力学的特性》 を生かすなかで

〈自己の美学〉 を作動させながら、なんらかの 《力》 をもった表現体を

結果的に生成させる 「素材との 《手》 による対話」 としての制作…

 

素材の選定では、自分の美意識が当然に、つよく作用する。

そこでは、卑近なもの (高価だったり、立派だったり… そういうもの

ではないもの) で、手で切ったり曲げたりの加工がごくごく容易にできて

作業が大仰不自由にならないものに、こだわっている。

 

 

そして、具体の造形では、《軽やかさ》 や 《かそけさ》 のようなものを

目指した。

構築的なものがとかく有してしまう 「がっちりとした堅固さ」 とは逆の

《ゆらいで あいまいな世界》 …

 

素材として、軽やかなもの、はかないもの… が選ばれているのは

「いまこの時の感覚」 を重視している ということに加えて

素材の繊細さが、その存在性を希薄化し、夢かうつつか?

という浮遊感覚を 《空間性》 とともに現出させるからである。

 

たとえば建築の場合は、《空間》 の中を移動することで、刻々〈別の世界〉

を体験することになるが、立体アート作品は一点凝縮的で、せいぜい作品の

まわりをめぐって 異なった角度から作品をながめる変化がある程度である。

今回の作品では、そうした一点凝縮的なアート作品を

それに 《空間 》 あるいは 《気》 を与えることで

一点凝縮性から解放させることを試みた。

 

 

そもそも、筆者にとってのアート作品の制作行為は、

どこまでいってもつかみきれない

 「精神と物質にまたがる深い脈絡宇宙」 を

探索的に旅すること にひとしいのだが

そうした 《気》 の中にある素材のはかない形姿は

それが、観者の内面宇宙の無限へと解放されている――

そういう かそけき気分を

この作品を直に体感する者は感じることであろう。

 

 

 

この作品の中心をしめる 〈自由曲線を描く針金〉 は

亜鉛メッキされたスチールワイヤーで、径0.28mmの極細のもの。

指先で、ソフトにソフトに… 息をつめながら、カーブを作っていった。

ちょっとでも扱いをまちがえると、角がたってしまう…

スチールワイヤーは、外力に対してきわめて敏感に変形するので

「こちらの美学を満足させるカーブ」 になってもらうには

心をこめたこまやかな扱いが要求される。

そして、いったん形状ができると

その形状をしなやかに保持する 〈弾性〉 をもっていて

たとえば粘土のように、指で押したらへこんだまま… といった

こちらの言いなりになるような単純受動性のマテリアルとは異なり

《ひかえめな反発的個性》 を

手による造形のその場ですぐに主張してくるところがあり

そこが、なんともいじらしい!

 

いっぽう、クラッシュして造形した紙のほうは

バルカナイズドファイバーという 工業分野で用いられている硬い紙で

含水させてプレスすると成型できる、という特性をもつ。

今回の作品には、厚さが0.25mmの薄いものを使用しているのだが

それは、あたかもプラスチックのような感じで硬く

そのため、クラッシュしたときの折り目部分の陰影のグラデーションが

普通の紙では得られない独特の美しさを見せてくれることを、知った。

 

 

今回の作品での素材のありかたは

常識的感覚からすれば

柔らかいもの と思われている 〈紙〉 が硬く

硬い と思われている 〈針金〉 が 逆に柔らかい…

既成感覚を裏切る素材――  という意外性が

触れなければそれと分からないように、隠れている…

 

また、今回の作品では

《手》 による自由自在な造形、にこだわっているため

日常生活で通常視化されてしまっているマスプロダクツの

必然的形態であるところの 〈幾何学的単純形態〉 とは

あえて距離をおいている、ということを付記しておきたい。

 

 

 

 

 

今回の作品は

 

背景に、メタファーの元の 形態的イメージ や 概念 がないために

素材のダイナミックな外姿が 裸の状態 で観者につたわり

作品に対する観者の側の 〈構え〉 がとりはらわれていたことが

観者の反応でわかり、うれしかった。

 

また、実作品を体感するときの

 《立体視》 にひそむ妙味…

《全体と部分》 を重ねて見ている視覚の厚み…

そして目の 《ズーミング》 の自在さ…

そういうものが複合した実存の視覚的体感は

写真ではまったく消えてしまうということを

繊細な素材を用いた今作品では

とくに強く感じさせるところがあった…

だからこそ

実作品の 《生の体感》 こそを

大切にしなければならない、という…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―― 作品をじかに体感してくれた方からの反応 ――

 

 

 

作品の支持体の立ち上がる壁面が 〈斜め〉 になっている

ところに、最初に目がとまった。

ワイヤーが無限へと飛びだすためには

垂直ではなく、斜めに立ち上がらないと、力は弱い。

かつてバスケットをやっていたことがあるが、ゴールするときは

垂直にジャンプする。 だから、ゴールは垂直に立っている。

それらを連想しながら 〈斜めの勢い〉 が、ワイヤーを生かしている

と感じた。

その部分で、壁の〈斜め〉 が観者をみごとに裏切ることもきっとあり

それで戸惑うまわりの反応も、おもしろいだろう。

そこに、その人の既成の感受性が、垣間見えるから…

 

「無限へ飛びだそうとする線」 と

「永遠をそこに刻もうと、それぞれの形態で佇む紙の陰影」

との対比は

この自然界の仕組みのような…

人間の見えない 〈内的宇宙〉 が眼前に提示されたような…

言葉にはならない 〈漠然としたモヤモヤした空白〉 を

形にして見せたのが今回の作品、だと思う。

 

ワイヤーの醸す浮遊感は

この空白が、ほとんど陰影を作らず

そのもの自体がそこに存在する姿から

発している…

 

アートと建築の狭間をゆらいで

思考の闇をゆらし

そのまた深い宇宙を

垣間見させてくれる、作品世界…

 

目をこらして、作品を見る…

そして、目がなめらかに移動してゆく…

そこにある 「 〈一瞬のかたち〉 の自由さ」 が

見る者に自由に発想させる…

その無礙なる自由さ!

 

(佐藤省 artist/poet/art director)

 

 

 

自己表現を一度否定してみる、それでもなお滲み出る自己…

そこに個の作品が在るのでしょう。

今回の作品はコンセプトに言いつくされていて

付け加えるとすれば、実作品が観者にどうみえたか、だと思うが

コンセプトからの乖離を、かぎりなく縮めて可視化しえており、美しい。

作品は気息し、極微から極大の世界を取りこめている。

また、これまでの作品にくらべて、動的要素が増し

観る側に作品感受の余裕をもたらしているように思われる。

 

(新井九紀子|ことばの世界を図像世界化する墨画家)

 

 

 

畑さんの作品のような空間を歩きながら…

あの世界(観)に揺さぶられながら身を任せたら

どんなかな…

と作品を観てから考えていた。

 

(トヨダヒトシ|スライドショーのアーティスト)

 

 

 

 

 

*1 ―― 詳細については、2013年11月16日付の掲載文

「世界の連想 | 畑龍徳作品 - 存在性希薄化のアート – 」

をご覧ください。
写真:筆者撮影

 

生き物オブジェ | 多肉植物と白磁鉢のデザイン

美 ○ 創造

 

 

 

 

 

 

いかにもみずみずしい多肉植物に出会ったのが

そもそもの ことのはじまりである …

 

 

最近は まちでよく多肉植物をみかけるが

しかし 「これは」 というものには なかなか出会わない …

それが 昨年の春(2014)のこと

隅田川を見晴らす木造家屋の二階の物干し台に

多肉植物が展示されているのにでくわし

その多肉植物たちがいずれも 〈命の光〉 を発しているかのように

いかにもみずみずしい姿をしているのにすぐに気づいた …

 

そして 房状の多肉葉を赤く染めている株立ちの一鉢 (乙女心) に

目がとまった …

色合いの美しさとリズミカルな全体の姿とが

なんともいえずいい感じで すっかりほれこんでしまった …

 

で その場で ふとイメージがわいたのである …

この多肉植物のために円筒形のシンプルな白鉢を用意して

自分のアトリエにオブジェのようなかたちで飾ってみたら …

 

 

その元気な多肉植物を育てているのは 高橋なつみさん という人

であった。 

とりあえず気にいった 〈乙女心〉 の一株を取っておいていただくよう

高橋さんにつたえ その一株をいちおう想定しながら鉢の図面を描いた。

その図面にもとづいて 平松祐子さん という白磁の作家に

実際の鉢を作っていただくことになった (*)

氏の生みだすシンプルな三次元曲面はとても美しく

その感覚に信頼をおいての 筆者にとっては

とてもぜいたくなコラボになった。

 

 

多肉植物という生命体の有機的なフォルムと

そのフォルムを映えさせる 「それ自体はデザインを強く主張しない

シンプルな幾何学的形態」 の組み合わせ――

そこでは とくに鉢自体のプロポーションを重視しており

その自立したプロポーションに対して、多肉植物のサイズの大小や

多様な形姿に応じて、それなりに、植物と鉢とが一体となって

独自のバランス美を生成してくれる。

 

また、平松さんに作っていただいた鉢の厚みはきわめて薄く

多肉植物をななめ上方からみたときの 「鉢のエッジの丸いライン」 が

きりっとかろやかで 美しい!

 

 

結局 四つの白磁鉢に、筆者が希望した品種を高橋さんが植えこんで

くれて今年の梅雨入りのころにそれを届けてくれた。

そのときはじめて目にした 鉢上に展開する多肉植物それぞれの姿に

格別の感動をおぼえたのをわすれることができない …

 

ここに掲載した写真は その中の 〈福娘〉 という品種である。

 

 

 

 

写真:筆者撮影

*佐藤省さん(ギャラリー悠玄)に間を橋渡ししていただいた。

ここに記して感謝の気持ちを表します。

 

ペーパーによる顔の造形 | 二ノ宮裕子作品

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

 

〈省略〉 の抽象表現――

 

 

その典型的なもののひとつとしてクロッキーがおもいうかぶが

それは、描く素材としての対象がまず存在し

その本質的に不可欠なエッジあるいは境界のラインなどを

二次元性の紙の上に描く…

 

つまり、三次元的対象の複雑性の中に本質的な要素をとらえ

〈省略〉 をおこなうことの中に かえって 〈表現体強度〉 を実現する

「眼と手による協動行為」 である。

そこでは、描き手のフリーハンドの線の生命力が決定的な意味をもち

そして、モデルという実在の本質を 描き手の内面の眼で観ること

が前提された 対話的な創造行為 である。

 

 

ここでもし、手で 〈描く〉  ことをせずに

白紙に切り込みを入れてレベル差をつくったり、カットした紙片を合成する

などして、そこに生成する 〈光の陰影〉 のみで表現体をつくること

を考えてみたら どういうことになるか…

 

それは、現前の対象を 〈描く〉 のではなく

内面のイメージとの響きあいをとおしてチェックされてゆく

 〈構築〉 になるであろう。

 

 

 

 

先日 用事で立ちよったギャラリーで

彫刻家/デザイナーの 二ノ宮裕子 (hiroko ninomiya) さんが

展覧会のために作品を搬入されているところに遭遇した。

 

白い紙を用いた半立体の切紙作品の展覧会で、メインの展示は

企業機関誌の表紙のデザインのために20年にわたって制作してきた

「さまざまな幾何学的形体」 で構成された作品群で

あらかじめ写真に撮られるプロセスを想定してのデザイン作品であるが

さまざまな形の複雑な交響性が 〈ゆらぎ〉 になっていて

たのしい雰囲気の作品たちであった。

 

 

その氏の作品が

作品に当てられる光の角度がすこしでも変わると

表情が劇的に変わる…

紙の切り込みラインの両側の面のごくわずかなギャップが

こんなに!―― とおもわせるほどのくっきりとした陰影を

浮きあがらせている…

 

 

まさに 均質なまっ白な紙の面上における

「光の 〈まっすぐな性質〉 と 〈どこまでもなめらかなグラデーション〉 」

が生かされた それこそ シンプルにして繊細な作品たちであった。

 

 

 

 

 

ところでメインの展示とは別に、ひとの顔の作品があって

(→写真)   惹かれるものがあった…

 

 

表現効果が 描きながらその場で確認できるクロッキーなどとはことなり

制作している段階ではその見え方があるていどは想像できるものの

本当のところはライティング条件を設定するまでは予想がつかない

という 「向こうからくる豊かさ」 を秘めた作品である。

 

 

表現体の物質的マチエールではなく、平滑面の光の反射と陰影

によって浮きあがる この 「光を刻むアート」 は

表現体をクローズアップしてゆくときに 〈ディテールの味〉 が現れる

ことで作品が力をもつ通常の美的表現体とはことなっていて

作品に近づいてみても、光像を生成する単純な仕組みが

わかるだけである。

この作品は、ほどよい距離から眺めることで

その 「 〈繊細なシャープさ〉 と 〈溶融したような滑らかさ〉 とが

ミックスされた独特の美しさ」 を 味わうことができる。

 

 

カッターやハサミで紙を加工してゆく…

あるいは

その構成の見え方が

当てられる光の角度や質によって左右されてしまう…

 

通常のフリーハンド作品にくらべると

一見 不自由にみえる制作上のそうした制約が

かえって 表現体の 「予想外な抽象効果」 を

まねきよせているように思う…

 

 

 

二ノ宮の人体頭部の抽象は

 

日常視のじっさいの人体のイメージが 背景にダブることで

 

立体物が 紙の切片に置き換えられるという

 

 「大胆な造形」 が映えていて

 

また 反射する光が 人間の内面からの発光のようにもイメージされ

 

創造のための作為の集積志向とは逆の 「きわめてシンプルな構成」 の中に

 

透明感をたたえつつ 「抽象ならではのエニグマのゆらぎ」 を体現していて

 

しばし 時がすぎるのをわすれさせてくれた…

 

 

 

 

写真:筆者撮影

 

空間性の詩的陰翳 | 田尻幸子作品

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これまで、空間性に着目した大小のオブジェ作品を発表してきた

田尻幸子さんの近作をみる機会があった。

 

かちっと整序されていないたたずまいの

やわらかみのあるギャラリーの空間に包まれて

その中央に、木製のさまざまな矩形フレームを丁番で結合したり

あるいは 独立にあつかったりして構成した作品を配置し

ギャラリーの壁面や低めの天井の凹凸などの空間的特質と呼応させて

 「 〈明快さ〉 と 〈微妙なテイストを息づかせる複雑性〉 とが混成した

不思議な魅力の作品空間 」 を仕立てあげていた…

 

それは、なんということのない簡単な仕組みの構成体ではあるが

しかし、ジワッとくるなんともいえぬ味わいが漂っていて

作品のまわりを移動してゆくと

それにつれて、個物的存在としてのいわゆる一般的な立体アートでは味わえない

「 空間性にもとづいて立ち現れるさまざまな妙味 」 が明滅する…

 

 

木製フレームの中は、透明シートを仕込むことなどはいっさいしていない

ただ抜けているだけの単純なつくりなのだが

手前のフレーム越しにむこうを見ると

むこうが なにか透明な液体の中にあるように 微妙にゆらいでいる…

あるいは、鏡像のように感じられる瞬間もある…
 

 

このゆたかな錯視は

幾何学的に単純に構成されたジャングルジムのようなものでは筆者は

経験したことのない現象なので

照度が落とされた空間におかれた 「 アート的にゆらぎをもって構成された全体 」

の中にある 〈フレーム越しの透視〉 がもたらす独自の現象なのではないかとも思う。

 

こうした錯視をふくめて、田尻作品は

そのまわりを移動する者の視界に

重なりあうフレームの実体と透視のからみあいの変化を

影の像の妙ともどもたのしませてくれて

観者を自然に作品とのたわむれにさそってくれるあたたかな親和性を体現していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パッと見では、あるいは建築現場の軸組を連想するひとがいるかもしれないが

それは、皮相的な連想というもので

田尻作品は、矩形という卑近な形状にともなう原初的連想を

観者の主として意識下で共鳴させながら

特別感のない表情のさまざまな比率の木製フレームを

あくまでも普段着のようにゆるく構成することによって

「 透けて 〈開放〉 された矩形フレームの 〈閉じた〉 整 」 と

「 重力に力学的にしたがう 〈安定感〉 の垂直構成の接合の

上方にむけて 〈あやうさ〉 をともなって開放される造形 」 という

いずれも矛盾性を内包するイメージの 〈共生〉 をやってのけていて

事前の入念なエスキースという予定調和の確かさを忘れさせるさりげなさの中に

構成風景のかろやかな変化の妙を実現している。

 

だから、構成が、端正さを有しつつも、それは

力学的に考えられた合理的構成などとは似て非なるものであって

観者の移動にともなって、相矛盾する視覚イメージ性を 観者の内奥で

微妙に多重融合・変化させて響かせる

いわば 〈詩的な陰翳交錯装置〉 になっている。

 

 

 

 

 

 

筆者は、カメラのモニター画面を見ながら作品のまわりをゆっくり移動して

さまざまな角度から作品をフレーミングすることもしてみたが

たしかに写真では、フレーミングの構図はたのしめるものの

そこでは田尻作品の微妙な空間性のゆたかさは、まったく失われてしまう。

リアルワールドは、もともと、そのなまの味わいを

写真に置換することは不可能であるが

田尻作品の微妙なテイストは、とりわけそのことを強く感じさせるところがあった。

 

 

思考のプロセスに男性型の垂直思考と女性型の斜めの思考というのがあるが

田尻作品のダイナミックな構築性は

単純な合理的構築や 男性型のある意味きっちりとおさめる志向の構築とはことなる

どこか日常性の温度感をもつ 〈きばらない構築世界〉 の

ゆたかさと 自然さと 親和性とを

体現しているように感じた。

 

 

 

写真:筆者撮影

*この展覧会は 2015.6.1-6.6  ギャラリー悠玄(東京銀座)で開催された。

 

息づく図像… あたたかい静寂… | 周豪作品展

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

先月 銀座のギャラリーで その場を去りがたい

気持ちにさせるすてきな展覧会があった。

 

周豪さんの油彩の作品展で

一見とても単純な抽象的図像が描かれた画面が

しずかに息づいて

こちらが気づかないうちに 自分の内面が

まったく自然に 作品と同期してしまっている …

 
 

なんと表現したらよいのか …

 

視覚の常識がくつがえされたような

単純図像ゆえに成しえたと思われる

深く そして あたたかい 〈 静寂の気 〉 に

作品全体が包まれていた …
 

 

 

かのマーク・ロスコは 非常にデリケートな色面によって

美しく深い抽象世界を作ってみせたが

単純な図像による絵画の場合は

人間の意識内における 〈 識別の限定性強度 〉 という特性が

からんできて  単純図像 = すぐに了解されて 妙味がない

ということに帰結してしまいがちである。

 

そもそも表現というものは 新鮮さとか おもしろさとか …

観者の内面に 〈 脈絡宇宙 〉 として存在しているであろう

複雑な背景に対して それに傾斜を生起させる

なんらかの効果ある 〈 異化作用 〉 を及ぼすものでなければ

感動をもたらすことはできない。

 

記号とか模様に利用されている単純図像は

識別されやすく 親しみやすい面があるが

しかし 陳腐 …

 

だから 単純図像を抽象絵画に用いることはむずかしい面がある。

 

 

 

ところが 周の場合は

 

単純図像が

 

 「 こんなにも自然に こちらの眼を釘づけにしてしまうものか … 」

 

と かえって不思議な感じにさせられてしまう …

 

 

 

これはどうしたことか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

周の図像は 単純ではあるが 単純ではない!

 

 

自己の感覚だけをたよりに 〈 形の探索 〉 をくりかえして

これでもかという淘汰をへた結果 見出された

きわめてデリケートな 〈 細部特質 〉 を有する形は

周の 詩人としての内面宇宙が

〈 世界の感受として滲みださせる根源形 〉 であり

それは 見ようによっては

どこかで見たような形のイメージとも重なるが

しかし 実際は 「全体単純性の中の細部複雑性 」 ともいうべき

画面の妙味に 瞬時に こちらの内面が融解同化してしまい

そこに 陳腐という印象が 入りこむ余地はない。

 

 

ここが大切なところなのだが

 

周の図像は 図像自体を 直接描こうとはしていない!

 

背景に対して屹立した図像ではなく

絵の背景を少しずつ描きすすめる中から 〈 湧現してくる図像 〉 である。

だから そもそも通常の 「 図と地の関係 」 が 意図的に避けられていて

 

図像は 全体の 〈 気 〉 の中に 揺らいでいる …

 

 

画面に絵具を食い込ませるような気持ちで少しずつ描き進められるプロセスは

それこそ 気が遠くなるような作業であるが

他者からみれば あるいは愚直にもみえるそのプロセスこそが

周の無意識的内面宇宙と 表現体のありようとを

おのずと 融解同化させている魔法の独自描法なのではないか …

 

そして その描法が

しらずうちに 瞬時に 精度指向視覚から観者を引き離し

現実世界の三次元性リアリティとは距離のある

〈 平面ならではの抽象の力 〉 を発揮させて

画面と同期した観者の内面の運動を

一気に深層へとしずめてゆく …

 

 

  そこにあるのは

  絵画の 〈 観者に対する純化された作用 〉 で

  メタフォリカルなイメージを寄せつけるような甘さのない

  図像単独と 観者内面との

  ダイレクトな融解同化…

 

 

 

だから 周のタブローは 〈 決まったテーマ 〉 を描いているわけではない。

 

作家と 観者と が

 

ともに

 

宇宙的スケールの 〈 命のプロセス 〉 に 美的融然とする

 

―― そういう 〈 契機としての表現 〉 といえるのではないか …

 

 

 

 

 

                             

 

 

全体から細部にいたるまで すべてが

とことん周の感覚で密度高く包まれた世界 …

 

絵相互の配置関係や 作品とギャラリー空間との呼応関係 にいたるまで

その統御は徹底されている …

 

がしかし 作家の感覚による統御の痕跡を微塵も感じさせることはなく

〈 内面宇宙 〉 の無限の広がりの中に誘いこまれた自分が

あたたかく おおらかな響きの妙に ただ浸っているだけ …

 

 

 

 

「 暗闇の中でも その絵の気配が感じられるような そんな絵を描きたい … 」

 

 

会場で周が語っていたことばである。

 

 

 

 

写真:筆者撮影

*4枚目の写真は周豪氏撮影による

 

格好をつけた 〈 整 〉 と 平凡な 〈 不整 〉 | 畑龍徳作品           Sharp Figuration / Crushing

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

                                           

 

99%の繊細さと

1%の大胆さにより

均衡を保っている宇宙

 

「 いまここ 」 

を生きる実感から導かれた

最小限で最大限の要素

 

清潔な布で

磨きあげられ浄められた

たったひとつの細胞空間

 

または浄化装置

 

そしてそれは

光と風を導き

やわらかく繋がるための

ひらかれた心の宇宙 …

 

 
 評 : 甲斐瞳 artist

 

 

―――――――――――――――――――

 

 

 

 

格好をつけた 〈 整 〉 と 平凡な 〈 不整 〉

Sharp Figuration / Crushing

 

というタイトルの小品を Message2014 という

毎年年末に開かれる展覧会 に今年も出品した。

 

 

作品構成に参加させる要素を縮減、シンプル化させた世界で

形態と空間の相互作用のバランス点を 〈 鋭敏化 〉 して

自己の 〈 内面宇宙 〉 にひそむ  「 美意識の性状 」 を

あぶり出してゆく …

 

逆にいえば 表現体の 〈 複雑性の妙 〉 や 〈 パッと見強度 〉 に

無意識的に 依存してしまうことを あえて避ける …

つまり 〈 美の法則 〉 の中にいながらも 

 「 美への 〈 可能性の豊穣 〉 」 に あえて浸からない

―― そういうプロセスによる 「 内面世界のあぶり出し 」 …

 

 

 

こういう趣旨で  ―― 素材は すべて 〈 純白の紙 〉  を使用 ――

 

〈 不整 〉 の部分要素は 特殊な白色紙を折り紙程度の大きさに切り

「 意図を働かせず 」 に手でクラッシュし その一個目と二個目を

あえて使用して 〈 選別 〉 のプロセスを介在させていない。

ただし クラッシュしたときの球状のサイズだけは

〈 整 〉 の部分要素である 〈 カベとのバランス 〉 がとれるように

大雑把ではあるが 配慮した。

クラッシュした紙の 〈 襞の部分 〉 に なぜか ほのかに

クリーム色のグラデーションが現われたのを発見したとき …

 これだ! と思った。 まさに 向こうからのプレゼント …

 

 

 

人の 〈 内面宇宙 〉 …

 

それは 人それぞれの人生経験をへて

はかり知れない複雑さと

不確定性を内包する 〈 脈絡 〉 を

形成しているはずだ。

その無意識世界は

直接的には とらえることができない …

 

でも 作品を制作するプロセスの各局面局面で

意識的に ある判断を  「 直観的に 」 するときに

それはイコール

〈 内的脈絡 〉 の いつわらざるアクションである。

 

 

 

そうして結果した作品は 〈 不整 〉 を含めて美的である ――

 という世界内にとどまりつつ、つまり 〈 美的 〉 という 〈 整 〉 に

包含されつつ

部分要素としての 〈 不整 〉 が、部分要素としての 〈 整 〉 との

対比の中で、平凡どころか かえって特色を主張しだした …

 

〈 不整 〉 がもつところの 〈 ゆらぎ 〉 …

 

 

 

 

 

自己の 「 内面世界のあぶり出し 」 という

自己中心の制作過程は

当然 他者の眼は 無関係であるが

100人以上の作家が参加する企画展へ出品する

という動機を自己に課して 制作をし

そして 自分自身が納得すれば

 「 結果として 」 作品を展覧会に出す ――

 

そうして 作品が衆目にさらされる …

 

 

 

来廊者の作品に対する印象などが ことばとして

ぼくの耳にとどくことは 通常きわめて限られているのだが

とくに今回は 前にのべた作品の性質上

他者の反応は 期待していなかった。

 

 

しかし 作品搬入のときに イラストレーターの小渕ももさんが

まだセッティングされる前の横っちょに置かれていたこの作品に

気づき シンプルな作品性に 真っ先に反応してくれた …

 

ぼくは 作品を構成してゆくときに

作品サイズがどんなに小さくても 物質を配置するごとに生成変化

してゆく 〈 空間性 〉 を見つめている。

だから 小渕さんの反応は 氏の眼が空間的であることを暗示して

いるのではないか … とぼくに想像させるところがあった。

 

 

 

ぼくの作品をみに 知りあいがわざわざ会場に足を運んでくれる

ということは ほんとうにありがたいことだと思っている。

そして 作品をめぐって来廊者と直接話をする機会があったり

感想メールがとどいたりすれば 自分は いわば作品を介した

〈 スペシャルな会話 〉 を楽しませてもらっていることになる …

一人歩きをはじめた自分の作品が 鏡のようになって こんどは

 ふつうの会話では 「 決して出現することはない角度 」 から

他者を 眺めさせてもらっている …

 

 

 「 白い小さな空間の中に、〈 不整な形 〉 の存在感の大きさに

驚いた。 光と影、白の持つ特性、相対するもの、が新鮮で

まるで宇宙を見るかのよう …

洗練された 何気ない シンプルな美しさ … 」

(岩崎恵美 singer)

 

 

「 光の差し込むシャープな影が キリコのよう …

薔薇の花のような 丸いクシャクシャしたオブジェが

大きなアジサイのようにも見え 色を様々に 想像できる … 」

(杉田茂樹 editor)

 

 

「 〈 要素の関係性 〉 の 苦悩など寄せつけぬ 強い存在感 …

風の通る道筋を思い … 光があやなす影の深さと匂い

に寄りそわれた 〈 空間を切る境界 〉 への認識 …

思わず じっと佇ませてくれる …

小さいがゆえの 凝縮された宇宙 …

光讃え 知的な陰影を放つオブジェ … 」

(佐藤省 artist/poet/art director)

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

心の花 の造形 | 秦碧の染花

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

生の花と 上質な絹を用いて丹精込めてつくられた花とでは

そこに違いがあるのは当然であるが

しかし 生の花にできるだけ似せる――という いわゆる造花とは

似て非なる  「人の手になるものならではの 〈 花の造形 〉」

というものがある。

 

 

このたび銀座で秦碧さんが染花・陶・書の個展を開かれた。

そこに展示されていた染花は まさにそういう

 「作家の心を描いた花」 であった。

 

これまでの創作活動の集大成的な展覧会であった

と氏は語る。

 

 

 

展覧会場のいちばん奥に

ほとんどモノトーンに近い しかし色調のほのかな綾がじつにみごとな

花弁の先端が繊細にわれて 空間にとけいる大輪のチューリップが

頭おもたげに長い茎をしならせてムーヴメントをえがき

そこは 〈 抑制されたゴージャスさ 〉 ともいうべき空気に

包まれていた …

 

ポイント的にオフホワイトの花が配され

全体が黒チューリップの群で構成された世界は

いわば 〈 鷹揚な立体絵画 〉 …

 

ほのかに息づく陰影が 深い静寂の中にある …

 

 

 

自然界にある花は それぞれに個性があり 美しい。

だれもが その美しさになごまされる。

向こうから うるさく話しかけられることなく

その存在がたとえあざやかであっても

あくまでも ひかえめな位置にいる …

 

人間にとって

根源的なところで

いつまでも

ともに いてくれる存在 …

そして

ともに いてほしい存在 …

 

 

そういう人間の花に対する印象を背景にして

 〈 自分自身の花の造形 〉 が

おのずと生まれてくる。

 
植物の品種改良によって無数の花が生みだされているが

そういう生命体としての花の新種というのとはちがう

 

 

一個の人生が生みだす

 

一個の感性宇宙が生みだす

 

〈 詩 〉 としての花!
 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

身体性と渚の眺望 | 藤井龍徳の作品 – 潮の宿 -

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

午後の傾いた陽光を反射するしずかな入江の水平面に

ウィンドサーフィンの三角帆が夏をおしむように

互いをうまくかわしながら

かなりの密度の中で滑走している…

 

 

海沿いの国道をしばらくゆくと

右手の一段高くなった擁壁上のへんてつもないフェンス越しに

木造の片流れの小屋が 目にはいった。

「ああ、これだな… でも どうして こんな場所に?」

という印象が まず頭をよぎる…

 

 

この角材を並べた透き壁の一見して普通の小屋は

藤井龍徳さんが 逗子アートフェスティバル 2014 (9/20-10/12) で

手作りした作品だ。

 

 

藤井は 主催者が指定するサイトではなく 自分で歩いてこの場所に

出会い インスピレーションが動いた。

 

 

 

 

 

 

 

このつつましいたたずまいの小屋は その外観を見せることが

主眼ではない。
 

 

かつての防風林のなごりと思われるうねった松が入り口の直前に生え

小屋との隙間に靴をぬいで 身をかがめながら限界寸法の狭い階段を

数段あがると左手に 坐った状態でちょうどよい寸法の

板張りの空間があり 右側が海に向かって横長に開かれている。

 

 

壁に寄りかかり脚をのばせば

なにか 〈包安的〉 ともいえる身体感覚の中で

気持ちのよい海の風景と

相対することができる…

 

眺望のための開口は 浜辺と海がちょうどよい具合にフレーミング

されていて 直近のフェンスとか 浜とこちら側の間を走る国道の車は

目に入らない。

 

 

藤井の今回の手作り小屋は

所詮 〈部分的視野の総体〉 でしかありえない経済・利便性追求まっしぐら

の現代社会に対する 〈創造的営為としてのエレジー〉 になっている。

 

前面を国道、背後をまとまった収容台数の駐車場 によってはさまれた

小屋が建つ場所は、さながら車のための空間に包囲された孤島のような

高所であり、藤井はそこに

だれでもが立ち寄ることができる 「海景美への視覚的通路」 を創出した…

しかも そこに入った人に

 「風を受けながら 〈包安的ともいうべき身体感覚〉 を付与しつつ

〈視覚の脈絡宇宙〉 の深みへ」   という大きさの中で…

 

 

 

 

 

 

 

一人で海を眺めるもよし…

でも、話が相通じる他者との会話には

これ以上ぜいたくな空間はないのでは…

と並んで坐った藤井と話しながらぼくは思った…

 
時々刻々と美しい変化をみせる静かな海の夕焼け空を

ときどきカメラのシャッターを押しながら ゆっくりと眺めいった…

その解放された 無心の時間…

 

 

表現体のアピール性を主眼にした一般のアートとは一線を画して

そのひかえめな外観の眺望小屋には

人の内面を 身体性をふくめて ゆたかな脈絡宇宙へと

知らぬ間に導いてしまう ―― そういう仕組みを創出した藤井の

やわらかな純心と 感性のデリカシーとを

そこここに それとなく感じさせるところがあった…

 

 

 

 

写真:筆者撮影

*逗子アートフェスティバル 2014 → http://www.zushi-artsite.com/

 

 

蛍の光跡

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

丹沢山麓の串川で、数日前に初蛍がでたという先月下旬、湿気に

包まれた夕暮れ時の樹林の中にふっと湧くようにあらわれる数少ない

源氏蛍の光跡を、じっと眼で追った…

 

甲虫のぎこちない飛行は、昼間見たのではあたりまえの単なる飛行

であるが、それが、光のラインとして現れると、時間の次元がずれて

しまったのか… と思わせるようなその 〈遅速〉 の、じつにやわらかに

予想をうらぎって小さくそして大胆に変化する光跡は、なんとも表現

しがたい妙なる趣のもの… と深く感動してしまった。

 

この感動は、数少ない蛍を眼で追ったからこそ、見えた世界…

蛍の群舞ばかりを求めていては、出会えない世界…

 

小学生の頃、友人が蛍を見せてくれたことがあり、そのときはじめて

蛍の姿を目の当たりにして、なんだ、これが蛍か… と、なんか味気

なさを感じた記憶がある…

 

知らないほうがいいことがこの世界には、ある。

知ってしまうと、初々しい感受のよろこびが二度と体験できない――

そういう、先行して得た知識のネガティブな面が、ある。

そんなことも考えさせられた蛍の宴であった。

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

原寸世界の〈あたりまえ化〉 を破って生成する 視覚詩        相澤秀人作品

美 ○ 会う

 

作家の相澤秀人さんから電話があり、いつもの控えめな調子で

時間があったら作品を見てください … と。

3日間の共同展で、その展覧会のタイトルは、

―― Lost Modern Girls ――

 

( 昔から、自立する女性、強い女性を応援したいと思ってきた筆者

としては、この展覧会のタイトルが発する響きに、

ただ単純に反応してしまう … )

 

この展覧会は四谷アート・ステュディウムの企画で、詩を読んで

それを視覚作品にするというもので、有志の作品が会場に並ぶ。

 

 

 

相澤の作品は、清岡卓行の 「デパートの中の散歩」

( 清岡40才のときの詩集 「日常」 1962 ) に呼応したものだが、

この詩を選んでいること自体が、相澤の創作世界がもつ現生性

を表していて、また同時に、この企画のタイトルとは判然とした

脈絡をもたないようでいて何か響きあっているようなところがあり

面白い。

つまり、詩の選び方も、詩的だ。

 

相澤は、作品のタイトルもいいな … といつも思わされてきたのだが、

今回は、「必ずしも信じないあるときの」 というタイトルで、清岡の

詩の一行を用いて、作品自体を見たときの印象との間に

しゃれた 「響きのための半絶縁距離」 をもたせている。

 

 

 

鮮やかに浮きあがる赤茶色の ラグビーボール …

     

ちっちゃな キリン …

 

そして、いつのまにか若者を中心に日常風景になってしまった

深いモスグリーンの ハット

 

 

 

一見、相互に脈絡なきものたち がかもす 《響き》 …

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこには、当たり前化している日常の 《原寸世界の視覚》 を

「(無意識世界が支えている) 感受性の基盤」 としつつ、

異質な作品構成要素相互の 「形態的共鳴性」 を考えつつ

それらのアイテムが 「〈本来居るべき場所性〉 の消去」 や

生き物の 「物質的ミニチュア化」 といった

決して突出をねらわないひそやかな 《異化》 を働かせる …

かつ、作品構成要素間の空間的な相互配置に

細心の直感的・野性的ジャンプの創造力をさりげなく効かせて、

じわっと響いてくる しゃれた造形詩 をつくっている …

 

 

街路に直接面したギャラリーの入り口の大きな引き戸を開けると

すぐそこに相澤の作品があって、ラグビーボールの鮮やかな色が

すぐに目にとまった。

この、何というか、構えのない、風をかもすような軽やかな展示の形

にも、さりげない 詩的な心 を感じた …

 

 

今回の作品は、それに関連するすべての特性が協働して、

おおげさではない、日常性につながった 「今 この時」 の詩的香りを

うたっていた。

 

それにしても、作品の原寸世界がかもすリアリティの強度は、

写真にするとこんなにも失われてしまうのだ ということを

今回も ただただ痛感するばかりである。

 

 

 

写真:筆者撮影

 

美しい 時間の形象 | 五十嵐美智子 個展

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

 

紙の原料であるコウゾ (楮) の繊維を水に拡散させたものは

紙料 (しりょう) といわれ、これを漉いて和紙は作られる。

長年の和紙漉きの経験をもつアーティストが、この紙料を

用いて とてもユニークな表現世界を見せてくれた。

先頃 銀座で個展を開いていた五十嵐美智子さんがその人だ。

 

 

作品は、楮の繊維が凝結した円形平面状のものと

線状に撚られたものとのふたつの要素から構成されている。

いずれも、作家が膨大な時間をかけて 自らの手で

生み出したものだ。

 

 

不可逆的に過ぎ去っていく時間は、光陰矢の如しの譬えに

みられるように一筋の線のようなイメージをもつ。

そういう物理的時間の流れの中にあって、一方で、人は

人生という限られた時間の中で、さまざまな出会いをもち、

 「(ときに時間を忘れてしまうような)人生の輝き」 を

体験してゆく…

そんな、人生のせつなくもいとしい時間の有りようが、

「一連なりの撚られた楮のライン」 に込められていて、

美しい紡錘形の螺旋は 人生の途上の 「ゆたかな

ふくらみの時間」 を形象化しようとしたものだ… 

作家は、「言葉では表現がむずかしいのですが…」 と

前置きして そのような意味合いのことを語ってくれた。

 

 

 

 

 

 

 

透明の薄いアクリル板で支持された楮の紡錘形は、

光の加減と見る角度で、表情がとてもデリケートな変化を

見せて、美しい。

 
連続する面で構成された通常のオブジェとは異なり、

くっきりとした螺旋ラインで 紡錘状の輪郭をやわらかく想定させる

「透けの形」 は、その内側に抱える空間性を 消/現 のはざまに

ゆらがせ、ほのかな光の空気感を漂わせながら、

楮のスパイラルラインが 独自の陰影のグラデーションを

しずかにうたっていた。

 

 

 

 

 

 

 

かそけき空間性を抱くこのような作品を生みだすような

人であれば、それを作品がのぞむよりよい空気感の空間の

中に展示してみたい… と思うのは当然のことであろう。

自作に居心地のよい居場所を与えて、作家自らがその作品の

響きを堪能する――

そういう意味合いも強く感じさせる 「アートする情熱」 がこちらにも

伝わってくるような密度の高い展覧会であった。

作家は、小さいときから 「紙」 がとにかく好きだったそうだ。

そして、20年ほど前に阿波の楮和紙漉きに出会う…

作家の作品づくりの人生の中の 「今」 が、

ちょうど今回の作品の紡錘形のふくらみの時間に

重なって見える…

 

 

 

―――――――――――――――――――――――

 

五十嵐美智子 ― みず の きおく ―

2013.12.2(月)~12.7(土) 11:00~19:00

ギャラリー悠玄 東京都中央区銀座6-3-17 悠玄ビル

TEL 03-3572-2526

泰明小学校前のカフェ脇の泰明通りを入ってすぐ左側

 

―――――――――――――――――――――――

 

 

 

写真:筆者撮影

 

(131208 展覧会の会期と関連する記述を書きかえた)

世界の連想 | 畑龍徳作品 ‐ 存在性希薄化のアート ‐

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銀座のギャラリー悠玄で 「Message100 おしゃべりなArt展」 という

展覧会が毎年1回開かれていて、今年(2013年)も11月11日~23日

の2週間にわたって開催された。

同展では百人の作家たちがさまざまな関心の位置で作品を作って

いて、それぞれの個性を楽しめる 中味の濃い展覧会になっている。

この展覧会では、人間世界の 「多様性原理」 のことを毎回考えさせ

られてきたのだが、今回あらためて こんなことが頭に浮かんだ…

 

 

人はいつも自分自身のことを考えているけれども、でもこの世界には

自分とは異なるものをもった他者がいて 直接に間接に交流できる

からこそ 楽しい…

自分のことは自分が一番よくわかっている ―― これは真実であるが、

でも自分の良いところの多くは自分には見えず、他者こそがそれを

エンジョイしてくれる ということも真実。

おかしなことである。 自分のことばかりに意識が向かい過ぎていると

このことに気づかないで、ついつい傲慢になり、他者からはよ~く見える

その人の品格や美学のありようが すっかり萎縮してしまっていたり、

あるいは逆に、自分には良いところがひとつもない などと自暴自棄に

おちいってしまったりするかもしれない。

 

男女のことを考えればわかりやすいが、米国生活が長い日本人

女性が 「女と男は、まったく違う生き物よ!」 と語ったことがあり、

わたしはその時ハッとさせられたのだが、肉体的なことはともかく、

男女の内面の違いは それはそれは大きく…

でもそれは、《 対(つい)の世界の共鳴的深さ 》 へとつながる可能性を

秘めた違いである、ということ。
 

 

 

さて、わたしは、今回とても繊細な素材を用いた表現を試み、素材の

希薄化された存在感の中に立ち上がってくるものを求めて作品を制作し、

それを Message100展 に出した。

 

素材は、特別なものではない ごく身近なものなのだが、その素材が本来

もっている力学的特性を見つめ、そこから生まれる独自のシェイプを

メタファにして 「人間世界が生きていられる三つの次元」 を表現してみた。

 

 

 

 

 

 

素   材 :  トレーシングペーパー(t=02mm) 糸状針金(Φ0.23mm) 

         虫ピン(Φ0.5mm)

          ケント紙貼りイラストボード/台紙 

         スチレンボード/台形ベース

 

 

コンセプト :

 

長方形の白い紙を限定世界として、そこに3種類のデリケートな物質が

配置されてゆく…

トレーシングペーパーは、たわませると2次元性から3次元性へと変化し、

その弾性を固定するためにはベースにはいつくばせる必要がある。 

半透明な紙には、画面構成を大きく決定してしまう力がそなわり、そして

その陰影は実体の形と比べて、意外な様相を示す…

虫ピンは、剛直! 実体を1次元性から脱却させるためには相当の力を

強いなければならず、その陰影は、クリアな個別性の強さと、群の中の

リズムとを響かせる…

糸状の針金は、3次元中にそれこそ自由自在に形を展開してゆき、

雲のように浮遊を望む… 網目の陰影は、かそけさのグラデーション…

 

自由を求める個性的存在と 異質性を統御する全体中心化の存在と

不決定的な存在外宇宙と…

 

 

 

上の写真をご覧いただこう。

 

右側の抽象化された虫ピンたちが 「自由を求める個性的な存在としての

人」 を表していて、概して集まることを志向している現代の人間たちが

それこそ多様にそれぞれの位置で生きている。 

そこには、傾向を同じくする人たちの集合だとか 男女の結びつきだとか

いろいろあり…  こうして右側に、《 個の自由意思ベクトルの世界 》

ともいうべきものが抽象されている。

 

中央には 特殊なトレーシングペーパーの布置によって 「個性をもった

人間たちが 《 共に 》 生きてゆくための、主として不可視の存在である

 《 中心化の力 》 つまり 《 共通の仕組み 》 /その中で一番かたい存在が

 〈法律〉」 を、極限までシンプル化した形で表象している。

長方形の領域にバランスするように高さ2ミリまで縮減された曲線状の

トレーシングペーパーは、あえて正円弧にはしていない。 

自然なヘア―カーブともいうべきラインになっていて、

これは 「中心化の構造」 が硬直したものになっては駄目で、そうかといって

ふらふらしてもらっても困る。 そんなニュアンスを込めた形である。

 

以上のふたつが、この世界をつきつめてとらえたときの、

いわゆる 「存在」 である。

 

 

でも、人間世界が生きて存在してゆくためには、もうひとつの次元が

不可欠である。

それが左側に 髪の毛のように繊細なワイヤーで表現されていて、

われわれに、《 可能性 》 とか 《 ヒント 》 とかを思わぬかたちで付与して

くれる 「源泉としての宇宙」 ―― それである。

 

もともと人は、内面の認識世界では 「確定指向」 と 「不確定」 との間を

つねに曖昧性をかかえながら生きていて、また同時に、認識以前の

五感がまるごと脈絡する系としての感覚体験の中を生きている。

この宇宙の根底には 《 矛盾  》 が存在し、矛盾のない形での完全認識は

不可能であるのだが (ゲーデルの不完全性定理)、でも、生命という

これ以上ない不思議ですばらしい存在を生成するほどの宇宙の根底には、

記号論理を介した認識世界の一貫性とは別の何らかの 《 一貫性 》 が

厳として存在しているようにも思ってしまう。

この 「不決定的な、《 存在 》 の外の宇宙」 を、複数本ではないただ一本の

ワイヤーで表現してみた。

糸巻きに巻きつけられていたワイヤーは、一定の曲率で全体がカールして

いたが、巻きをほどくと、ゆるゆるとふくらんでゆく… 

そして、ちょっとでも無理な力を加えると なめらかな自然なカーブが壊れて

いってしまう。 

薄紙の風船でもあつかうように、ワイヤーをそっと手のひらの上でころがすように

形状の変化を引きだし、「素材のもつ力学的特性が生かされた 《 自ずの美 》 」

を体現していると思われたところで、交点を何ヶ所か接着剤で固定した。
 

 

作品は、このように、人間の三つの世界のメタファを 《 並置 》 して、

相互の響き合いとして表現されている。 

 

この 《 並置 》 という方法は、トレーシングペーパーと虫ピンとワイヤーを

同一領域の中で重合的に扱おうとすると、それらの間に 「視覚美における

相対的なバランス関係」 を発生してしまい、きわめて繊細な素材の

それぞれに、「繊細の中での、ある意味の視覚的強度」 をもたせたい

という条件との間に矛盾を生じてしまう ――

そういうことで着想されたものである。

 

 

色彩やマチエールの多様なゆたかさの世界にかかわることをあえて避け、

《 形のみ 》 で造形する。  しかも、その形の存在性を希薄化する。 

そこに立ち上がってくるデリケートな世界の響き…

 

 

 

 

 

 

 

希薄化された存在は、地平にどんな影を投影するのか? 

 

地べたに貼りついたヘアーカーブとアングル状の半透明な紙は、

濃い影を地平に落とすと同時に、光線の白い照り返しを

その影にダブらせる。 

ヘアーカーブの濃い影の方は、一見、白い地平に切り込まれた

溝のようにも見える…

一方、虫ピンと糸状ワイヤーの方は、地平にほのかな影しか投じない。

ところが、地平が白色なので、その白地を背景に素材の受照面の

反対側の蔭が、細くくっきりと浮かびあがる… 

そして、反射角度でちょうど眼に入る微細なハイライトを、

点々と息づかせる…

 

 

真っ白な台形ベースは、この作品の重要な要素である。 

ざわついた現実世界から繊細な造形世界へと観者の眼線を引きこみ、

感受性の態勢をデリケートな世界へとチューニングさせる――

そんな隠された機能をはたす装置になっている。

作品本体をよい状態で見せるという意味では3次元的な額と言えないこと

もないが、しかし、通常の額が、作品世界と外界との境界をつくる役割を

もたせられているのに対して、

台形ベースは、周囲の空間の中に作品世界を浮遊させ、現実世界との

間にほどよい距離を生みだしつつも、作品空間と周りの現実空間との間を

あいまい化して、観者の想像力の行き来を自由にしている。

 

 

 

「世界の連想」は、写真にはなりにくい作品である。

 

そのデリケートな静寂世界は、実物と静かに向かい合ってはじめて

体感できる複雑微妙なものだ。

ここに掲載した撮影方向が異なる2枚の全景写真は、肉眼で見た場合

の作品の見え方とはおおきくかけ離れたものになっている。

たとえば、ベースの形態の端正さを立たせる 「白さの映え」 はまったく

再現されていないし、肉眼では捉えられる線材の「硬質な か細さ」 も

とらえられていない。

 

 

 

 

本展を企画した佐藤省さん (ギャラリー悠玄チーフディレクター) が、

「世界の連想」 に対する評を送ってくれたので引用させていただく。  

わたしの作品が他者の眼にどういう波動を送ったのか… 

とても興味をもたされた評である。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

― 存在に内在する時間が水平に流れる 〈ざわめく静寂世界〉 ―

 

 

細いドローイングの線が空を切るように、

シャープにループする針金が発する光は、金属音の微妙な響きを

ともなって静寂を波立たせる。

静寂が形を得るとしたら、こんな形になるのかもしれない!

とさえ思わせる。

虫ピンの群れは、様々な関係性を際立たせ、

白い平地に落ちる影は、逆に光とは何か、静寂とは何か、

と問いかけてくる。

見えているからこそ、その深い影の間隙から  「見えない音」 が

聞こえてくるようだ…

ミリ単位のトレーシングペーパーのカーブも、しっかりと場を分割し、

微かな影を吐き出してはいるが、

肉眼でもその境はなかなか認識されない。

 

そんな物質たちによって構成された白い大地は、

巨大な中に仕掛けられた 「存在を消す装置」 のように、

見つめる網膜の奥にしか 本来の姿や色彩を結ばない。 

ごくわずかな選ばれた人にしか… 

 

このシンプルにして複雑性をもつ作品が、

なかなか一筋縄ではいかない性格を放っているところが面白い。

模型のようで そうではなく…

架空の王国が砂漠に出現したような…

 

 

あるはずの物質の重さが消え失せ、影が自立をうながされ、

そして、自立する影に内在する 「時間の影」 も消失させて…

ほとんど造形されていないように見せているその思索的な造形に

目を深く注げば、「見えていることの確信」 は揺らぐ。

 

虫ピンの狂ったリズム、

虫ピンが埋まり 崩壊してゆくバランス感覚の乱れ、

ループを描く細い針金が 頼りないが確実な旋律を踏んで、

それぞれの時間は、「未知」 へと吐かれている!

 

存在の輪郭を消失させるということは、

つまり 「何か」 へとイメージを飛躍させること。

作家の手により変容させられた物質たちが、

夢の一幕にサラサラと氷砂糖をふりかけると

地平に現れ出づる砂漠の蜃気楼のように 淡く 淡く…

余韻は深く 眩しく 輝いている。

 

そう簡単にその深さが何かを明かさない

崇高な鎮まり… 

そして永遠…

 

 
――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

佐藤さんの評を読むと、造形を導いた 「人間世界の三つの次元」 という

コンセプトとの関係はすっかり消えて、作品の造形面の特質が、現代美術

作家であり詩人でもある氏の好奇心と想像力とを動かしたようである。

 

 

 

 

【追記 131130】

 

「世界の連想」 の写真をご覧いただくと、糸状ワイヤーによる表現体は、

作品全体の領域の隅に寄せられた形で配置されており、そのすぐ横に

何も置かれていない空白領域を生みだしている。

展覧会最終日に来廊された甲斐瞳さん (現代美術作家) が、その空白

領域を 「空き地」 と呼んで おもしろい捉え方をしてくれたので、

その感想文をここに掲載させていただく。

 

 

あの作品の…

作家の内的宇宙は、いくら読み解いても終わりのない、多面的な 「今」

を含むものでした。

 

並列でありながら、あの分量配分の妙…

そして、あの 「空き地」 には… 何処まで意識を押し広げたとしても、

その果ての外側をほのめかす 「余」 の空白がありました。

そこは、閉じられていない解放感や、未知のものを許容する大らかな

精神まで感じられる 「場」 でもある と思いました。

 

 

 

 

Message100 おしゃべりなArt展 → 

http://www.gallery-yougen.com/cgi-bin/gallery-yougenHP/sitemaker.cgi?mode=page&page=page2&category=1

 

 

写真:筆者撮影

 

(131129 展覧会の会期と関連する記述を書きかえた)

風景の生命化 … | 藤井龍徳作品

美 ○ 思索

 

スコットランドから藤井龍徳さんが 氏のインスタレーションの写真を

送ってくれた。

 

 

 

 

 

 

深く沈んだ色調の写真が なんとも印象的だ。

 

繊細な皮膜のような透明感の空と、

フエルトのような柔らかな衣をまとって起伏する硬質な大地

との対比が、独特のテイストで迫ってくる …

 

私は、スコットランドには行ったことがないので、

風景の空気感と同化するような感じで、

初々しく写真の世界に入り込んだ …

 

美的なる世界への無心の共鳴 …

 

 

はじめに写真を見たときに 私をぐっとさせるその感動が、

氏による 「付加行為」 によってもたらされていることは確かだ …

風景に惚れこんで、氏が 〈造形的付加行為〉 にかりたてられる …

それは、「氏の魂による 自然風景の生命化」  …

 

 

 

氏のメールには、

 

日中の気温は15°前後、夜は寒い位で、

突然雨が降ったり晴れたりの繰り返しです。

冬の厳しい気候のためか

木々は小さく 可愛い花が沢山咲いています。

しかし風の弱い雨の時には

蚊の大群と格闘しながらの設置です。

…… しばらく、ピートの中の大きな石との生活です。

 

とある。

 

 

 

現地の時空を生きる作家自身は、

そこでの まあるい宇宙のゆたかさの 全ての中 にいる。

そして、写真世界は、〈世界の限定〉 による異化であり、

その 〈限定〉 は、現地で励起されている氏の美意識の中で

なされている …

 

これに対して、写真を見る側はというと、

写真の視覚情報以外の たとえば「蚊の大群」 といった

さまざまなリアリティーとは隔絶したところで、

かつ、いわゆる 〈意識知〉 が消えた眼が、

 〈物質的構成のムーヴメント〉 として写真をとらえ、

意識されていない内面に沈潜している記憶とか美的感受性が

呼応的に動き、意識に向かってささやく中で、

写真世界との共鳴を ただ純粋に生きている …

 

 

写真中央の巨きな岩を、氏は、「ピートの中の大きな石 」

と表現しているところをみると、それは、大地の突出部分ではなく

単独の岩なのだろうと想像するのだが、

そうだとすると、このど~んと居座る岩は、いつ、どのようにして

運ばれてきたのであろうか???

 

そういえば、長い時間の中で成立した存在と存在との境界の

詩的残響を即興するような何本もの放射する棒に、

てるてる坊主のような形をした白布が吊るされ

それが 付加された風景の妙として 響いている …

 

そこには、造形の 「曖昧なる多義性」 のようなものがあって、

それが、こちらの想像世界のかそけきふくらみを誘う …

 

氏の文章に、「風の弱い雨の時には蚊の大群と格闘 …」

とあるし、だから、天気を願うそういう 〈暗示的な意味性〉 が、

吊り下げる白布のあり方を決める際に、

あるいは関係しているのかもしれない …?

 

 

でも、そういうたぐいの 〈意味性〉 は、

あとから自然に、いろいろと想起されてくるもの …

あるいは、作家から話を聞いて、作品の世界の奥行きを

物語的に楽しませてくれるもの … ではあっても、

当初の私の写真世界との無心の共鳴には、

少なくとも 〈意識上〉 は なんの関係もないのだ …

 

 

 

作家の感動 …

 

そして、

 

写真観者の感動 …

 

 

それぞれの 「無意識世界と脈絡をもっているであろう美的感受性」

の間には、通底する何かがあるのではなかろうか。

 

 

 

 

【インスタレーション】

 

タイトル : Loch Maree Weather Station (ロッホマリー…)

        Gairloch (ゲアロッホ), Scotland

作   家 : 藤井龍徳 (写真撮影も)

 

 

全体美と部分間共鳴 | RINZ カフェギャラリー

美 ○ 創造

 

 

 

 

まちで見かける 手書きや手作りの個性的なメニュー看板 …

 

 

きちっと作られた固定看板が、

周囲の環境のあり方との対照関係で大なり小なり視認され、

通常の雑然とした環境の中にあって、

「看板全体としての整序の力」 をデザインに生かそうとする

のに対して、

 

日々、掲出内容を更新できる店頭の手作り看板の方は、

見る側の眼を 部分部分の情報に向かわせる注視性を有し、

したがって、看板全体の整序美というよりも、

「親しみを感じさせる おもしろさ」 というところで、

ユニークな表現が生まれる自由さがある。

 

「テンポラリーな性格のもの」 の中に現われる

多様な個性のゆたかさ …

 

 

写真は、前回の文章で紹介したカフェギャラリーのメニュー看板。

 

埼玉県東松山市に RINZ/Bakery Cafe   あ~との国

( Rinz Gallery+ を併設 ) が、今年2月にオープンした。

 

看板は、そこでアートディレクターを務めている金子清美さんの

手作り即興だ。

ふかふかしたパンのイメージが生かされたデザインで、

それとなく人目を惹いて、グッド …

既存の小椅子を利用して、その上にピンナップボードをのせ、

そうした制約の中で、臨機応変にボード面の構成を考える …

 

そこに、キッチリ決められたものには欠落しがちな

〈テンポラリーの軽やかさ〉 のようなものが漂う …

 

 

 

写真:金子撮影

*あ~との国は 2014年2月にRINZビルから移転しました。

 

手作りのフロアランプ | 金子清美作品

美 ○ 創造

 

 

 

 

 

 

 

写真は、あるカフェギャラリーのために手作りされたフロアランプで、

大型のガラス瓶の中にLED光源を仕込み、外側を特殊な紙で

くるんだだけの単純な構成ではあるが、紙のくるみ方がユニークで、

市販品にはない複雑微妙な陰影が とても柔らかで、美しい!

見る角度を変えると、微妙な表情が、大胆に、変化してゆく…

制作したのは、私のアトリエのパートナーであり、現代美術作家でも

ある金子清美さん。

 

 

売ることを目的にした量産品は、それが優れたデザインのもの

であっても、量産に適した素材の選定とか 組み立て方式とか、

最終的にはコストという条件に制約された中での可能性である。

 

一方、そのモノが置かれる場所の具体的な条件を読み込んで

より自由に発想すれば、現代的な魅力をもったデザインの

可能性が、思わぬかたちで姿をあらわすかもしれない…

 

本ホームページ Furniture のところに掲載してある

片手で軽々と持ちあげることのできる スツール moonwalk  は

それが使用される住宅の住まい手が、スツールを丁寧に扱って

くれることがわかっていたので、そういうデザインが実現した

のだった。

 

販売された後、どういう場所に置かれ、どういう使われ方を

されるのか ―― そこに一定の幅を見込まなければならない

のが量産品であり、その場合は、当然に、強度的な面で

安全側のデザインがなされ、結果、とかくドテッとした姿の

ものになりがちである。

 

 

手づくりしたものの場合、やけに作り手の個性が強くでたり、

あるいは、どこかで見たようなコピー的なものになったり、

真に優れたデザインは めったに生まれないのも事実。

 

でも、そうだからといって、ハイスペックで無難な量産品に

選好意識が安易に短絡してしまうのは さびしいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影

 

異形の庭 | 佐藤省 個展

美 ○ 創造

 

前回のブログで書いた佐藤省さんの展覧会は、

来廊者それぞれの眼に 独特の印象を刻印したようだった。

 

展覧会の会場は、住宅地の中の一軒家を改造したもので、

昔の木造車庫が 小屋組みの見えるギャラリー空間に改修され、

隣接する和室空間には 床の間があり、

縁側越しには 緑豊かな中庭が望める ――

そういう、いわば 〈気取りのない空間〉 なので、

観者は、空間に馴染んだ状態で 作品にゆっくりと

接することができたのではないかと思われる。

 

展覧会の実際の空気と その中での作品の印象は、

断片的な写真を並べてみても、伝えることはできない。

住宅部分を含む展示空間の全体は、ホワイトキューブとは違って、

さまざまな性格をもつ部分空間の集合体であるが、

それぞれの部分空間にふさわしい作品が厳選され配置されるとき、

実際の空間では、観者の 「相互に性格を異にする空間から空間への

《移動》」 が、展示作品とまわりの空間がセットになった感覚体験の

 〈相互異質性〉 を 違和感なく内面に共存させてしまう役割をはたして

いることに気づく。

 

そういう 「空間性と共にある プロセス的な作品対話」 というものは、

「断片としての写真の並置」 から受ける印象とはかけ離れたもの

であることを踏まえつつも、あえて 筆者が撮影した写真を以下に

掲載してみたいと思う。

(→ 写真をクリックすると拡大写真が見れます)

 

 

 

 

 

               ギャラリー空間

 

 

 

 

   〈刻を落下する花の発光〉

 

左側の写真の額は、生命的自然との日常の対話からうまれる

作家の感興を トレーシングペーパーの向こう側に昇化させた

肩ひじはらぬ微音的世界を、白壁にそっと凹部をつくって

さりげなく飾れたら… というイメージで 筆者がデザインしたもの。

額の 「額然とした様相」 を限りなく消して、簡素化してみた。

 

 

 

 

 

 〈光を通過する風のゆらぎ〉      〈風の成す形〉

 

和室の奥の屏風の前の暗がりの中に、一点、静寂の灯りが

ともされ、その上に、透光性の作品が置かれた。

ここは、展覧会場の一番奥の位置にあたるので、いろいろ作品に

接したその最後に、観者は この美しい透光の世界に 沈潜する…

この透光作品をみて、作家が表現したい世界がすっと

つかめた ―― と感想を話していたアーティストもいた。

なお、ライトボックスは、筆者が 10年程前に AZAMINO house

 のためにデザインしたムーバブルワゴンを転用したもの。

→ 本ホームページ Furniture のところに掲載

 

 

 

       

         〈海〉

 

 

 

 

写真:筆者撮影

 

紙のオブジェ | 畑龍徳作品

美 ○ 創造

 

友人のアーティストから個展への協力を依頼され、それがきっかけで

このたび、紙のオブジェを二種類制作することになった。

 

紙の 「ペラペラな感じ」 を生かして、紙ならではの造形をしたい…

これが、終始こだわりつづけた造形指針。

 

 

 

その展覧会は、《 異形の庭 》 というタイトルがつけられた展覧会で、

「庭をもつ住宅空間とともにあるギャラリー」 という空間の特性と

共振させながら、

 《 詩性のことば 》 と 《 抽象アート表現 》 が相互に還流しつつ

多相的に生みだされた作品群が

それぞれの場所を得ながら 展示されている。

 

これは、女性作家である佐藤省さんが

作りためてきた 《 肩ひじはらぬ日常表現作品 》 をベースにして、

内面世界を、「日常空間性を有する展示空間」 へと重ねあわせを

行ってゆく――そういう 「展示を考えるプロセス自体」 が

アート創造行為になっている展覧会である。

 

実際に、作家は庭がとても好きで、そういう作家が、

庭と住宅とギャラリー空間――という多様性をもった展示空間

を相手に 展示の構想を練る… 

あるいは、床の間の軸物のあり方を テーマにそって異化すべく、

専門の他者に制作の協力を求める… 

そうした 「他者との縁」 もふくめて、

 《 間(あわい)の豊かさ 》 を体現したインスタレーション――

といってよいであろう。

 

 

 

ギャラリーの入り口のすぐ横の 緑が寄りそう窓辺に、

作家がことばを記した短冊を差した 《 ことばの家 》 を置いて、

七夕の日のオープニングの来廊者に

小さな荷札に 何かことばを自由に書いてもらうお返しに、

短冊を一本引いてもらい、おみやげとしてさしあげる。

そういう 「ことばの交換」 をたのしく介在する 《 ことばの家 》 なのだが、

その紙の家を 筆者が制作してさしあげた。

特殊な半透明の紙を用いて、《 紙独自の薄さがもつ美しさ 》 と、

《 折り目が生みだす端正さ 》 とを、表現してみたいと思った。

 

 

 

 

 

 

人の頭の中は いわば無限宇宙…

意識の動きとか、外部からの感覚の刺激に触発されて、

無意識無限宇宙から、時々刻々、断続的に、

ことばやイメージが送りだされてくる…

そんなことを考えながら、《 ことばを発する人間 》 を抽象するような感じで

《 ことばの家 》 を作ってみた。

 

 

 

 

 

 

 

七夕のオープニングでは、和室に配されたさまざまな作品たちと

共鳴するように 舞踏家の趙寿玉さんが純白の衣装をつけて、舞った。

 

 

…彷徨する光の鼓動の下 昼夜 見えない一瞬を揺らぎ

野天に気泡を結わえる一双の舟…

 

 

作家自身によるこの詩のことばに呼応させて、

床の間一面に敷かれた珊瑚砂の上に

――この珊瑚砂は、展覧会の直前に 作家がたまたま出会った

小浜島のアーティストが好意で送ってくれたもの――

一筋の墨の線が引かれたロール紙を納めた 《 ことばの舟 》 が 二艘…

 

その一艘を、寿玉さんが手にとり、ロール紙を引き出して、線を読み、

メッセージを七夕の天空に届けた…

 

この 《 ことばの舟 》 を、舞い人が手にとることを想像しながら、

厚手のトレーシングペーパーでつくってみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

佐藤 省  ― 異形の庭 ―

2013.7.7(日)~7.15(月) 12:00~18:00 (最終日16:00)

ギャラリー 水・土・木/みず・と・き

東京都練馬区小竹町1-44-1  TEL 3955-2508

西武池袋線「江古田駅」または副都心線「小竹向原駅」より徒歩

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

【追記】

 

この文章と写真を見た友人の新井九紀子さん(墨アーティスト) から

以下のすてきな感想が届いた。

七夕という、人が何かしらの記憶をもっている日に、床の間や庭のある画廊で

〈ことば〉 が紡がれた展覧会のオープニングがあったのは、素敵なことです。

〈ことばの家〉 や 〈ことばの舟〉 の かそけさは、観者それぞれの胸に、秘かに

郷愁を灯らせたことでしょう…

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

森に住む | 金子清美のインスタレーション

美 ○ 思索

 

 

生命の燃焼 …

 

そして、それと裏腹に

 

どこかさみしさが

 

セットになった 夏 …

 

 

 

もうすぐ 夏である …

 

 

 

比企の国際野外の表現展で

金子清美さんが、《 森に住む 》  というインスタレーション

を行ったことがある。

 

なんとも、夏という季節が生きたインスタレーションで

それは、日常の生活と感覚、夏の外向的気分といった

諸相が、ごくごく自然に重なり合いながら

アートの異化作用が味わい深く響いた

女性作家ならではのすてきな 《 生活 → アート表現 》

であった。

 

 

【インスタレーションの動画】 

 

□ Windows →

live in woods, 2007 Installation by Kiyomi Kaneko ©2007 Ryutocu Hata

 

□ 携帯電話・Mac →

live in woods, 2007 Installation by Kiyomi Kaneko ©2007 Ryutocu Hata 

 

 

 

 

 

 

場所は、住宅地に隣接する谷合いの公園の 森の中 …

 

 

中心の白いテーブル ( かつて私がデザインしたもの ) は

金子さんが自宅で実際に使ってこられた 《 生活の中の家具 》。

そのテーブルの上に、日常の生活で身近にあるものの中から

作家が独自の感覚でチョイスしたモノたちが並べられている。

 

それらは、いつもの日常空間から離され

公園の中の白いテーブルの上 ―― という特別の時空に

移行させられることで、

機能するものとしてのイメージの卑近性が薄らぎ

純粋に物質的存在としての 《 形の美しさ 》 が

立ち表われてくる …

 

周辺には、作家が愛猫に与えているキャットフードの空き缶を

白く塗ったものや、現場で採集した木の実を入れた瓶などが

あたかも以前から置き去りにされたふうに

堆積する枯葉のうえに点々と配されて

ふだん目にするふつうのモノたちが

ここでは、なんとも言いがたい響きをつたえてくる …

 

 

作家が生活の中で使用したり接しているモノたちには

他者には知ることのできない 作家の思いや情感が

ともなっているであろう。

そこには、作家の美意識も当然ながら混然と関わっていて

そうした背景の中から、外在表現としてのインスタレーションが

生まれてくる。

 

そして、その外在として独立した表現作品を

観者は観者で、勝手なしかたで感じている …

 

でも、作家の世界と観者の世界は、大きく あるは 微妙に

異なるからこそ 《 共振のよろこび 》 が生成してくる、とも言え

そこには、同質とか異質とか 簡単なことばには還元できない

微妙な関係が存在しているといえよう …

 

 

夏という季節が、人をして、ある気分に導いている …

屋外でのインスタレーションは、そういう季節のムードが

人間同士を近づける契機として生かされて

より深い響きをかもしうる可能性をもつ。

 

 

 

 

*ビデオ撮影・編集:筆者

 

金子さんのwebsite  → http://www.kiyomi-k.info/

 

 

相澤秀人 個展 | Mineral autonomous

美 ○ 会う

 

 

まとまった空間ボリュームを有するギャラリーの壁に、

その壁と共生するように白い直方体と 垂直の細い木地の角棒とが

いろいろ変化して絡まった作品が点々とならび、

床にはなにやらゴロっと小さな塊の作品がふたつ置かれている…

 

 

 

 

個々の作品の「パッと見の、どうだ!」という顕示圧はなく、

カラッとしたシンプルさで、作品と空間性とが相まって

「独特の抽象性の響き」をかもしている。

それは、純粋な幾何学的形態と なにか機能する物体との中間に

あるようなゆらぐイメージの中にあって、

イメージ世界の認識座標としての範疇の辺縁部に位置する

〈ヌエ的領域〉 に属するもののようでもある。

素材の用い方に現代社会との脈絡をおのずととりこみつつ、

フォルムのありようは 「暗示のゆらぎ」 を含み、こちらの想像力を

刺激してくる。

これは、相澤秀人さんが 先ごろ四谷のギャラリーで見せてくれた

実験的な造形の印象だ。

 

相澤さんは、これまで合板などの規格木材を用いた抽象作品で知られた

人だが、今回は、一種類の規格材の 〈小角木材30×36〉 だけを使用して

作品を作っている。

その角材を集成したブロックと、そのブロックを貫通したり、支えたりして

いる (ように見える) 棒状の角材との取合わせのバリエーションで、

作品群が構成されている。

ブロックと貫通材 (あるいは支持材) との相互関係は可変で、

個々の作品のあり方とレイアウトの作品相互のバランスを決めるときに

その可変性が生かされたのであろう。

結果的に、それが決まるところに決まる ―― この単純な可変項の存在は、

微妙なユニークさをもっている。

 

集成ブロックの方は、木地がうっすら浮きあがる程度に白く塗られていて、

それによって直方体は白い壁面に融和し、かさばり感、重量感が

抑制されている。 

その白いボリュームの下側の壁面には 複雑な淡い陰影が寄りそい、

上側の壁面には ブロックの白い上面が生みだす 〈リフレクション〉 が

ほのかに見える。

ブロックに対してとても細く見える棒状の角材は木地のままで、

貫通する (あるいは重力に抗して支える) 垂直ラインとして強調されている。

これによって、表現体のふたつの基本要素が独自のメリハリを得ているのだが、

ブロックのボリューム感をあえて抑制するように白色塗装をしているところが、

この作品のかなめになっているように感じた。

 

集成ブロックの量塊性と貫通 (支持) 体の繊細さとの極端に不安定な対比は、

この作品のフォルムを特色化する魅力であるが、

その対比に、ブロックを白く塗装するという 〈量塊抑制〉 を加えることで、

作品の突出した性状のいわば直線的感受を迂回させ、

見る側の想像力をそれとなくゆっくりと作動させることになる。 

パッと見の刺激の強度ではなく、

じんわりと広がる 「暗示的で、ゆるい世界のゆたかさ」 …

見る側の意識の中に、焦点を安易に結ばせることをしないで、

そのスキマにひろく日常時空の意識/無意識を引きこみながら、

フォルム構成の美的な滋味感覚と、たゆたう想像力喚起の波動との間を、

往還させられてしまう…

 

 

これは、もしかして、

「垂直的思考・行動が特徴の男性世界」 と、

「自己享受的で泰然とした女性世界」 との

関係性のユーモアなのか?

あるいは、「それぞれの異質性が生かされた組み合わせによってこそ

生成される何ものか」 を暗示しているのか?

そんなふうに、頭の中をとりとめのない連想がよぎっていく…

 

近すぎたり、あたりまえ化の中で、かえって意識されないこと ――

作品は、そういうことも想像させた。

たとえば、われわれが逃れられないもっとも身近の作用であるにもかかわらず、

日常ほとんど無意識化されている 〈重力の作用と垂直性〉 のこと…

さらに、

手を動かして造形することをすっかり遠くへ追いやってしまった

機械生産一辺倒の時代にあって、

日曜大工をする人ならばDIYセンターで目にしているであろう

工業生産品の小角木材を用い、それを手ノコで加工する ――

という方法が、作品の形に微妙なゆらぎをもたらしてあたたかみを感じさせる。 

そういう、工業生産品に象徴される時代性と 人の手による加工という行為の

からみあいで 表現体を形づくるということ ――

これはつまり、〈機械化〉 と 〈人間の手〉 という相反相補的な

根源的モーメントとの接点をもつ 〈詩的な行為〉 にもなっている…

 

 

 

 

床と作品との本格的な呼応関係についてはこれから展開したいテーマ ――

そう、相澤さんは語っていたが、今回、床に置かれていたふたつのオブジェは、

壁面に張り付いた作品の残材から生まれたもので、

ふたつのオブジェは、ひとつのブロックをふたつに切断した片割れをもとにして

作られている。 

そのようにさまざまなレベルで、視界に存在するものの間の

〈隠れた関係性〉 が意識されている。

 

 

 

 

 

相澤さんの作品は、ひかえめな存在感であたたかみを感じさせ、

見る側は 自分のペースで

全体を眺めたり… 集成ブロックの小口の表情を見入ったり…

ゆったり味わいながら いろいろイメージし、たのしい…

展覧会の印象を文章化する作業は結構むずかしく、

読まれる方は、なにかとても難解な作品のように思われてしまうかも

しれないが、実際はまったくそういうことはない。

聞いた話だが、たまたまギャラリーに入ってきた男性が、椅子にかけながら、

「ここは休まるな…」 とつぶやいたそうだが、相澤ワールドはそういう性格を

もったやわらかな世界だ。

 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影

 

写真集 something unlimited |畑龍徳 ギャラリー悠玄で販売

お知らせ

 

昨年、ギャラリー悠玄で開催された100人展に something unlimited

というタイトルの写真集を出品しましたが  (→ 2012/10/25 付ブログ)、

これがご縁で、このたび 同ギャラリーでその写真集を販売していただく

ことになりました。

 

DMによる宣伝もしていただけるとのことで、大変ありがたく思っています。

 

 

 

 

 

 

 

ギャラリー悠玄は、銀座の泰明小学校のすぐ近く という大変便利な場所

にありますので、そちらで写真集を実際にお手にとってご確認ください。

 

写真集に関するお問い合わせは、同ギャラリーの佐藤さん宛にお願い

いたします。

 

ギャラリー悠玄 TEL 03-3572-2526  ( 担当 : 佐藤 )

11:00AM~7:00PM  不定休

東京都中央区銀座6-3-17 悠玄ビル

 

 

写真集 something unlimited    写真・文 : 畑 龍徳  1,260円 (税込)

 

http://www.gallery-yougen.com/cgi-bin/gallery-yougenHP/sitemaker.cgi?mode=page&page=page2&category=1

 

 

開かれている状態 | CAFE トワトワトが考えさせたこと

美 ○ 思索

 

 

 

 

 

アート作品は、通常は、作品単体として 完結的にまとめられた

ものとして創作される。 

そして、その作品が具体的な場に置かれる段階で、作品とまわり

の環境との間の関係性の問題をつきつけられる。

作家は、自分が想定した 〈 閉じた世界 ) の中で、完結している

がゆえにもたらされるある種の力を 純粋に トライする。 

でも、現実には、作品という完結体が完全に孤立状態で存在する

ことはできない。

 

美術館やギャラリーの白い壁面は、作品と環境との関係性を

もっとも単純化して 作品の違いを超えて作品を良くみせる無難な

方法だ。

作品にもよるが、作品が本当に生かされる環境は白い壁面では

ないかもしれないし、そもそも、作品と環境のもつ特性との相互

関係を調整する中に 相互の響き合いの可能性が開かれてくる。

それに、本当に作品を味わう ということからすれば、美術館で

つぎからつぎへと作品と真面目に向き合うことは 「効率的」では

あるかもしれないが、よい方法というわけでは 決してない。

楽しむどころか、くたびれはてて美術館をあとにする ということ

にもなりかねない。

作品を味わうためには、観者側の心身の状態がよい状態にある

という前提こそが大切だ。

 

 

私のHPの建築作品の中に、アートウォールというのがでてくるが、

それは、空間づくりのために 空間と完全に融和したアートをトライ

した事例だ。

しかも、そのアートウォールは、住宅の居間と企業の接客ラウンジ

に設置されているので、美術館ではどうしても堅い真面目さに陥っ

てしまいがちな日本人も、リラックスしたふつうの感じでアートの

かもすやわらいだ雰囲気に心地よくひたってくれることであろう。

 

また、私は、仕事をしているときの環境としては、ニュートラルを

好む。 しかも、リラックスできて 気持のよいニュートラル…

だから、アピール性の強いアートは、それが好みのものであっても、

アトリエの中には置かないことにしている。

仕事に没頭しているときは、まわりの世界云々は関係なくなるが、

でも、感覚はつねに動いているし、環境からの無意識レベルの

影響のことも考えると、やはり、ニュートラルにおちつく。

 

 

 

 

 

カフェの空間には昔からつよく関心をもってきた。

カフェの数と 質の高いカフェの存在は、そのまちの ある意味

総合的な文化水準を表しているのではないか とさえ思う。

 

 

 

数日前、CAFE トワトワトを再訪した。 がっちりとした木製のテー

ブルに席をきめて… ゆっくりあたりを見まわすと、前回ずいぶん

と念入りに細部まで楽しんだはずなのに、またあらたに新鮮な

ものが目にはいってきて感動してしまう…

 

 

カフェは、そこを利用する側が自分の好みで選べるから、店の外観

はともかく、インテリアについては それをつくる側が思いきって個性

を発揮しても公的になんら問題はない という性格をもっている。

 

「インテリアの個性」 と 「落ちつけるかどうか」 という二つの条件

に着目してみると、モダーンさを意識してデザインをがんばった

空間は、えてして落ちつけないことが多い。

いっぽう、触覚的視覚にあたたかみをもたらすインテリアの仕上げ

や家具があり、「このデザインはどうだ!」 といったおしつけがまし

いのとはちがう抑制されたデザインのものであれば、概して、落ち

つける雰囲気になる。

 

しかし、落ちつけるのはいいとしても、陳腐なのはつまらない。

やはり、個性を楽しめて、かつ、落ちつける というのが グッド…

 

 

トワトワトは、〈 古び 〉 というプロセスが 個物の様相を控えめ化し、

個物のかつての用途や意味性を希薄化して、微妙なテイストの

ささやきをもった個物に変化したものたちを、店主のたぐいまれな

る感覚がチョイスし、ストレートな直感でそれらを組み合わせる

ことで  〈 個物相互の共鳴 〉 をゆたかに実現している――そんな

くつろぎの空間だ。

そこは、個性のおもしろさにあふれているが、でも、あくまでも、

控えめ…  だから、気持ちがよい。

 

 

 

 

 

建築は、素材というものを さまざまな条件や機能を満たすように

組みあげてゆく。

条件とか機能という前提があるがゆえに、それまでは存在しなか

ったような思いきった形体、あるいはヘンテコでさえあるユニーク

な形体が、正当な理由をもって創造されうる。 エッフェル塔の例

をもちだすまでもなく、生みだされたときはヘンテコあるいは醜悪

なものとして受けとられるものであっても、時間の経過の中で、

馴染まれた存在になって、美しいものとして一般に受けいれられ

るようになってゆくこともある。

 

素材から組み立てる建築とはちがって、かつて生活の身辺で使用

されていたモノという 「すでに独自の機能をもった個物」 として成立

したものたちをチョイスし、組み合わせてスペースづくりをしている

トワトワトのようなケースは、〈 全的な個物のささやき 〉 という力を

生かしている。 

そこには、人間の活動を受け止めるベースづくりとしての建築デザ

インという骨格形成行為ではカバーできない種類の 「イマジネーシ

ョンをあいまいに刺激してくれる心地よさ」 が存在している。

 

 

*写真は CAFE トワトワト (筆者撮影)

 

静止とスローモーションの無限性 | 趙寿玉の幽玄

美 ○ 会う

 

なにか自分自身が融けていくような そんないとしさを感じさせる――

( かそけき美 ) のひととき…

 

毎年一回 銀座のギャラリーで、最高の舞い人と創造的な舞台のしつらえ

による総合アートを ぜいたくに体験できる稀有なチャンスがあり、

私は、そのこじんまりとした深遠なる舞台を毎回のがさずみてきた。

舞い人は同じなのだが、意想外な演出の舞に 毎回引きこまれてしまう。

 

ギャラリーの空間は古く、その様態は整然からは遠いものなのだが、

それが、いわゆるこぎれいにまとめられたモダンスペースには

欠落しがちな ( 独特のゆるい空気 ) をかもしている。

整理されていない空間の出っぱり引っこみが、空間演出の陰影の中で

思わぬプラスのゆらぎをあたえ、うつくしい…

 

この総合アートの核には 作家でもある女性プロデューサーがいて、

その人の眼と創造の熱が ほかの才能を引きよせる。 

 

魂が 魂を 選んでいる…

 

 

 

舞い人は、静止することのゆたかさをうつくしく体現することのできる

魂と肉体の才女で、

その人はかつて 「静止している時は、体がきわめてはげしく働いている…」

と話していた。

もっともっと留まっていたい、でも体がもたない――そのぎりぎりのところで、

( 静の無限性のゆたかさ ) への愛が 燃焼する。

 

 

 

 

 

 

 

この12/17に行われた公演 「白い闇」 は4周年目にあたるが、

その舞台には、空間オブジェと映像の制作で女性作家2人が参加した。

しかも 2人とも今回初めての参加だ。

プロデューサーをふくめ、全員女性…

 

 

全体の舞台の組み上げがどのようになされたのか?

 

まず、プロデューサーがさまざまな音源をチョイスして、音響技術の

担当者(この人は男性)といっしょに40分の長さの音づくりをする。

その創音データを、舞い人、映像作家、空間オブジェ制作者に送り、

それぞれがそこから湧いたイメージでのびのびと創作をする。

そして、本番直前に、全員が集まって調整をしたという。

 

舞い人やほかの作家のことを、プロデューサーは深いところで直感的に

把握しており、信頼している。 

だから、舞い人や協力作家のもつ創造世界の質が相互に共鳴する

人たちによる創造世界なのだ。

そこには、プロデューサーのつくった音というやわらかい基軸が

まずあって、それがたとえば 「循環する水」 といったイメージ (実際の

基調イメージは多重的で詩的複雑さをもったものだが…) とともに

参加アーティストたちの間で共有されるが、あとは、それぞれの個性的な

創造のジャンプが展開されて、全体としてしっくりとした基調の空気を

もちつつも、しかし、まさに意想外の世界が相互に融け合ったうつくしい

静寂の世界が生成されていく…

舞いは、かならずしもリハーサル通りではなくて、即興が入る。

 

 

 

 

 

 

 

この公演は、再演されることはない。

 

プロデューサーと参加アーティストが声をかけた関係者50人ほど

 (空間の大きさからこの人数が限度) を観客とする。

 

まさにぜいたくの極みの時間…

 

 

 

クリエイティブな魂が

 

うつくしく融解しあう

 

人生でただ一回の

 

出来事としての

 

ぜいたくな

 

静寂のとき …

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

「白い闇」/季節を舞う  2012.12.17

 

演出・サウンド : 佐藤 省  舞踏 : 趙 寿玉  空間オブジェ : 田尻 幸子

映像 : 小川 真理  音響技術 : 安本 尚平

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

写真:筆者撮影 

 

手づくりの空間 | 水眠亭とCAFE トワトワト

美 ○ 会う

 

最近 手づくり空間の魅力的な事例に たてつづけにふたつ出会った。

ひとつは 男性がつくったもので、もうひとつは女性の手になるものだ。

 

 

ごく一般的には、男性は、自分の世界にのめりこんでマニアックに

モノや世界を追求し構築する傾向がつよい。

それは、身近な生活の質との関わりよりも、むしろ 「何かむこうの

抽象的な世界」 へのあこがれ(男性的な夢)や追求… 

そして、それにのめりこんでゆくモノトラック性… 

これにたいして 女性は、身近な生活のディテールにひろく関心をもち

それを楽しんでゆく傾向がつよい。

それは、「自己自身のすてきさの意識」 を核にして、生活にまつわる

多様なすてきなる世界への つよい関心(女性的な夢)と行動…

 

生活領域に視点をおけば、女性は 「夢半分、現実半分」 の感じで生き

視野にはいる多様な世界を マルチチャンネル的にあじわってゆく…

これにたいして、男性は、もっぱら仕事にかかわっているうちに 生活

領域のゆたかさをエンジョイする具体の行動からはなれてしまい、

知らぬまに それをたのしむ意識や美学を失いがち…

 

 

 

ところで、今回たまたま出会ったすてきな空間は、男性がつくったのは

住宅で、女性のほうはミニカフェ。 いずれも生活領域の空間だ。

 

 

蛍が生息するという清流に面してひっそりと建つ木造家屋は、じつに

百年以上の歴史をもち、これを、くみとり式トイレを浄化槽方式にする

工事や入りやすいオリジナルの五右衛門風呂をつくることをふくめて

すべての住宅改造を自らの手でやり… 緑深き清流を感じ、暗がりの

生きる独特の空間に仕立てあげてしまった… 

その 〈川の気に包まれた空間〉 は、山崎史朗さんの手になる水眠亭。

彫金をやり、めくるめく万華鏡や茶杓などをつくり、また ベ―シストで

あり、俳人でもある山崎さんは、手打ち蕎麦の名人でもあり、蕎麦は

もちろんだが蕎麦がきにいたってはお菓子のようで うなってしまうほど

おいしい…

自らが求めるものを ぶれることなく実行してきたまさに逸人だ。

串川沿いのその手づくり空間は、「自然態の快」 といったようなものを

実現していて、そこここに山崎さんの眼にかなった上質なモノたちが

しずかにくつろいでいる その 〈部分部分の世界〉 を 目のうつろいに

まかせて ただ たのしんでいる自分…

湯船につかったときのように自分が時空に浸っていて、目と耳と肌

が ここちよく 〈時空の変化〉 をたのしんでいる…

 

暖炉のすぐ近くの椅子にかけて 〈寒気の中の暖〉 をありがたく思い

キャパっシティのおおきなスピーカーから流れる張りのあるクリアな

サウンドにつつまれながら 目は 室内の部分部分を味わい そして

自由に移ろい… 背景に 川の流れの音が 聞こえたり消えたり…

川の緑が正面の窓ごしにたっぷり見えて 夜になると 落葉をのせた

一枚ガラスの天窓から煌煌とかがやくまんまるい月が見えた…

 

 

この空間は、時間をかけて絵を描くように手づくりされたコラージュ

作品であり、そこには、人の手が生みだしたものと自然、そして、

視覚と聴覚と温度感覚のここちよい変化があって、全体が 〈丸い

時間的宇宙〉 になっている。

人の手が生みだしたものといっても、それは、山崎さんの作品で

あったり、山崎さんの眼が選んだものであり、気やすく購入した

ものではけっしてない、ということ…

部屋の片隅に、日本でつくられた最初期のピアノが置かれている

が、ベ―シストの山崎さんは ここでよく仲間とライブをやっている。

そういう音の世界に、手打ち蕎麦をはじめとする自前の料理…

こうなると、もう、空間にゆったりひたって ただ 会話をたのしむ

だけ…

 

 

                                                 

 

 

 

 

 

女性が手づくりしたミニカフェのほうは、店主の沖田悦子さんの

とにかくこまやかなセンスが隅々までゆきとどいた空間だ。

塗装はフラットに仕上げたきれいさではなくて、不均一な表情の

味わいであり、家具類は 古びの美をもったものがそろえられて、

それぞれが異なったデザインである。

空間のそこここにさりげなく配された無数の味わいある小物たちは、

ただ置かれているのではなくて、空間や光との関係の中で独自の

位置をあたえられ、その詩的なひびきを奏でている。

ふと見ると、一隅にかれんな野花がしずかにおかれていたりして…

それらの配置は、計算された…というよりも、直感的なきめかたの

強さを秘めているように感じられた。

CAFE トワトワト という名称は、やわらかで軽やかなひびきをもって

いるが、それはアイヌ語で 「きつねの気配」 を意味するとのこと。

ガラスコップで出された水は、じつはお冷ではなく、お湯だった。

空間づくりと その他の面のこだわりや創造性が、一貫している。

 

 

 

 

 

 

 

 

低彩度な世界や、材質の時間的渋変の中に生成する味のある表情は、

ひとにやすらぎを感じさせ、異質的なもの同士を調和共存させる性質を

もつ。

そうした性質が生かされた空間としてふたつの事例は共通性をもつが、

水眠亭の方は ただただ浸る 〈まるい時空〉。 

これにたいして、トワトワトの方は、構成要素がどちらかといえば抽象的

な性格を有していて、つまり、かつて用途をもっていた 〈ごく身近なアイ

テム〉 で空間が構成されていて、 見る側がかってにふわっとした物語を

想像することはあっても、そこには 高価なアンティーク類にみられるよう

な強い象徴性はなく、だから、そうした部分要素の稠密な構成が、写真

の中でこそ可能な 〈魅力的構成〉 を遊ばせてくれるところがあった。

 

 

 

*写真はいずれも CAFEトワトワト (筆者撮影) 

 なお トワトワトは 2014年7月に営業を終了しています。

 

 

写真集 something unlimited |ギャラリー悠玄展での反応

美 ○ 会う

 

 「これは!」 という対象に出会ったときにカメラを向けて、フレーミング

をはじめとする 《 写真のもつ異化力 》 をたのしむ ――

そこにあるのは、対象が発する直覚的魅力を定着する というような

単純な意識ではない。

 

そうして撮りだめしてきたノンジャンルの写真の中から、

「飽きないテイストを発散するもの」 を自分なりに選りすぐり、

それをさらに、テーマ性というくくりで編集するのではなく、

異質な写真世界をあえて並置することで生成される 「微妙な共鳴」 を、

見出してゆく遊び…

そうして構成された30ページほどのフォトブックに対して、どちらかというと

派手なところのない写真世界に対して、はたして他者がどのような反応を

示してくれるのか?

 

過日、150人の作家が参加した美術展に、そのフォトブックを出品した。

12日間の会期中 私自身毎日会場に足を運んだことで、アーティストや

一般の方々のそれこそ個性的な反応を聞かせていただくことができた。

大変おもしろい体験をした。

 写真は他のアートにくらべてわかりやすいところがあるので、興味を

もってくれれば その印象をすなおに言葉にして聞かせてくれる。

 

 

 

この写真は、加藤哲さんのインスタレーションを撮影したもの。

まるで、エッチングのようだ ―― と評してくれた人もいる。

《 坐れない椅子の羅列 2009 》 巷房・2

 

 

 

ここには、すべてがある! 男女、年齢に関係なく、ここにすべてがある!

いうなれば… A to Z…

自分も、仕事(美容師)で、A to Z をめざしてやってきた… 

 

こう評してくれたのは、美容室を経営されているMさん(男性)。

この言葉には、写真集を媒介に、Mさんの美意識の強度を伝えてくれて

いるところがあり、「感じたことの言葉化」 ということが それ自体 美意識

に深く根ざした「真摯な創造行為」であることを感じさせ、うれしかった! 

 

 

貴重な空間の広がる写真集…

ひとつひとつがいとおしくなるような、

まさに(写真集の)巻頭にある言葉の通り… 

 

と、感想を送ってくれたのは、アートに造詣が深い旧友のS君。 

 

 

「写真集というより アートの感じ」 ―― こう評してくれたのはギャラリーの

オーナーであるGさん(女性)。

ひとこと 「美しい写真!」 と言ってくれて、そこにかえって言葉の重みを

感じさせてくれたのは 少女の魂を描き続けるイラストレーターのAさん

(女性)。 

写真全体に 清涼感がある、と評してくれたアーティスト(女性)もいた。

 

その人の創造世界を作品などを通して知っていれば、そのひとの発する

ことばには おのずと独自の響きが加わり、手ごたえを感じさせてくれる。

 

 

個々の写真に関しては、それこそ個性的な反応があってたのしかったが、

写真集の中に タイトルをつけるとすれば 「忘れられた夏の場所」 という

のがいいかな と思っている写真があって、それは避暑地の夏の光を反射

させている窓をもった静かなたたずまいの物置小屋の写真なのだが、

その明るい雲が写り込んだ白いガラス窓の風景に、

「空(そら)が住んでいる家みたい…」 と

詩的な表現をプレゼントしてくれた作家(女性)もいた。

 

 

写真集全体をとおして、反応が比較的集中する写真があり、それは

それで、うれしいものがあった。

しかし、感受世界はそれぞれの人間でそれこそ多様であり、ひとつとして

同じ内的宇宙は存在しないのだから、「個別の微妙なる世界」 こそを大切

にして その感受をたのしんでゆくことを人生上のポイントとするのならば、

感受のあり方は それぞれでよいのだ!

 

写真集の中に、ルイス・カーンというひとが設計したキンベル美術館の

外構の写真が1枚入っているのだが、展覧会の開催中に、この写真に

反応したひとは 実は一人もいなかった…(笑)

その写真に写っているのは、両側を打ち放しコンクリート壁で仕上げて

空間を端正にアーティキュレートしたまっすぐな園路で、やわらかな表情

をした自然石平板のステップと 沈んだ色合いの豆砂利洗い出しの平場

など、相互の取り合わせがじつに丁寧で、その全体が、木々の緑という

複雑系とともに うつくしく共鳴しあっている…

専門家の眼は、そういうところに感動してしまうのだが、それは専門家の

位置がそうさせている ――  ということだ。

 

 

アートの創造は、自身を問いつづける孤独な営為…

作者の熱が生みだした作品が 他者の〈共鳴〉を誘う…

そして、その〈共鳴〉は、多様そのもの…

〈共鳴〉の強度という点で たしかに普遍性の有る無しは存在し、

その中味はというと それは感受した人間によってさまざまであるが、

いずれにしても、〈他者の共鳴〉 は単純にうれしい!

他者の共鳴が言葉で伝えられ、作者自身が記憶の隅に追いやって

しまっていたがゆえに生じる虚をつくような指摘の感動があり、

ときには、まったく気づかなかったことを気づかされることもある。 

 

自分で生み出した世界は、自分自身よりも、他者こそがエンジョイして

いるところがあり、他者の共鳴の言葉は、そのことが暗示されている

よろこびでもあろう。

 

 

美しいインスタレーション | 藤井龍徳の開かれた世界観

美 ○ 会う

 

アーティストが環境をえらび、そこで作品を制作する… その結果、環境と

作品が共鳴しあって独自の響きが生成される。 これがインスタレーション

のおもしろさだが、実際は、この作品と環境の共鳴というところがむずかし

く、作品が中途半端に浮いてしまっているケースをよく見かける。

 

数日前の秋晴れの日に、すばらしいインスタレーションをみた。

友人の藤井龍徳さんの作品で、今回はどんなものを作ったのかまったく

知らない状態で我孫子の布佐を訪ね、で、人影のまったくない住宅地を

歩き、すこし道にまよって丘の上に小学校を発見… 目指す公園が脇の

雑木林をくだった先にあることをおしえてもらった。

 

木漏れ日のゆれる林をくだったところで、木々の先に、明るい緑の空間

がひらけ、そこに… ぱっと目をひくかたちで それはあった…

 

一段低くなったところに細長い緑地がのびのびときもちよくつづいていて

そこを ただただ さわやかに 風が吹きぬけてゆく…

 

ゆるやかなカーブをえがく麻のロープに 無数の帯状の白布がつるされて

風の息とともに 光の陰影模様をきらきらとえがいている…

 

おだやかな 静寂 ……

 

 

 

 

 

 

 

 人の手によって構成された存在なのに、まわりの緑と 雲を浮かべる空の

たたずまいに 動的に完全融和 ―― そんな印象である。

肌に風をうけながら… なにかなつかしいようなにおいをただよわせて…

 

それは、無意識下のさまざまな記憶らしきものが、その輪郭があいまいな

ままに 微音をひびかせている…とでもいうような感覚か…

光の神々しさ…  いや、物干し台で陽光をまばゆく反射していた洗濯物

をただ幸せ感の中で見上げていた幼少時の記憶と重なっているのか?

 

環境とともにあるこういう動的融和はまったく写真にはならない、という

ことをあらためてつよく感じた。 現場体感こそが 文字どおり全的な力…

写真による異化された映像は、それ独自のテイストを発散しているが…

 

 

白布は、廃棄されたシーツを裁断したものを使用していて、ベッドの上

の夢を 天にむかって解放していきたい… そんな気持ちがこめられて

いる、と秋の光のもとで作家はおだやかに語っていた…

 

 

 

 

 

【追記】

 

藤井さんは、人間がふだんまったく感知していないもの、あるいは、

あいまいにしか意識していないようなもの、に一貫して関心をもち、

それをイマジネーション連鎖の基点として作品づくりをしてきた作家だ。

2011年の原発事故よりずっと以前から、《宇宙放射線》 に着目した作品を

作ってきた。

ここに掲載したインスタレーションには、『Abiko Weather Station 2012』 という

タイトルがつけられていたが、一年ちょっと前に、その怖さを五感が感知できない

という、そういう 《風》 が北からやってきた…

記憶に生々しいそのなんともイヤな感じというものを、

いま目の前で白布をたなびかせている 《風》 が、こんなにも爽やかに感じられ、

美しい光景を見せてくれているのに…   なのに、どうして…… 

という気持ちとして、対照的に、寡黙に、伝えているところがあった。

 

 

 

 

 

 

気持ちに余裕のあるときに、そのありがたさをつくづくと感じることがある

《爽やかな風》 とか、《ゆたかな風景》 とか、《雑音のない静寂》 とか…

いわば、「ふつうの、おおらかな、大切なものたち」 …

藤井さんのインスタレーションは、そうしたものの大切さを訴求してくる

《介在性の美》 ―― でもあり、

インスタレーションならではの 「作品とまわりの環境との交絡の響き」 が

きわだつ直覚美に隠れて、それとなく、密実に、生成されている。

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

写真集 something unlimited | 飽きない写真…そのささやき

お知らせ

 

これ見よがしではない 《自然な感じ》 であるけれど

単に自然な様態というのでもなく―  

そうかといって シンプル化が 《平板》 に帰結してしまったようなものでもなく

《ゆらぎ》 のなかにつかめない性質を示すもの―

あるいは、多様な要素の混成でありながら

部分が突出することなく、《全体の調和》 をなしているもの―  

そんな特性を具備しつつ 「それ独自のいわくいいがたい魅力を伝えてくるもの」

に めったにはないのだが出会うことがある・・・
 

2000年にニューヨークに滞在したおりに デジタルカメラを使いはじめたが

それ以来 撮りだめてきた写真の中から

自分にとって 《飽きのこないもの》 を選んでみた。 

そうして選定された写真を見ていて思ったことが 冒頭の文章である。

 

 

個々の写真についてはそういうことなのだが、それらの写真は

風景あり、友人のアート作品あり、あるいは自分の作品あり…

と被写体は、さまざま。

そうした写真の中から、意想外なくみあわせを 直感をたよりに見出して

ページの見開きにレイアウトしてくれたのが

現代アート作家の金子清美さんである。

 

 

   

                   

                   鳥

 

一見 相互にまったく関係性をもたないような写真がレイアウトされて

いわば 《異質性の並置》 といったふうな構成になっているのだが

でも、そうした構成の中に

「無意識世界が関係しているかのような 《写真相互のほのかな響きあい》」

を感じ、たのしめると思う。

自分のこだわりの写真を、自分で編集して完結させるのではなく

他者の力による選定と構成で揺らし、あえてオープンにすること…
 

この写真集を 11月12日ー23日に開催される

「Message 100|おしゃべりなアート展」 (ギャラリー悠玄)

に出品します。 

ギャラリー悠玄 → http://www.gallery-yougen.com/

 

something unlimited

写真・文    畑 龍徳
本の構成  金子清美

2012.11.1 初版第1刷発行
発行所 あ~とルーム
A5版横 30ページ
定価 (本体1200円+税) 送料別 

 

問い合わせ先  : 筆者のメールアドレス  hata@ops.co.jp
購入申し込み先 : あ~とルーム (金子) st-3neko@agate.plala.or.jp

 

畑 龍徳の 新アトリエ | ホームページ 一新 | 初ブログ

お知らせ

 

昨年、12年いた北青山から、原宿の閑静な住宅地の中にある

マンションの一室にアトリエを移転しました。

 

アトリエの窓からは 直近のおおきな空き地の向こうに

古いビルのやわらかな風景が広がり、

透光性のスクリーンを下ろすと 室内が

光の繭(まゆ) のようになります。

 

今回のアトリエは コンパクトな空間ですが、

それを あえて

「空白」 を意識しながらデザインしました。

限定された空間の 「空白」 ――  というと、

お茶室を連想される方がいらっしゃるかもしれませんね …

 

空間が限定されていると かえっておもしろい面があります。

 

まずは、インテリア全体の 「視覚的な面での刺激レベル」 を

おさえたい、と思いました …

 

引っ越しのときに不要なモノの見きわめを徹底したとはいえ、

最小限に残したモノの量はやはりかなりのもので、

そうしたモノたちの 「効率のよい配置」 とせめぎあいをしながら …

デザインした真っ白な資料棚の一部に、

あえて 〈空き〉 をつくったり、

置かれるものを  〈透明感〉 や 〈ゆらぎ〉 のある

オブジェやアートなどに限定したり ――

 

こうして 「背景としての空間」 の感覚的強度を

意識的にコントロールしていきました。

 

 

 

 

 

 

ところで、2003年にはじめてアトリエのホームページを作ってから

長いことそのままにしてあったのですが、原宿に移ったのを機に、

このたびホームページを全面的にリニューアルしました。

 

ホームページのデザインは私が自分でやりました。

デザインの過程で、アトリエのパートナーの金子清美さんから

アドバイスをうけました。 

信頼できる感覚をもった他者のアドバイスはありがたいものです。

 

プログラミングは、友人の池麻耶さんが紹介してくれた

Webデザイナーの鈴木和夫さんが引きうけてくれました。

鈴木さんはすがすがしい感覚をもったデザイナー、という印象で、

鈴木さんと協働すれば なにか新しい世界にふみだせるかな ――

と、可能性にかけました。

 

池さんと鈴木さんに感謝の気持を表したいと思います。

 

鈴木さんの website     → http://ks-web-design.main.jp/
池さんの C- talk Club  → http://www.maja-ctc.com/