〈 矛 盾 の 立 体 〉 ──── 素純な形 と 奥ゆき│畑 龍徳 作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

私は シンプルな造形が好きで、しかもシンプルでありながら「ゆらぎ」の

ゆたかさを与えるようにしている。

そこに、創造という深い営為のおもしろさがあり、同時に、困難さもある…

そして、あえて「連想」を誘わない「無意味で、しかも、見たことがない

ような独自の形体」を求めて、創造という自由な遊びをしてきた…

 

 

ここに掲載したオブジェの素材は、一昨年 (2022) 掲載した〈虚空の立体〉

で用いた0,2ミリ厚の薄紙と同じものを使用している。

カラープリンター用の上質な紙で表面がコーティングされており

くっきりとした印象の独特の白さをもっていて陰影の妙が立ち上がる。

 

立体の形を保持するうえでほとんど限界に近いこの薄紙で、物質感を消失

させた「幾何学的な平面」による独自の美的形体を複数創ってみた。

 

それらは、それぞれに個性をもった形であり、形体相互の関係と

スペース的な間合いを考えつつ、円形領域の中に配置している。

円形の領域は、外方向への空間的な広がりのベクトルをもっているので

個々の形体をやわらかくその領域の上で遊ばせてくれる。

 

 

こうして、そこに個立端整の形体群の異/  」とでもいうべき

が生みだされた…

 

 

円形基板は回転することができるようになっていて、この工夫によって

オブジェに向けられた観者の視線が、回転によってもたらされる

「ほんのわずかなアングル差による《 瞬間的な景の変化 の妙を味わう

ことになるかもしれない ──────   そうした「微妙 の中にひそむ

わくわくするような宇宙的時空感覚」とでもいうべき《意想外の感動》を

期待する思いが、私の中にあった ……

 

 

 

 

           

 

 

平面がかろうじて立っているかのような

紙立体の一部に小さく四角に切り取られた穴から光が通過している。

その立体の影の部分にできた 光の穴 を凝視していると

地面にすい込まれていく感覚に…

 

吸い込まれていくのは精神なのか肉体なのか…

 

──── 金子清美氏(美術作家)による独自の直感世界

 

 

 

 

 

 

円形基板上の8個のオブジェ群は

 

抱  / 支、交 絡、囲 重、空 / 未、芽 / 初、開 口、曲 / 直、挿 / 受   といった

 

素純な造形原理 によって創られているのだが

 

その「素純な造形原理」とは、われわれのまわりに遍く存在している

「形」あるものが、ある源初的な生成原理にもとづいて形を成している

───── そういう独自な視点によって探求された措定的な原理である。

 

 

いいもわるいも明々白々のリアルな形として存在させられているオブジェ群

は、形それ自体として《シンプルな美》を体現するようにしているのだが

そうした具体の形体の背後に、この作品を作品たらしめている隠された

コンセプトが存在しているということこそがこの作品の真骨頂であり

見た目の形体はシンプルな様相を呈しているものの、全的にはきわめて

デリケートな複雑系の世界である。

 

 

そういうことで、本作品は、表層の裏側に隠れている種々の脈絡を愉しみな

がら「〈人生時空の哲理 を形にしたようなところがあり、したがって

本ブログを閲覧されている方々には、形体を 見る だけではなく、むしろ

それを  読んで  いただけるとありがたい!…… と思っている。

 

 

 

              

 

 

             

 

 

 

今回の作品は、昨年(2023年)12月に東京京橋のアートスペース羅針盤で

開催された「第16回 Message Art 展」という佐藤省氏(美術作家・アート

ディレクター)が企画するグループ展に出品されたものである。

 

多くの方々から本作についての感動のことばをいただいたが、作品が介在す

ることで、特別に妙味のある対話ができたことがなによりもうれしくありが

たいことであった。

 

アート作品は、完成すると作家の手を離れてそれ独自の世界を生きていく

──── 確かにそのことは一面の真理だが、しかし私は、自作を介して

美感覚の鋭敏な方たちと、具体のことばによって、作品に感じた印象とか

そのほかの思念のやりとりを愉しむ …… 

ふだんは意識にのぼらない「人生時空の深遠につながるような思い」が

アートが介在するがゆえにふつふつとする ──── そういう、そのとき

一回限りの時空を、とてもいとおしく感じてきたのである。

 

 

 

 

ところで、この機会を利用してぜひ記しておきたいことがある。

 

 

一回限りの人生をゆたかに生きるためには、自身があらゆるフェーズで創造

的であること、そして、内面宇宙が共融できるよき他者をもち、その無限性

の共融世界を愉しみ、大切にすることであろう。

人生時空の新鮮さと深さの醍醐味は、いまこの時の《瞬間》の中にある。

深く広く考えることも大切だが、《自分の軸》で、とにかく実行すること

である。

 

この現実の時空はゆたかさに満ち満ちている!

現実の時空は、いいもわるいもミックスされた世界であり、片方だけでそも

そも成立するものではない。ネガティブもきわめてありがたいことなのだ。

 

現実の時空に存在している《リアルな形》について眼を転じてみると

まず、人間が生みだすものは、人間存在の外の「自然界」は絶対生みだすこ

とはできない、というあたりまえの真実に気づく。

このことをまず最初にきちっと認識しておくべきであろう。

 

そして、人間が生みだす《リアルな形》のうち、《機能をもった形》は

考えてみれば不思議な形をしている。 《機能》の求めに応じて生まれる形

なので、それは力強さを有し、しかも、はじめて形にされるときのことを

想定してみると、ある「単一の機能あるいは複合的な機能」に応じて

それ以前には見たことがないような奇妙で不思議な形を体現していること

に気づかされる。

そして、機能的な形をつくるときにも、《本能》に根ざした人間固有の

《美意識》がおのずと動く。 しかし、あくまでも、美意識云々の以前に

《機能》が前提されているのである。

 

《アート》における表現体は、創造する人間の内面宇宙との往還で生まれる

が、そこに、先天的な才能とか、美的感覚とか、偶然性とか、脳と密接に連

動する手の動きとか ……  複雑系の宇宙が動き、そのすべては、明確には説

明できぬ《丸ごとの世界》である。 

そして、つねに、「未知なる世界」への探索であり、だからこそ、《新鮮》

である。

 

人生のプロセスにおける経験と記憶が、無意識的内面宇宙の《連想》を動か

し、内面宇宙内の想像できぬ複雑な脈絡と感覚器官を通したイメージとが

融合して、たとえば《具象的》な絵画とか立体作品などが生まれる…

 

そして、外界に存在する具体的な形とある意味の距離をたもちつつ、創作者

自身の無限性の内面宇宙の脈絡の中をさまよいながら、「これだ!」と閃く

直観的なアイデアの湧出に遭遇し、《抽象的》な表現体が生まれる…

いずれにしても、創作者は、自己が体験してきた世界を超える「新鮮な独自

世界」を見たいのだ。

 

 

機能的な形とは一線を画する《自由な表現体》を、自立的に生みだし、愉し

むためには、創り手が生きている時代とか、文化とか、あるいは、自己の

過去の記憶と連想性などと、脈絡をもちつつも、その全体を超越する

《自分自身にとっての真に新しい世界》を求めるしか道がない。

 

それは容易なことではないし、迷いの旅路でもあるが、だからこそ

その探索は醍醐味があるのである。

 

 

アートを生みだすことを愉しんでいるその人間自体が、この宇宙が生み出し

た存在なのだから、とにかく、この宇宙のスゴサは言語を絶しているという

のではまだ足りないくらいの《無限性の奥深さ》のスゴサである!

人間存在は自然系の内側にありながら、しかし、その人間の自律的な知は

宇宙の一部の一部の… ごくごく一部の範囲にしか永遠に及ばないにちがい

ないのだ! ───── このことこそが根底的なこの宇宙の矛盾であろう。

 

 

自己と他者 ─── 自分のことは自分が一番よくわかっていると簡単に考え

がちだが、実は、自己の持ち味を味わって愉しんでいるのは他者なのだ!

そうはいうものの、他者が創造したものや与えられた世界を受動的に味わう

だけでは、決しておさまらず、創作者は、唯一無二の自己独自の宇宙の中を

探索しつづける…

 

 

 

写真:筆者撮影

Copyright© Hata Ryutocu. All rights reserved.

 

 

《本》の異化造形──感動 と 増幅された《内なる迷宮》への誘い_                         佐藤省作品

美 ○ 会う 美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

《本》という人生に寄りそう存在───その本の形を異化する営為が見事なかたちで結実したきわめて秀逸な展覧会があった。 素材が《本》なので、異化の営為というプロセス自体が作家当人にとって《 人生という宏大な宇宙 》を深く見つめる特別の時間になったという。

 

作家によれば、縁あって出会った文庫本を、解体、一頁ごとに折りによって半立体化する営為は三年以上にわたったという。

その時間は、言の葉をとりわけ大切にして創造的に日々を生き、視覚的な表現体の優れたクリエイターでもある氏の ── 内面世界と実時空とを自由に飛翔往還する感覚的な宇宙の旅 ── あったのだと想う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作家の佐藤氏は、本の装丁に違和感を感じるとその本の表紙とか挿絵を自身の手で描いたもので創りなおしたりすることもしてしまう人だ。

 

今回の展覧会に並んでいる解体/再形体化された文庫本は、本のタイトルに惹かれ対象にしたものを含め、氏の内面になんらかの響きをもたらした120余冊…

 

既存本の異化造形は、つまり、本という「著者の人生時空の結晶」の《 他界 》の試行 ─── というギリギリのところでの営為だ。

それが控えていると、行きつけの古本屋で目にとまり不思議な縁を感じながら購入した文庫本を熟読することになってしまい、また、かつて読んだままになっていた蔵書の文庫本をふと取りあげて自ずと丹念に再読してしまった… と氏はふりかえる。

 

それは、いわば ─── 惜別の読書!───

 

 

本展は、作家にとっての「人生に絡み合う《 知の底 》との触想」の軌跡の ──多層的連想を誘う淡い造形詩──であり、作家のこだわりが手の温もりと共に伝わってくる愛着の《 人生詩 》もあったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

展覧会が開催されたギャラリーは個性的な独立した建物で、ギャラリーの入口を入った客は、室内空間いっぱいにびっしりと並べられた紙の造形物にであい、「これは…

スゴイ!」と目が釘付けになってしまう。 「DMからはまったく想像できなかった!」と 客の声がする…

 

 

2600余の同じ折り方の半立体がリズムをつくりながら並んでいて、でも、どれひとつとして同じものはなく、折られた半立体の個々の形と陰影が、微妙に変化しつつ連なり、しかも、場所によって唐突な変化も見せて… そうして、全体の並びの行と列とが、ゆるやかに蛇行し、広がっている…

その様相は、風でゆったりとうねる水面さながらの沈黙のウェーブ………とでもいうのであろうか。

しかし、個々の紙の立体はしっかりとそれぞれの形姿を顕示しているので、手仕事と自然的なゆらぎの景との共融が、こちらの視覚を泳がせ、宙吊り状態にされてしまう…

 

 

折られた素材は文庫本の頁の一枚一枚だから、古い本は紙の色が変化したりして、その色の違いが全体の景の中に、融けるように島状に浮かんでいる… それが、なんとも言えぬやわらかなメリハリを景にあたえていて…

ぬくもり感とともに、幾何的なムーブメントが、独特の美で息づいている…

ギャラリー内には天井中央のトップライトを通してしずかに天空光がそそぎ、壁はコンクリートで、木の床の上に並べられた折りの個体群は壁との間に人がぎりぎり通れる余白を残して空間一杯に展開されているので、《 硬質な壁面 》と《 紙の 軽やかでやわらかな印象 》とが心地よい対比で融和している。

 

 

 

 

 

 

 

この作品は、ギャラリー空間の特質を最大限に生かした《 空間共融 のアート 》であった。

 

《 特 時/特 場 の 瞬間的アート 》であり、つまり、一回限りしか出会えないアート!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外周の壁面には解体された120余の文庫本の表紙が点々と配置され、また、トップライトの大きな上部吹抜けの近傍に表紙が宙に吊るされ、かすかな空気の動きに反応している……

 

表紙のタイトルは見えるようになっていて、その配置にあたって、ここは!…という場所には、文庫本の中身に応じてジャストなものが選定され、作家の話を聞くとその意味合いが納得できる。

 

展示全体が、あくまでもさりげないありようで、またちょっとした気のきいた創意があちらこちらに込められていて、腰窓から望める〈坪庭〉との関係もふくめて、「眼にはいる《全体の雰囲気》をこそを調和させたい!」───という作家の強い美意識が伝わってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文庫本の解体/再形体化という長い時間の過程は、作家自身にとって、単なる作品創りというよりは「生きる時空そのものを深く考える《いまこの時》の新鮮な営為」であったのであり、一方、来廊者にとっては、展示されているものが《本》という特別の素材に由来する表現体であるので、感覚とイマジネーションとがおのずと《宏大な世界》へと誘われてしまう特別な自由時空を醸していた。  

 

そして作家自身が、、ギャラリーに作品を搬入するときから、折りの半立体のギャラリー空間中への展開をわくわくしながら行い、日々会場で、光の推移とともに移ろう景を確かめ、愉しみ、そして、来廊した他者と共に《この世界の妙》を想う───という贅沢で幸せな時間をゆったりとすごしたのだと思う。

 

別の表現をすれば、作家自身にとっての作品制作と展覧会は、ことばの世界を介しながらも「言の葉を超えた《人間内奥の無限宇宙への自由遊戯》」ともいうべき営為であったのであり、展示を訪れた他者は、《本》という特別なものが異化された《明瞭に立つ具体の景》を眺めつつ、解放の気に抱かれて思い思いの時間を過ごす ─── そういうゆたかな《響き合いの空間》であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の佐藤省氏の創作行為と作品は、通常のアートのあり方とはまったく異なる、言わば《異次元の時空》との遭遇であった!

 

 

その昔 父親の蔵書にうもれて育った氏は、今回の展示を

今は亡き父に見せたかった…と。

 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影

Copyright© Hata Ryutocu. All rights reserved.

〈 虚 空 の 立 体 〉─── ミニマルな点形と意図の外の配置       三次元的形体保持が困難な 紙の薄さ ゆえの美 │ 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

厚さ 0.2ミリの《白色の面》が生みだす光と影の世界…

ボリューム感が消え クリアにそこにある表相と

やわらかな陰影とが対比しつつ混交する…

「眼とイマジネーションの脈絡宇宙」が、定位せずに

浮遊していく…

 訴求力の強いアート作品とはここが異なり、観者が

作品によって限定的世界に強く引きこまれてしまう

のではなく、逆に、作品のやわらかな存在性から

「きっかけ」をもらいつつ内面宇宙の脈絡が自律的に

自由に生動していく─── そんな淡い浮遊的な世界…

 

 

作品の根底には、《重力》と「それがもたらす世界感覚」がある。

重力のもとでは、水平面から分離して立つ物質は最小限

3点で支持されることで安定する。

「くの字」に曲げた紙は、同じ原理で安定的に立っている。

その「くの字」の垂直方向の面に《水平の面》を付加する── この構成を点形の形姿の出発点にすえ、さらに基板上に伏せた水平面 あるいは 浮かせた水平面に直や斜めの面が絡まり、ゆらぎをもった複合景を形成している。

(折れ面を構成するすべての面が、単純な矩形またはその組合せでできている)

 

この作品は、個々の点形の《配置》が、作為的に決められていない!

点形の形姿を検討するために、マケットを0.2ミリ厚の紙で作っていたのだが

展覧会の展示台の寸法にあわせて予め用意してあった正方形のマット紙の上にマケットをできた順に奥のほうから並べていた ─── その偶然の《配置》がとても美しい景をつくってくれていたのだ…

 

 

明るい自然光が射し込むアトリエのテーブルの上にマケット群が置かれていたのだが、それをたまたま逆光方向から見た瞬間のことだ!

まわりの空間からくっきりと浮きあがる「物質性の消えた矩形の軽やかな表相」の明と暗とが重なりあい、視角のちょっとした移動で大きく変化する…

そして、きわめて繊細なグラデーションを呈するやわらかで美しい陰影がそれを包み込むように寄りそう…

 

これまでに体験したことのない《妙なる景》との出合い!

 

「ひかりの世界」へと ─── 導かれたような作品!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふりかえれば、マケット用の紙の選定が幸運を導いたのだ…

それは、水性インクのプリンター用紙であり、表面のコーティング材は、独特のホワイトだ。 その独特の「光線の全反射性」が超現実感覚を誘っている…

そして、0.2ミリという紙の薄さが「物質的な存在感」を完全に消失させ、三次元的立体を非現実化して、《光の純化世界》を出現させた。

それに加えて、非恣意的な構成による配置───という「ゆるさ」の力…

 

こうして、「明確な把握」が特質の《視覚》に対して、

その視覚感受の「慣性」を超越した視覚の脈絡宇宙を拓かせてくれた…

「慣らい性」は感覚世界でも強固に基盤をつくっていて、そこを脱け出すのは非常に困難だが、この作品は、

「質量感のない白色の片」と「霧のような陰影」とが共融して、観者を《視覚慣性の外》へと宙吊りにする…

 

「想像運動の慣性」を超越させる《ゆるさと共にある希薄な存在》のもつ力…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この作品は、昨年末(2022年)に東京京橋のアートスペース羅針盤で開催されたMessage Art展(*-1)に出品された。

 

本稿に掲載した作品写真には、私のアトリエの室内に拡散したソフトな自然光のもとで撮ったものと、ギャラリーの人工照明(LEDスポット+蛍光灯)のもとで撮ったもの、との2種類が含まれている。

これまでに記した作品に関する論は、アトリエでのやわらかな光線の中で作品を見たときの印象をベースにしている。

ギャラリーでの作品は、当然のことながら明暗のコントラストが強く出て、アトリエでの印象とは相当異なるが、

でもそれはそれで、より訴求力の強い見え方をしていて、多くの方々の口から「美しい!」という言葉が発せられるのを耳にした。

 

 

 

 

 

 

 

   本作に「光と影の階調のゆたかさ」を感受された

   召田能里子氏が偶然に捉えた共融美の写真 (*-2)

 

 

 

 

 

のアトリエでこの作品に接した現代美術作家の金子清美氏(*-3)は、作品に対する次のような印象を伝えてくれた。

 

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それはまるで自ら場を選んで立ち上がってきたかのようにそこに在る。

11個の立体物の連なるその空間は白色景となり

あらゆる思考の敷居を飛び越えさせる…

 

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同展の企画者である現代美術作家の佐藤省氏は、ユニークな視点からの丁寧な作品評を寄せてくれた。 以下にその作品評を掲載させていただく。

 

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照明を浴びた紙の、頼りない薄さが台紙から立ち上がっている形は、それぞれの形状をその位置に確保し、影を落としているのだが!─── 存在感はほとんど無く… それが、現実感を喪失していて…

 

前回の作品(*-4)が、非常に形の内奥をこだわり、それぞれの位置関係や影を細密に予測しての紙の姿だったのに比べてみると…

前作は作品範囲をきっちり決めて、結界を張っているようにも見えていたが

今回の作品は、地平へどこまでも広がっていくような…

自由に紙片が動いて見える。

 

こちらの角度から… と作家は作品を見る方向のことをを話していたが、その角度は確かに影が多重に重なり合って、人工照明によるごく微妙な分光現象をふくめた「立体の存在感」は素晴らしいのだが、しかしそれは当然のようにも思え、

逆に真っ正面から照明を浴びた、影の無い真っ白な形状が、妙に心にグサリささる。

何故なのだろうか?

 

この視角だと、影が無いのに、重なり合う形状が永遠と

彼方へどこまでも連なっていくように感じさせる…

影は、形を限定してしまうからかもしれない。 

影は、存在を浮き立たせながら…  時を刻むように、紙片そのものに潜む何か!─── を奪っていってしまうようにも感ずる。

 

際立つ白さの美しい紙片の織りなす世界ゆえに、あれこれ思う…

 

毎年、今回の作品の方がいい!───と思わせる作品を

生み出せるのは素晴らしいことだ。

これは、創造世界における作家の「許容量」の問題なのかもしれない…

 

佐藤省 記

 

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本作品に関する印象を、

 

現代美術作家のDominique HEZARD (ドミニック.エザール) 氏は、「線、光、オープン」…と、シンプルに三つのワードで語られ、また、吉田貞子氏は、「(形が)無造作に置かれている …   構築を崩していくその過程 …」と、間を置きながら話された。 

赤川慶祐氏は、「つかみどころがない… 癒される…」と語り、照明の当たる側ではビル群とかベンチの人とかに

見えたが、反対側に廻ったら、こんどは「影の美しさに

出会った!」と。

 

 

このような感想の言葉が鏡になって、その語り手の内面のさまざまな様相が察せられるのだが、私にとってはそこがおもしろい。

語り手が造形作家であれば、この世界の形あるものの

「本質」をどう捉えているのか? 関心をもっているのか? ─── そういう面を、見当違いをふくめて勝手に想像するたのしみが湧いてくる…  こちらが、その作家の実際の作品世界を知っている場合は、その世界との対照ができるから、語られた言葉の内容がその作家にとってどれほど基盤的なものであるかが推察されることもあり、たのしみがさらに本質的なものへと深まる…

 

 

ところで本ブログの中に、さまざまな発想の自作オブジェが掲載されているが、

たとえば、《水影》という作品は、山中の湿気をふくんだ夏の空気と明るい空の景、そして緑に覆われた山の斜面…といったものの漠然とした全的印象を、陶土を用いて形にしたら一体どんな形になるのだろう?─── と、自分の見えない内面宇宙の脈絡の創造性を遊んでみた作品だ。 

たまたま、その場所に陶芸作家の大きな工房があり、そこをお借りすることができたので形象化をすることができたのだった。

制作に先立って はっきりした造形のイメージがあったわけではなく、創作過程の中で瞬間瞬間にさまざまな美意識(たとえば、形のエッジをどう仕上げるか?…など 細かではあるが非常に重要な判断などをも含む壮大な宇宙の運動)が動き、その結果、思ってもみなかった形が眼の前に出現する! アートの美の創造には、自由な生のすべてが

かかわっていて、奥行が無限で実に壮大である、と思う。(*-5)

 

ちなみに、私は、Message Art展には第一回展から参加しているのだが、この展覧会は、今では ほどよい人数の作家たちが年一回集い、作品発表を行う貴重な場として純粋なかたちで機能していて、選ばれた作家たちがよい意味での緊張感をもって参加されているように感じる。

 

こういう発表の場があることはとても幸せなことであり、

自分も「今このときの 真に新鮮な作品」をこの場に持ち込むことで、展覧会のたのしさと、それを介したひととひととの関わりの妙を、私なりにすこしでも盛り立てられれば ─── と、ずっとそう思って参加してきた。

 

 

 

 

*1 ──  Message Art展は、現代美術作家である佐藤省氏の企画展で、年一回12月に開催されてきた。

今回は第15回展である。 

会場はこれまで何回か移動してきているが、一昨年から、京橋の〈アートスペース羅針盤〉で開催されている。

 

*2 ──  今回のMessage Art展に「蔵王のお釜」に因んで二重構造のすてきな陶オブジェを出品されていた作家。 「眼に見えないもの」に照準をあわせて作品制作をされているとのこと。

 

*3 ──  筆者設計の建築作品の中でアートウォールを制作してくれたことがある現代美術作家。アート作品に加え、秀逸なインスタレーションを多数見せてくれている。 本website および blog内に掲載されている氏の作品の中のいくつかを以下に掲げておくので参照されたい。 

 

証券会社サロン のアートウォール 2005年 →  www.ops.co.jp/ops016_17.html

同 上  →       www.ops.co.jp/ops016_18.html

足利CON展 インスタレーション《束の間》2018年 → http://ops.co.jp/wp/?p=1974

 

*4 ── 本ブログの中に、同作品に関する自作論があるので参照されたい。

http://ops.co.jp/wp/?p=2729

 

*5 ──  http://ops.co.jp/wp/?p=2264

 

 

 

写真:筆者撮影

─── 本文中(*-2)の写真:召田能里子撮影 

 

 

視 覚 の 本 能 性 の 外 へ │ 小スケールの形体と共にある     〈ほのかな空間性〉を感受する│畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

この作品は、小スケールで、二次元平面から立上がる

きわめてシンプルな形体をつくり、物質的な「形の存在」

と、その「近傍の空間」との 感受されないか、されるか

の きわどい共融のありようを、美的な状態で具体化する

ことを試みものである。

 

 

 

 

       

 

 

 

透明な空間は直接に見ることはできないが、たとえば聖堂

天井高の高い内部空間とか、パースのきいた長い廊下と

か、大きな平原の広がりなどに接すると、だれでも、気配

のようそこにある「空間性」を感じているであろう。

 

小さなスケールの3次元世界では、ふつうは「空間」を

見ることなく、「形」の方を見ていると思われるが、

しかし、モノとモノとの「関係」を美的に調和させよう

すると、そこにおのずと「空間」が介在してくる。  

モノの外姿自体が、相互に調和する関係であるかどうか

いう問題とともに、モノとモノとの間合いの関係とか、

まわりの空間のありようとかを同時に考えないと、調和

した世界にいたることはできない、ということはいう

までもない。

 

 

作品は、58センチ角の平面上に展開されいて、異なる

個形体が6個、その上に配置されている。

素材は厚紙で、それぞれの個形体は、まず紙に展開図を

描き、それを切り抜き、折り曲げによって作られた。

「接合」ではなく、「折り曲げ」にこだわっている。

 

人の視覚は、おのずと「形自体」に向かってしまうもので

あるが、それを避けるために、現実の空間体験から記憶化

される「既成の形体イメージ」、たとえば、建築とか、

そういうものから距離をとりながら今回の造形を行って

いて、それは、何か形を見たときにおのずと誘発されがち

「連想」の世界に行ってしまうと、意識がそこ止まりに

なって、「モノの形と共融してほのかに存在しているはず

の空間性」に眼が行くようなデリケートな視覚が立ち上が

るチャンス失ってしまう、と想像するからである。 

 

少なくとも視覚が鍛錬された人であれば「形相互の配置

関係」の良しあしを直感するであろうが、それは、意識が

自体〉に固着した中での〈空間性〉の感受であって、

今回の造形では、もっと解き放たれた視覚と無意識脈絡の

中で「モノの形と共融してほのかに存在しているはずの

空間性」におのずと視覚が向かうように、造形そのものを

工夫した─────そういうアートである、ということである。

 

厚みをもたない紙が、水平の状態から三次元へと立上がる…

しかも(折り曲げ)によって立上がる…、そこに同時に、

きわめて、きわめて、ほのかな空間が初々しく生起して

いるのを、静かに眺める…

 

 

───視覚原理をちょっとズラすような

                           そんな「美的オブジェ」───

 

 

前述したように、小さなスケールの空間では、人は

「空間」感受することなく、モノの「形」のほうを見て

いる。

そして、あるモノが、なにか他のモノを連想させること

しばしばあることから、今回の作品では、連想をできる

け招かないような、つまり、「現実世界の体験の中では

見かけないような〈形のありよう〉」を求めることで、

無意識下で呪縛されている「形のみを感受してしまう視覚

の本能」からできるだけ離れられるように工夫した。

 

そうすることで、「形体/近傍空間の共融」という原理的

な世界を、小さなスケールでの、初源的かつデリケートな

様相として、しかも美的造形に傾斜しすぎてそれだけに

はまってしまうの避けながら、ぎりぎりのところで

創生することを試みた。

 

 

個形体に関しては、いくつもの立体スケッチの中から、

今回のテーマに照らしてより本質的と思われるものを

厳選した結果、水平の面が垂直方向へと折れまがった

もの、垂直の面が壁状に連ったもの、コの字型の

ゲート状のものと水平の面の中間が山形盛り上がっ

たものとの組み合せ、水平面が基板から浮き上がっ

もの……等々の より初源的空間生成形体が配置され

ている。

 

 

写真では、ご覧になる方の想像的な感受になってしま

うので、肝心なところがお伝えできず残念ではあるが…

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作品は、今月の13-19日にアートスペース羅針盤で開催

されたMessage Art 展  vol.14」(*1)に出品した

が、作品に対する反応は当然のことながら、さまざまで

あった。

 

 

 

まず、本展の企画者の佐藤省氏は

 

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平面から立ち上がる形の変化が不規則に散在しているが、

その位置しかない!  とおさまっている。

 

その形をめぐって、「不可視の空間」が、影を通して見え

いる感じは、静謐な時を確実に維持しながら

「曖昧な儚さ」のようなものを孕んで…

 

そういう印象は、厚紙という素材の端正な姿からくる

「柔らかな硬質」という相反する特性が作用して

もたらされているようにも思う。

 

見えているのに、なかなか視界に収まらない宇宙を呈して

いて…

透明感に満ちた、鮮度高い香りを放っている作品だ

思う。

 

平面から立ち上がる形の高さが、高からず低からずで、

そのバランスの妙味はさすがだ!

 

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本展に参加した陶オブジェ作家の召田能里子氏からは、

「見たいと思っていたものに出会えた感じで、きわめて

シンプルな形の中に、深さがある…」との反応をいただいた。

「影が立ち上がったような形…」と、おもしろい感想を

語ってくれた和紙の造形作家である五十嵐美智子氏、

これから成長してような気配をもった造形… と

いった感じ方をされた人もいた。

 

作品の抽象性が通常のアートとはかけ離れているので、

どうしても記憶からくる形の連想性で感想を語る人が

いたが、一方で、作品を前にしてわかりやすく説明をする

と、会話が進展して、いろいろ感じているところを正直に

語ってくれた人が過去のMessage展の時に比べ多かった

感じで、今回の作品の特別な性格が、ゆたかな会話時間

を招来してくれたように思った。

また、観者が自身の好みで作品を選ぶのは当然であるが、

たとえば、創作家が、単なる好みを超えたところの

「何らかのおもしろさ」に関心をもつような、そういった

内面の広がりというか柔軟性と、距離をもった人にとって

は、とっつきにくい作品であったと想像するが、

ともかく、アート世界における「人の内面はそれぞれ…」

という自由は、かけがえのないものだし、また、個性を

超えて、人と人の間に「作品が介在しての新しい内面の旅

が開かれる…」という可能性があり、その旅が、人生の

滋味深い時空と絡み合っているところもあったりで、

なんともすばらしいと思う。

 

 

 

旧知の友人である藤井龍徳氏(*2)に、今回の作品の

趣旨と写真を送ったら、電話をくれて、作品をめぐる話

からこの世界の真髄にいたる話まで、おもしろい時間を

すごすことになった。

以下に、氏が語ってくれたことばの要点を記してみる。

 

 

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── 今回の畑作品を見ての印象 ──

 

とても心地よい作品で、紙という素材をこういう風に

使っているところが好きです。

何て言うのだろうか… 畑さんの中に浸みこんでいる

本来的にもっているものが、これまで、無意識下に抑え

込まれていたものが、出てきた…

一体、畑さんの内部に何が起こったのか? …

そんな印象をもった。

 

単に、美しいとか、おもしろい、とか、そういうものとは

違って、ここと関わりたいなと自分も思いつづけてきた

だが…

 

「不可解」ということばが大好きで、空間についてはその

大小いうのとは違う無限性の中のそれを思うし、時間に

関してもそれが、あるのか、ないのか… そういう感じが

ある。

 

作品の趣旨説明の中にある「共融」ということばにも

響いてくるものがあり、それは、空間の中だけに限られた

ことではなく、人それぞれがその「共融」の世界なのでは

ないか…

人は、仕分けしたり、固定することで、ものごとを捉えた

がるが、そもそも、「固定できない」ということが

もっとも重要なことでは…

 

 

────────────────────────────────

 

 

 

 

 

*1 ── Message Art展は、現代美術作家の佐藤省氏が

             企画する展覧会で、年一回、12月に開催されて

     きた。

     会場はこれまで何回か移動してきているが、

     昨年から、京橋の〈アートスペース羅針盤〉で

     開催されている。 

 

*2 ──  藤井龍徳氏は、自然界に深くつながりをもった

     インスタレーションを行ってきた。過去に私が

     書いた作品あるので、ご覧いただきたい

             http://ops.co.jp/wp/?p=81

             http://ops.co.jp/wp/?p=1152

 

 

 

写真:筆者撮影


変 幻 す る 素 材 に よ る 造 形 ─── 簡素な構成による複雑景    〈明瞭と妙〉│ 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

機能をもつもののデザインではなく、もっと自由なかたちで

〈おもしろい形〉を生みだしながら、〈今このとき〉という現在進行形

の時空で、真におもしろい形、新鮮な形、観者を宙吊りにする〈とらえ

られない不思議な形〉、あるいは、ほんとうに美しいものに出会った

ときに無心で作品と一体化してしまうことがあるが、そういう〈全的に

完結した単純美〉というのとは異なるもの ─── つまり、ひとつにまと

まっていない〈どこかで開かれたところのある世界〉としての作品……

これまで、そういう〈形をめぐる探索〉を私はしてきた……

 

 

作品という具体の形と、ことばによる説明とは、もともと別の世界では

あるが、それでも、ことばによって、 「形をめぐるさまざまな脈絡」 に

ついて考え、無意識下の世界との脈絡に関してあえて直観的な想像を

あれやこれやとめぐらしながら、形や美の深淵に触れようとする

─── そういう人生上のたのしみが私にはある。

 

ある人がアート作品を見たときに、体験したことのないものを作品に

感じ、惹きつけられ、気持ちが動き、視点の移動に応じて形と空間性を

たのしみ…… そして、ある種の世界観とか人生観といったものまで感じ

とるかもしれない……

 

 

とにかく、まずは、自分の手を動かしながら 「〈具体の形〉を生みだす

感覚的で、知的で、情感的な、探索の旅」 に乗り出すこと。 

そうしないと、なにも始まらない……

 

 

 

今回の作品に用いられている素材は、アルミメッシュと白色の厚紙の

2種類。

シースルーなアルミメッシュの方は、とても繊細な線材で構成されていて

ひとつひとつの菱形状の開口を囲む線材に角度がついているので、光の

当て方変われば見え方ががらっと変わるし、見る角度がほんのすこし

変わるだけで材の部分部分の表面の輝/影が反転したりして、全体の景が

意想外な変わりかたをみせる…… 場合によっては、作品の背景の明度に

溶けこんでしまい、作品の部分あるいは全体の姿が消失してしまうこと

さえある……

(→ 同じアルミメッシュを用いた前作 「明滅する瞬間」 のブログを参照

されたい *1)

 

 

そのように変幻する形姿は、見る者に不思議感をさそい、その不思議感が

作品から湧いてくるものを、より見えたり、より感じさせたりしてくれる

にちがいない。

 

作品のもうひとつの素材である白色紙は、これも光線や見る角度によって

背景の白い壁面に同化してしまい、形の輪郭が定かでなくなることがある。

 

そういうことで、ここに掲載した作品写真を見ると、それぞれの作品の姿

がおおきく変化しているが、すべて、同一の作品をいろいろのアングルで

撮影したものであることを記しておきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

作品創りは、自分の〈形に関する美意識〉をつねに働かせながら

試行を重ね、そして、結果としての〈具体の形〉が、とにかく

おもしろいものになることを目指す。

いくらコンセプトが考えぬかれていても、結果の形に魅力がなければ

ダメである。

 

 

今回の作品のタイトルは、「明瞭と妙」 としているが、そのタイトルの

意味するところを〈実存形〉に表現するべく目的的に制作をおこなった

─── ということでは、決してない。

 

「明瞭と妙」 という概念は、人間が生きるこの世界の根源的なふたつの

次元である〈限定〉と〈全体性としての宇宙〉のことを表していて

たとえば、〈記号〉とか〈ことば〉は、限定原理の上に成立している。 

一方、たとえば音楽とか味覚とかの世界は、全体まるごとが感受されて

たのしむものである。

 

科学的思考あるいは正確な思考は〈限定原理〉による明瞭の世界の一方

の極域にあり、芸術は〈妙〉を味わうもう一方の極域にあって、ともに

純化された基底的世界である。

人は、〈明瞭〉と〈妙〉のふたつの世界を、いったりきたりしながら

きわめて複雑な生き方をしている……

 

 

こういう〈明瞭〉と〈妙〉というふたつの世界についてのイメージや

概念は、世界観の座標系のようなかたちで、つねに私の頭の中に活性的

に記憶されている。

そもそも今回の作品創りは、一年前に制作したオブジェ 「明滅する瞬間」 

に用いたアルミメッシュという新しい素材のさらなる造形の可能性を求め

てスタートした。 

そこでは、「相互に異質な特性をもつ〈形体〉の対峙/共鳴(=完結的な

統合ではないもの)」 という〈構成テーマ〉を考えていた。

そうして〈形体の可能性〉を探索してゆく途上で、〈明瞭〉と〈妙〉と

いう興味深いふたつの概念無意識世界から立ち上がってきて、「物質的

存在としての形のおもしろさ」 をあくまで第一義考えつつも、そこに

このふたつの概念が自然にからまってきたのである……

 

 

 

 

白紙による造形は、一枚の紙を、カットと折りだけで立体化したシンプル

に徹した作法でできているのだが、やや複雑さを感じさせるその構築的な

形姿は、暗に、〈明瞭〉と響きあっているようなところがある……

 

 

 

 

 

 

 

 

一方のアルミメッシュによる造形のほうは、平板を視力検査の記号のよう

に一部に切れ目をもった円筒に加工して、その開いた部分に紙の造形を

微妙に入りこませた。    

さらに、その紙の造形と共鳴させながら、円筒内の空間の〈内奥の芯〉

としての自立型の〈小さな円盤〉を配置した。

この円盤も、一枚のアルミメッシュ板から、カットと曲げだけで作られた

一体型の作りであるが、円筒メッシュ越しにその〈存在〉に気づくのは

反射光で円盤が光っている限られた角度からであり、だから、はじめて

作品を見る人は、円盤があることに気づくのにすこし時間がかかったり

する。

 

 

 

 

 

 

 

 

それに加え、円筒メッシュ越しに見る〈紙の造形〉の方も、見る角度で

同様に形の一部が見えたり消えたりするので、作品全体の景は、眼線の

移動にともなって、それこそまったく想像のできない変わり方をみせて

くれて、それが、この作品の〈不思議さ〉を増幅している……

あるかないかの希薄な存在感の〈小さな円盤〉を内に秘め、微妙な

シースルー景を見せてくれる円筒メッシュによる空間構成ほうは

見る側の無意識世界の無限脈絡との関係でおのずと立ちあがる〈妙〉の

世界と、暗に、響きあっているようなところがある……

 

結果として、作品の物質的な形姿と、もともと私の頭の中に活性的に記憶

されていたこうした概念との〈あいまいな呼応〉を抱きつつの造形は

作品の景の見え方に、観者の内面における無意識的背景の脈絡による

〈ゆらぎ〉の味わいをそれとなく添えてくれているのではないか ───

と、私は勝手な想像をして、たのしんでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の作品は、素材自体がもつ〈表情の変幻性〉、アルミメッシュ越し

〈透視像の明滅性〉───────  という基本的な条件を生かしつつ

ルミメッシュと紙というまったく異質な素材を対峙/共鳴するように

「シンプルに徹しつつも、単純ではない形体」にそれぞれを造形する

ことによって、限定されたスケールの実存立体の中に

見る側の〈内面の無意識時空〉への奥行きとともにある《複雑景の妙》を

これまでにないかたちで実現できたように思う。

 

そして、作品を見る眼線の移動と、おのずと動く視界の限定/拡大運動に

もなって、《複雑景》は、さらに別の、まったく意想外な景へ

自然に、ひらかれてゆく……

 

 

 

 

 

*1 ────   明滅する瞬間    制作・発表:2019年    

                      http://ops.co.jp/wp/?p=2423 

 

** ────   明瞭と妙 制作・発表:2020年

 

 

写真:筆者撮影

 

ワイヤープランツを用いたコンテンポラリーアート│金子清美作品

未分類 美 ○ 会う 美 ○ 思索

 

 

 

                                        

 

 

 

栃木県足利市の artspace & café で開かれている〈やわらかな重力〉

で、金子清美さんの近作をみる機会があった。(*1)

 

ギャラリーの一角には、インスタレーションの要素としてこれまで制作

してきたさまざまな造形 ── 一部新作も含まれているが ── が並べら

ていて、日常の身近な素材や多肉植物などを用いたきわめてユニーク

が、しかし、さりげない造形個物たちの混成世界をたのしむことが

できた(タイトル:夢想空間)。

 

 

 

ところで、今回の出品作でとくに筆者の眼を惹いたのは

ワイヤープランツを用いた額入りの新作群である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金子は、自邸の庭で育てているワイヤープランツを乾燥させて

まとまっを保存している。

それを用いた作品を過去にも発表しているのだが

 

(→ http://ops.co.jp/wp/?p=1745

(→ http://ops.co.jp/wp/?p=2087  に掲載の掛軸)

 

今回の作品は、奥行きをもつ額縁入りの作品で、ワイヤープランツの枝

の〈複雑微妙なゆらぎ〉のある非幾何的なラインを生かして造形し

額の背面に映じた手前の窓のシャープな影とワイヤープランツの淡い

グラデーションの影とをともなって、複雑微妙にしてシンプルな構成の

美しい世界を生みだすことに成功している。

 

それは一瞬ドローイング絵画を連想させはするが、作品の立体性が深み

生み、視る角度によって作品の陰影の表情が微妙に変化する…

 

 

 

自然が生みだす有機的なラインと作家の美意識とが鋭敏に交絡する

試行錯誤から生成してくる立体性とともにある絵画的な構成 ────

とでもいったらよいか…

 

 

〈自然性〉と〈作家のアート的感覚宇宙〉との、交絡 / 共生の美…

 

 

ここには、画材を用いた通常のドローイングとは隔絶した別世界が

あり、作家の手の技のみに依存しない 「ある意味の〈不自由〉の中で

はじめて獲得される〈自己を超えたゆたかさの美〉」 のようなものが

実現されていて、すばらしいと思う。

 

 

自然と人間の内面宇宙との、はざまに成立する《相互変位の造形》

 

 

 

あくまでも、制作は人間側の意思と手によって導かれ、それを享受

するのも人間であるが…

 

( しかし、人間も宇宙の一部として生まれていることを考えれば

美的センスを働かせた制作と作品の享受というプロセスの全体は

この宇宙の中のできごとである ──── ということになる )

 

 

 

金子は、自己の個性を意識的にストレートに出した表現を好まない

作家であり、あくまでも 「さりげない表現」 を大切にしている作家だ。

 

身近な日常の時空に静かに身をおくことを好み、ひとりで自由に

夢想時空をたのしみ、そこから自然に、ユニークだが

さりげないアート作品生まれてくる…

 

身近な自然や日常の生活時空に深く密接したまなざしが

創作の根底にひかえていて

そのことが、今回のワイヤープランツを用いた作品に

つながっている…

 

 

 

 

                                             

 

 

 

  

アトリエの日常時空がギャラリーにもちこまれたような

「夢想空間」と命名された《場》としての作品……

     

この「夢想空間」の存在が、その場にいる人間と展示さ

れたアートとのあいだの関係を、このアートスペース兼

カフェという性格をまさに生かして、ゆったりとした

集中~ゆらぎの時空シークエンス」 にすることに成功

していて、そのことの意味もたいへん大きいと思った。

 

 

 

 

*1── 会期 2020.11.1429

 

 

写真:筆者撮影

 

変 幻 す る 物 質 の 形 │ 畑 龍徳作品 〈明滅する瞬間〉

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

光の反射と影の複雑なグラデーション模様が視る角度できわめて鋭敏に

変化するメッシュ面が、たがいに重なり合って透視されるとき

一つの面が明るく浮き上がったかと思うと、他方の面が完全に消えて

しまったり  ──────   瞬間瞬間に、そんな意想外な姿を見せて

くれるこの造形は、自立するようにL字形に曲げた2台のスクリーンと

1枚のメッシュ板から展開図を切り抜いてそれを折り曲げてつくった

底板のないキューブ、の3種類の形素を組み合わせただけのきわめて

シンプルな構成である。 (*1)

 

 

作品にあたる光線や、作品とその背景の壁面との関係、それに視線の

角度によって、そのきわめてシンプルな形の存在感が、それこそ複雑多様

変容し、物質が光とともにまわりの空間と融けあったような印象があり

極端な場合、ある角度から撮られた写真にそこに置かれているはずのこの

作品がほとんど写っていなかった……といったこともあった。

 

 

「固体の確たる形姿」 と 「光の反射性とメッシュ越しの透視像の変幻とが

もたらすつかみどころのない様態」とがギリギリの際(きわ)で融けあっ

作品全体が、とらえようとする視覚の限定をすりぬけるようにして

そこに在る  ──────  言葉で表現するのはむずかしいが、そんな印象

もたらす作品であろうか……

 

 

 

制作に用いたメッシュ板は、きわめて目が細かいアルミのエキスパンド

メタルのメッシュであるが、この繊細な素材に形を与ええたらどのような

詩(うた)をうたうだろうか? 

──────  そういう「求美の旅」をしてみた。

 

これは、あらかじめ前提にされた形のイメージは一切ない中の制作で

素材が本来的にもつ可能性を発見してゆくプロセスそのものが命の

制作であった。

 

 

 

メッシュの各開口は菱形で、 対角線長 11.5×6mm、線材太さ 0.6mm

という繊細さで、その製造方法は、アルミ薄板0.5t)に長さ13.5mm

の切れ目を1ミリ半ほど離して破線状に入れてい

それに平行して0.6ミリ間隔で、切れ目の位置をちょうど半分ずつずらし

ながら、同様の切れ目を入れる工程を繰り返していく。

 そして全面に切れ目が入ったところで、切れ目の方向と直交する方向に

引張力を加えて展開すると、それぞれの切れ目が菱形に展開し、菱形開口

が連続たメッシュになる  ──────  これはちょうど、紙に切れ目を

入れてつくる七夕飾りと基本原理は同じである。

 

 

引張力で展開するときにメッシュを構成するそれぞれの線材は一定の角度

でよじれるので、その角度のついた線材の側面で反射する光が、メッシュ

の全面にクリアでリズミカルな輝影模様を描く。  そして、視る角度の

わずかな違いが、輝影模様をがらっと変化させてしまう。

ここが、普通の金網とは異なるエキスパンドメタルメッシュ独自の特徴で

しかも、厚さの薄いメッシュ板は平面状に整形しても自然な歪みが残るから

その歪みがメッシュ全面の輝影模様をさらに複雑微妙なものにし、そこに

変則的なグラデーションが生みだされる。

 

 

さらに、実際の作品は前述したように三つの形素で構成しているので

その形素それぞれを構成する各メッシュ面の角度はそれこそ多種多様になり

形素の集合をある方向から眺めれば、各面が直視される部分とシースルー

される部分とが複合されて、作品全体のコンポジションとしての輝影模様は

静謐な佇まいの中に言葉を忘れさせるような複雑な妙を呈することとなる。

 

 

そして、そうした複雑な輝影模様が、観者の視点が移動することによって

その部分部分を意想外に明滅させながら、一期一会的に変化していく……

 

 

静止体としての作品が、観者の視点の移動に応じてその表情を鋭敏に変幻

させる点からみれば、これは、むしろ動的な性格の作品とも言える。

 

 

 

 

 

 

 

 

エキスパンドメタルは現代的な工業生産材であるが、市中でよく見かける

ものは線材のエッジが立った無機的なゴッツさのある表情をしている。

ところが、製法は同じでも、今回のようなきわめて繊細なエキスパンド

メタルの場合は、まるで異なるデリケートな表情のものになってしまう

ところがおもしろい。

 

 

 

 

アートは〈響き〉であり、それは、無意識世界の、その人の、そのときの

生きて変化しづける「無限性の脈絡」が基盤になって生起しているので

あろう。

どんなにエネルギーを注いで、きちっと構成された作品であっても

確定的で、すぐにとらえられてしまうようなものは、つまらない!

 

 

 

《 ゆ ら ぎ 》 ──────  これが、アートの命であるにちがいない。

 

 

 

 

 

 

 

*1 ────   明滅する瞬間 制作・発表:2019

 

 

写真:筆者撮影

 

内景のオブジェ │ 絵を描くようにして形を創る… │ 畑龍徳作品

美 ○ 創造

 

 

 

 

 

 

 

頭の中の「先行する形のイメージ」にまかせて形を創ってゆくのではなく

石塑粘土という「手による造形にかなり抵抗するところがある《塑性》」

とつきあい、いたわるような感じで、《手技のたわむれ》というルースな

おさまりを良しとして形を創ってゆく…

この作品はそんなオブジェで、筆者の造形志向の芯にある「シンプルと

シャープの力」をもっぱら生かしたものとはひと味ちがった「あたたかみ

を湛えたフォルム」が結果として生まれてくれた。(*1)

 

 

作品は、3つの部分から構成されていて、それらを合体させると最初に

掲載されている写真のように「側面に亀裂が入ったやや平べったい繭形」

になる。

開けて中を覗きたくなるその繭形の上側と下側のシェルの内側には

「ヒトが生を展開している基盤としての二つの世界」が内包されている。

そして、その二つの根元的世界の間に、「〈守存領域〉の確保」、つまり

地球上の多様な気候風土と表裏一体に脈絡しつつ、個々のヒト、および

さまざまの社会の生存独自性の持続を支える「空間の住み分け」という

テーマを水平面の抽象造形としたものが挿入されている。

 

これらの全体は「地球上に展開する「ヒトの生の根底」を全的に形象化

した《宇宙繭》」とでもいえるような包括的な意味合いの作品になって

いる。

このようにきわめて大きい抽象的事象を、具体の形に抽象する ────

こういう創作は、筆者にとってはじめての試みであった。

 

 

 

 

 


構築                              自然

 

 

 

 

繭形の上側シェルの内側には、「無限の脈絡の中にある生命体を含む

《自然》」の性状を抽象的に表現しており、下側シェルの内側には

「ヒトによって構築されてきたさまざまなもの」のありようがメタファ

として抽象的に表現されている。

 

 

ヒトの生にとって

 

○ 《未知および不可知の無限の脈絡の中にある自然界》

                    →  根元的なゆたかさ│物足りなさ

 

○ 《ヒトによる限定的世界としての進化の世界》

   →  合目的に導かれる可能性│ある意味のかたさと全的な面での不完全性

 

 

 

このニュアンスを、シェル内の形態に滲ませている。

 

 

〈限っての営為〉―― ヒトの世界の思考や構築などは、すべてこれである。

しかし、生命体やその内面をふくむ自然界は、ヒトによって意識されない

あるいは、隠された「無限の脈絡」のなかにあり、これをどうこうすること

はできない超越的な世界である。

自然界はほんとうにゆたかだが、しかし、それだけではヒトの生がなり

ない…   ものたりなさがある…

 

ヒトは、自ずと探索し、創造する…

しかし、社会制度などををふくめ、ヒトによる〈構築〉には、ある意味の

「不備やカタサ」がともなってしまう。

 

ヒトは、新しい世界を求め、そして、馴染み、飽きる…

〈変化や深化の時空〉という個々の人生…

そして、その集合体としての社会…

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒトは、他者や環境とつながりをもち、ゆたかさを求めて生きるが

そのつながりの総体は、集団(家族、民族、同質文化圏内の人々…)の

性格や規模のレベルに応じて、それぞれに適当な〈空間領域〉を必要と

する。

そして、そういう空間領域の〈占有〉にかかわるそれ自体つねに変化して

ゆく複雑な脈絡と、異種領域間のぶつかりあいの問題… 

 

 

いま、ヒトの行方は…?

 

地球の行方は…?

 

 

本作品を見て、「これは、地球に亀裂が入っている ── そのように見え

る」 と、アーティストの周豪さんが感想を語ってくれた。

その言葉が、印象に残った…

 

この作品に用いられている石塑粘土は、造形後、含水の自然蒸発によって

収縮が進行する。その収縮で、《宇宙繭》の側面の三つのパーツの重なり

合いの部分に、自然に、意想外な隙間が生まれた。

 

生命体も、地球も、水と大気に支えられたそれは奥深い《循環》によって

生かされている…

 

 

 

ヒトの内面が目指すエネルギーと、向こうからやってくるもの ──

それらの共合としてのすべてのヒトの営為…

 

 

 

 

*1──   内景のオブジェ │ ヒトの行方──その可能性とあやうさ

               制作・発表:2018年

 

 

写真:筆者撮影

 

そもそも生命体がこの世界に存在していることの超越的不思議     ── 畑龍徳作品〈生成と消滅〉

美 ○ 創造

 

 

この世界では、まず、〈空間〉が広がっていて、そこに、物質的な具体物

が存在している …

 

気体でできた空をながめているときは、雲の形と無限にひろがる空間とを

同時に見、感じている …

 

しかし、立体アートをながめるときは、作品のシェイプのありようしだい

で、主として、シェイプそのものに眼が引かれてしまうこともあるし

それとは反対に、シェイプの存在があることで、かえってまわりの空間を

雰囲気的に感じることもある。

 

 

 

 

 

 

 

空白の造形 …

 

この作品は、〈形そのもの〉の構成によって表現体をつくるのではなく

物質的存在のまわりに寄り添っているかに感じられる「空白」を意識しな

がら、「最小限の形体」によって表現体をつくってみた。

素材は半磁土。(*1)

 

長方形の4枚の陶板は、「大地」を象徴し、その上にある空間は、「宇宙

への広がり」を表わしている。 

その大地から、どういうわけか生命が生まれ、人間という知技の生命体へ

と進化してきた ── そのことの、まさに超越的な不思議!

 

 

作品は、左から

 

黎明 → 知技的生命体の出現 →  創造 →  進歩と囲繞化

 

の各ステージを表している。 

 

 

 

人間は、自分のまわりに、人間特有の人工世界を創造してゆく…

人工的な創造物には、建築のような物質的な存在もあれば、インビジ

ブルなシステムもある。

 

初期のうちはよかった。 が、気づいてみると、いまや、競い合いを

通して淘汰された「全体性の中に強度をもつ人工的世界」の中へと

「唯一性宇宙としての人間の個々の生」が歯車のように埋没し、受働

態に傾斜してしまった感がある。

システムの強力巨大複雑化とその慣性モーメントの中で、個々人の内

的宇宙への脈絡の密度がとかく薄まりがちで、浮遊化を余儀なくされ

ている人間たち …

 

 

 

 

*1 ──   生成と消滅 制作・発表:2010年

 

 

写真:筆者撮影

 

五感が受けた〈土地の全的印象〉を〈視覚表現体〉にする    ── 畑龍徳作品〈 水 影 〉

美 ○ 創造

 

 

視覚でとらえた風景を、具象的あるいは抽象的に表現する──

というのでなく、視覚以外の印象をふくむ〈全的な感興〉を

「〈形〉という確たる存在」として造形固定化すること…

 

夏の陽射しを受けて輝く鬱蒼とした斜面林にかこまれて、開け放たれた窓

からはきもちのよい涼風が通りぬけ、近くに遠くに、蝉の鳴き声と小鳥の

さえずりが、じんわりと湿気を感じさせる大気の中を伝わってくる…

中之条のはずれの山奥にたまたまあった陶芸アトリエの片隅を使わせて

いただいて、そういう環境のリアルな体感を、まさに即興的に、〈形〉に

したことあった。(*1)

 

いま、身体のまわりの環境の、何を、感じているか…

視覚でとらえられた印象だけではないもっと全体的な感興というもの…

 

その感興にもとづいて、〈造形〉という「確立指向の創造行為」を行う。

この行為は、作り手の主観による「ごく自然体での感覚主題の抽出」

いう限定化をふまえながらの、〈形〉という固定的異次元世界への変換

ある、それも、結果としての〈造形〉が、それこそ種々雑多な形が

錯綜して存在する〈いまの現実〉という宇宙の中で、「単独の存在」

して新鮮に響くものとしてなんらかの魅力をもたなければならない。

 

いうまでもなく、この造形のプロセスは、いわゆる「説明的なもの」では

まったくない…

 

そういう構想の全体を、自分の直観にまかせて、造形のプロセスを自由

自在に行ったり来たりして、〈形〉にしてゆく…

 

シンプルで端正な形 ── これは、私の好みである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作品が生まれて、あとでふりかえって考えれば、このオブジェは

 

   水  影   ――  水、そして遠方からの生き物たちの声 ――

 

というタイトルが似合うかな、と思った。

 

 

 

 

 

大自然の循環を支えている〈水〉…

 

生命体を根底から支えてくれている〈水〉…

 

 

 

 

 

 

 

 

*1──   水    影  │  水、そして遠方からの生き物たちの声

陶  218×125×41mm  制作・発表:2011年

 

 

写真:筆者撮影

 

連想世界を たゆたう澄明な作品群…│金子清美作品〈海座敷〉

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                          波の華

 

 

 

 

昨年につづき、足利のCON展*1に参加した金子清美さんが、内陸地である

足利市の古民家の二階の和室を使って、〈海座敷〉という大胆なテーマの

インスタレーションを行った。

松村記念館という百年近くまえに建てられた中心市街地の中のオアシスの

ような緑ゆたかなお庭の力強く優美な赤松の眺めと、伝統的な和風建築の

もつ陰影のゆたかさとともにある品格ある美しい室内空間と共鳴しあった

澄明な作品群からなるインスタレーションで、見る側の魂を自由に遊ばせ

てくれる、内面世界のさまざまな連想の不可知の脈絡に分けいらせてくれ

るような、さりげない誘いとしての美的形象化 ─── そういうおおきな

構想の展覧会であった。

 

ほの暗い階段を上り二階に行くと、そこに座敷に入るまえの畳敷きの小間

があり、小さな窓の障子戸越しのやわらかな光線とともに静謐の空気に包

まれる…

右手の小さな開口をもつしゃれた障子戸の先に十畳二間つづきの奥行きの

ある座敷空間が見通せ、そこに入るとすぐに、左手の縁側のガラス戸の

むこうに赤松の美しい色合いの分岐する樹幹のうねりが迫っていて、なに

はさておきその存在感に感動させられる…

 

このダイナミックな赤松の存在が、金子のインスタレーションの端緒を

導いた

 

─── 白砂青松 ───

 

はじめてこの赤松を目にしたとき、金子は〈潮騒〉を聞いた、という…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨年の金子のインスタレーションは、空間利用を前提にある程度の維持管理

がなされている空家の一階の和室で行われたのだが

今回の松村記念館は、ご当主の美意識によって支えられながら〈生かされて

いる空間〉で、ふだんは松村家伝来の書の扁額や掛軸などが飾られていて

一般に公開されている。

インスタレーションを行うにあたり、必要に応じてそうした展示品をなしに

して、和室空間の佇まいを「素な状態」にもどし、そこに、金子の作品群を

配置する ─── そうして、金子の作品群と、座敷の空間と、そして窓外風

景とが、相互に共鳴しあった見事な〈海座敷〉が生みだされた。

 

〈連想〉 ─── と、ひとくちに言っても、その奥行きは深く、しかも

連想のプロセスにかかわる脈絡そのものはつかむことはできず、ただ、その

結果が現象するのみである。

 

 

 

〈海座敷〉では、海を基点とする連想要素として6種類のものが造形された

 

・波の華                               nami-no-hana

・たまてばこ

・カケジク(掛軸)

・深淵            shin-en

・潮音            cho-on

・ヒョウリュウブツ(漂流物)

 

 

 

◎◎◎

 

インスタレーションの中核をなす〈波の華〉は、奥座敷の中央から南面の

縁側へと展開され、床上に直接並べられたコーヒーフィルター群 ──白色の

ものと、生成りのもの2種類と、青墨染めのもの、の4種類── の上を

フラットとうねりの面で変化をつけた半透明のロール紙がカバーしている。

前座敷に入るときに、この〈波の華〉が向こうの奥にのぞまれ、奥座敷への

空間のパースぺクティブの焦点になっていて、空間全体のたたずまいを引

きしめている。

 

この〈波の華〉は、「大海の、人間の力のおよばない〈生動〉」と連想呼応

していて、その大海は、人間の命と魂のよってきたる原初的宇宙であり

人生時空における よすが でもある。

抽象的に異化され、しかもやわらかく〈連想性〉に開かれたこの金子の

作品に、「窓外の赤松」という生命力ある本物の自然が、対峙している…

コーヒーフィルターは、金子が長いこと作品づくりに用いてきた素材で

あるが、そのろ過作用は、海のもつ「魂を浄化してくれる根源的な力」と

呼応している…

半透明紙を通して浮きあがるコーヒーフィルターの像は、説明をされなけ

れば、それが何なのかわからない人が多いと思われ、これまでに見たこと

もないようなとても不思議な美しさを漂わせている…

それは、最初の命が誕生した大海に潜む「不可視の種子」の幻影のように

も感じられたのであった…

 

 

 

◎◎◎

 

たまてばこ〉は、波の華と呼応した作品で、金子がはじめてコーヒーフィ

ルターによる立体作品化を試みたものである。

 

 

 

 

透明の薄いアクリル板で作られたボックスの中に〈波の華〉で用いた素材と

同じものを内蔵させて、じつに幻想的で不可思議な空気に包まれたオブジェ

を作りあげた。

端正な透明感の中に潜む「霧中に溶けいるようなグラデーションの像」は

普通の三次元造形にみられる反射光による形姿ではなく、虹のように

「〈光の粒子〉そのものが生みだした造形」のようで、まさに他に類例の

ない極美を体現している。 今日的素材、しかも、日常の近くにある素材を

用いての極美の造形といえよう。 それはまた、置かれた場所の光の条件に

よって、あくまでもデリケートなトーンのなかで、表情をがらっと変化させ

る…   いつまでも見飽きることがない光のオブジェ…

 

この作品が漂わせる摩訶不思議な雰囲気が、浦島太郎の物語の玉手箱という

連想を引き寄せてくる…

〈たまてばこ〉の外側に結ばれている純白または赤い細ヒモは、単なる飾

りではなく、嵌めあわせになっている底板と上箱とを一体化する役割をして

いて、その上でこの作品の視覚美を構成する要素にもなっているのはもちろ

んだが、ゆったりと結ばれた蝶結びを解いて、中の仕組みを覗いてみたい

─── という気持ちがおこったとき、この白と赤の蝶結びのヒモが容易に開

けられる様相をもっているがゆえに、誘惑されるが、しかし浦島物語と響き

あって、「開けてはいけない!」というメッセージが頭に浮かぶ ───

そういう仄かなシンボルとして活かされている。

 

 

 

 

 

 

◎◎◎

 

カケジク〉は、遠目ではわからないが、じつは平面の紙の上に描かれた

ものではなく、立体的な掛軸になっている。

 

 

 

 

金子が自宅の庭で育てているワイヤープランツを乾燥させたものを

〈波の華〉に用いている半透明紙と同じ紙の上に、あえて偏心させた配置で

重ねている。

 

そのワイヤープランツの枝のラインにそって、じつは鉛筆によって背面の紙

の上に細い線が描かれており、見る人は、説明されないと、それがワイヤー

プランツの影だと思ってしまう…

よく見れば、ワイヤープランツの本当の影が、暗色の壁に囲われた床の間の

仄暗い光の中で、模糊とした様相でそこにあることがわかるのである…

 

 

 

 

ここでは、自然界の生命体が生みだす「実物の形姿」と、それに愛着を寄

せる金子の「美意識」および「手による行為」と、そして、われわれが生き

るこの三次元時空での「ゆるぎない必然法則としての影」とが、床の間とい

う特別の空間の中で、「〈共〉の世界視」として象徴的に結晶化されている。

この〈カケジク〉は、掛軸の通常の有りようから異化されることで美の訴求

力を獲得しているのだが、それだけではなく、ワイヤープランツという

「自然物が生みだして、金子という人間側の美意識を感応させた

〈自然側生成×人間側感覚〉の、極度にシンプルな呼応造形」であり、その

感応の脈絡構造は、生け花と通じるところがある。 しかし、この〈カケジ

ク〉は、生け花ではなく、掛軸なのである。

 

 

 

 

 

◎◎◎

 

深淵〉は、浜辺に打ち上げられた海藻(アカモク)を乾燥させたものを

透明なアクリルのボックスに封じこめた作品群である。

 

 

 

 

 

 

奥行きの浅いボックスを立てた形のものと、キューブ状のボックスに海藻を

入れたものと、二種類のものが作られた。

外光で透ける竪繁組子の障子を背景にして配置された〈深淵〉は、やわらか

にろ過された光の中で、複雑なシルエットを舞い、障子の組子のシルエット

と融けあって、独特の美を生みだしていた…

奥座敷の正面右手の床脇の地袋の上に置かれたキューブ状のボックスのほう

は、暗色の壁と地板に囲われた仄暗い空間の中で、深海の静寂世界を連想さ

せた…   自然界および生命体の、驚異としかいいようがない、奥深さ…

 

 

 

 

 

◎◎◎

 

潮音〉は、作家が以前からストックしていた生成りの帯締めを用いての

造形で、海に近づくと、視覚よりもさきに岸辺にうちよせる波の音で海を

感じるように、海といえば鳴動の音 ─── それをシンプルなかたちで造形

したものである。

 

 

 

 

渦の造形群を並べる下敷きに用いられた白く染色された正方形の畳は、座敷

の現実の時空と距離を生みだす作用をしていて、観者の中で、遠くの海への

想いがおのずと立ちあがってくるのを暗にたすけているところがある。

 

〈波の華〉の半透明紙の造形は、昔よく目にした、呉服屋が反物を顧客訪問

販売するときに、畳の上に慣れた手つきで反物をサーッと展開する様を想い

おこさせるものがあったが、〈潮音〉の帯締めという素材は、そういう想い

出の中のイメージが介在して、〈波の華〉の造形や座敷の和風の空気と

じつは連想の脈絡でつながっていることがわかる。 そういう呼応が控えて

いる造形であるがゆえに、インスタレーションの全体に、しっくりとした調

和空間をもたらしているのだ。

 

 

 

 

 

◎◎◎

 

ヒョウリュウブツ〉は、浜辺でひろった二枚貝の断片と木片といくつかの

砂粒とを、ゴザマットの上に固定したかわいらしい作品である。 生命体の

形と、もとは同じ生命体であっても長い年月をへて物質の形へと変化した

ものとが、組み合わさった造形になっている。 貝殻の整ったシェイプと

木片の複雑形との対比の妙…

この作品は、インスタレーションの全体の中ではそのサイズは小ぶりではあ

るが、前述してきた五つの作品群のぴしっとした構成に対して、その存在が

全体の調子をちょっとゆるめる脇役的なものになっていて、しかし、「時間

の流れの中で、すべての存在が流転してゆく…」 ─── そういうまなざし

を感じさせる重要な要素にもなっている… それは、ほかの作品群のしっか

りとした構成の響きの中でこそ映えてくる存在力ではないか、と思われるし

逆に、こういう控えめな作品の存在が、全体の構成のバランスの中に

〈すき間〉を与え、作家の意図である「観者の魂を自由に遊ばせる」という

そもそものインスタレーションのあり方の基本を支えるデリケートな配慮で

あることを納得させられるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──────────────────────────────────────────────────

 

 

 

松村記念館の和室という「特別の質をもつ場」の中で、その場としっくりと

共鳴するようなかたちでアート作品を仕込み、その全体が、「いま、この

時」の美的な世界にならなければならない ─── この創造活動は、真っ白

な空間の美術館やギャラリーで作品を〈単独の存在〉として展示するのとは

まったく異なった次元のものになることは、言うまでもない。

 

しかも、赤松の存在が、作家に〈海座敷〉という発想を導いたところまでは

よいのだが、そのあと、海をめぐるさまざまな想いを整理し、同時に作品化

の方向についての思索を進め、それを試作造形しては美的な判断をする。

そしてまた逆に、造形の試行から発想そのものを再考することも当然する…

さらに、仕込まれる各作品相互の関係の全体が、美的なものにならなければ

ならない。 次から次へとアイデアが出てきても、それを試作に移してあれ

やこれややってみると、その試作の美的状態の良否は、直感ですぐに判断は

つくものの、では、どうしたら本物にたどりつけるのか? 手を動かし頭を

働かせながらのその試行錯誤の道のりは、大変に長く、苦しいものである…

でも、そうしたプロセスを経てはじめて、〈美の造形〉という次元での

人間の内面の〈不可知の世界〉と交わる、つまり、生命の根源的世界へと

食い入るこの創造活動が、作家の納得とやりがいとをおのずと結果すること

になるのである。

今回、金子も、これまでの制作では体験しなかった苦しい道のりをたどる

ことになったようだ。 そして、その長く苦しい制作の道のりが、ほかに

類例を見ないようなユニークで見事な澄明世界を実現させたのである。

 

 

 

金子は、これまで一貫して、作品の〈美しさ〉というものを外さないで表現

してきた作家である。 金子の作品は、歴史的にも、あるいは世界的にも、

他にたぐいのない〈澄明な世界〉をやわらかなかたちで体現しており、

そして、感受はできるが、捉えようとしても絶対に捉えることのできない

「光と融けあう〈おぼろな空気感〉」のようなものを実在化してきた。

そこでは、表現素材の〈物質特性〉が活かされていて、物質の確固とした

世界の中に、〈ゆらぐ世界〉を創造してきたのである。 現代の新しい素材

を用いての〈ゆらぐ世界〉─── これは、科学知や技術世界の「確定、ある

いは、明確化のための限定」および「それを前提にした確かな構築」という

世界とは、ある意味で、対極に位置する世界といえるかもしれない。

 

そして、アートは、人間の不可知の〈無意識世界の無限性〉と交絡をする

「生の根源にかかわる営為」である。

 

 

 

ひとくちにアートと言っても、アート的行為というものの幅は広く、「作品

が、他者に何かを感じさせる、何かを想像させる、何かを考えさせる」

そういう表現行為はすべてアートであると言えようが、しかし、その表現体

が本物であるか否かは別の話になる。

 

金子の作品はこれまで、たとえば多肉植物やコーヒーフィルターを作品の

主要な要素として用いていることからも想像できるように、〈日常性の世

界〉との交絡が表現行為の根底に根強く控えている。 これは、女性作家

ならではの特質で、本質的には、男性作家にはできない〈世界感覚〉と

〈表現〉であろう。 しかし、だからこそ、男性も、彼女の作品世界を

心から享受できるのである。

ここにあるのは、本源的な異質性のもつ「違和と通底」という、生の本質に

かかわる問題である。

 

アートは、たとえばスポーツのように体の特性によってその享受感が左右さ

れることはないし、あるいは、将棋や碁のように知的レベルによって勝敗が

導かれるような競い合いの世界とも一線を画している。

まったく、個人個人で自由に愉しめるのである。 それでいて、映画や演劇

の類のように、受動性に傾斜した楽しみでもなく、その気があれば、だれで

もが、能動的にその世界に分け入って愉しむことができる。

そして、前述したように、アートは、「生の根源にかかわる営為」なのである。

 

 

 

 

 

──あとがき──

  

 

筆者は、今回の金子のインスタレーションの制作過程でアドバイザーの立場

にあった。 作家は自己の内面のありようや自作の世界とは距離がとりにく

く、だから、距離をとっての世界視は、適当な他者のほうが有利につかめる

こともある。

 

筆者は、展覧会の会期中ずっと会場にいて、写真撮影をするかたわら、作家

とともに来場者の応対もした。

会期が4日間と限られていたが、多くの方々に作品を熱心に観ていただき

作品の不思議な外姿に対して、たくさんの質問を受けた。 「作家の説明を

うかがいながら作品を味わえたのがよかった!」と帰り際にうれしそうに話

された方が少なからずいらっしゃった。

 

ある日、会場に来られたご婦人が、個々の作品に眺め入っては感動のことば

をつぶやいておられる… この方は、ふつうの感覚の方ではないことはすぐ

に分かり、だから、つきそって丁寧に質問にお応えし、関連した話題をお話

しすることになった。 そのご婦人が、前座敷の床の間 ──そこには〈たま

てばこ〉が三つ並べられていた── の前でお話をしていると、そっと目頭を

おさえられたのである。 筆者は、それに、感動してしまった…

 

今回の〈海座敷〉は、この世界に対する作家の〈やさしい眼差し〉に包まれ

て、しっとりと心やすまる、そして詩的な馨りをただよわせた〈極美の展覧

会〉ともいうべきものであった。

 

 

 

最後に、格調の高いすばらしい和室空間をインスタレーションの場として

提供していただいた松村記念館の館主に、心からの感謝の気持ちを捧げたい

と思う。

 

会場の下見の打合せにうかがったときに、「(部屋内に)飾られている掛軸

や置物などを一時移動していただいて、格調の高い建築空間を素な状態で

見せたいのですが…」というご相談をさせていただいたのだが、館主は快く

その趣旨を理解され応じていただいた。

 

また、作品を搬入するときに、各作品の最終的な配置が決定されたのだが

そのときに、前座敷の床の間の掛軸として、松村家伝来の所蔵品の中から

金子の作品と季節にふさわしい軸を見立てていただいたのも館主で

その見立てはまさにその場にぴったりのものであった。

 

単なるスペースの提供ではなく、そうした格別に美意識の高い館主によって

生かされている記念館で、「建築空間および屋外の眺望と脈絡したインスタ

レーション」という総合的な創造を実現できたことは、まことに稀有なご縁

であり、金子のアート創作人生における一期一会のチャンスというにふさわ

しいゆたかさに祝福された展覧会であった、と筆者は思っている。

 

 

 

*1───あしかがアートクロス CON展 2019.5.29 – 6.9

◎◎◎      金子清美さんによる展示は、同 6.6 – 6.9 に開催

 

写真:筆者撮影

 

 

人間世界の〈やさしい光〉のヒント… │ 金子清美作品〈束の間〉

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和の初期に建てられた足利の民家の和室で、金子清美さんが

ひさしぶりにインスタレーション作品に取り組んだ。*1

 

 

廊下ごしに庭に面する東南の角部屋とその続きの間を利用して

〈光の間〉と〈翳の間〉が、対になって呼吸している作品で

インスタレーションの傑作ともいうべき静謐美の作品である。

 

障子越しのやわらかな光が主調をなす「気づくと変化している

外光」の綾と、そこにすでに在る空間性や諸々の文化遺物の存在

── そうしたものたちと深いところで共鳴しあう金子特有の作品

要素が、実にていねいに仕込まれ、配置されている… 

作品要素のなかには「書かれたことば」もふくまれているのだが

このインスタレーションは、視覚美を偏重したアートというよりは

ひとが「生きる」こと、あるいは「いのち」、とのコンテックスト

支えられていて、いわば生命的なアートとしての根源性と包括性

有しているといえよう。

そして、作品が成立してゆく過程における創造的思考に

向こうからやってきた偶然的な条件との不思議な出会いが絡み

それが、偶然にしてはできすぎた脈絡を呈する ──

そうした導きの力が加わって、インスタレーションの全体が

「寡黙な背後脈絡世界」としての密度体現するにいたる…

 

そうした、いわば「〈存在〉そのもの」の深遠にしてデリケートな

つぶやきは曖昧さの中に包まれ、現場で実際に感受され、あるいは

想像力が動く全的なる世界は、観者の視線の動きから瞬間瞬間に生成

されつづける動的な性格の内的世界であり、それは、言葉や写真では

とらえることができない複雑系の世界である。

作品空間に接する時間は、まさに一期一会 ── そういういとしさを                

作品のたたずまいに強く感じたのが今回の金子の作品であった。

 

 金子の作品は、さりげなさの中に醸される

「人間世界の〈やさしい光〉のヒント」であり

自己主張にもっぱら占された「目立ちのアート」とは

ずばり、真逆の世界である。

 

 

(photo ───── click → wide view)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1── 足利CON展参加インスタレーション 2018.5.13-19

 

写真:筆者撮影

 

Live (リブ)| 意識されざる無限宇宙への通路… | 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

澄みわたった空に浮かぶ雲の千変万化する形と色合い…

水をふくんだ空気の粒子が生みだす形と色合いは、〈連続性〉の中に

かぎりなく精細な変化を織りなしている…

太陽からやってくる無尽蔵のエネルギーによって地球の表層の水は

循環をくりかえし、生き物たちの命を支え、役立ち、

そして水のつくりだす表情がときにわれわれの美感覚を根源的なところで

ゆさぶることがある…

外在するすべてのものは、人間にとっての既知・未知・不可知に関係なく

相互に脈絡をもったいわば全的な存在であり、

その外在を体験しあるいは感動している人間の内面世界の方は、

無意識世界における無限脈絡宇宙を基底にして生きているはずで、

さらに、その無意識的内面世界と外在とは、たとえば〈気〉のような

いまだ解明されざる関係性をはじめ、未知あるいは不可知のなんらかの

根源的な脈絡をもっているような気がしてならない…

 

 

 

昨秋、展覧会への出品という機会をとらえて石膏を用いたオブジェを制作

した。

それは、石膏で造形された〈大地〉と、円錐形の石膏ベースから立ちあがる

ワイヤー造形の〈雲〉、というふたつの要素の組み作品になっている。

〈大地〉は、型に用いた合板が偶然に生みだしてくれたまさに大地の断面を

想像させる粗い質感の側面と、流し込んだ石膏の粘性が自然に形づくって

くれた波紋様のやわらかな表情の上面と、そしてそれになじんでつづく

重力方向の変化を与える隆起面(石膏の流し込みボリュームからていねいに

削りだし適宜磨きをかけて仕上げた)、とおおきくは三つの表情から成って

いる。

〈大地〉の上面の端にある穴は、大地内部の空洞に通じている。

また、〈大地〉と〈雲〉のふたつは、作品が設置される環境の状況に応じて

相互の配置関係が決められる。

 

 

今回の作品は

 

抽象と具象との〈中間〉の力を求めて…

―― 自己の「無意識下の〈合理構築性〉」の外へ ――

 

ということを念頭において制作した。

 

したがって、自己内で決定することに加え、「向こうからやってくるもの」

を取りこむことに意識的であった。

 

 

 

以下は、具体の造形にとりかかるまえにまとめた文章である。

具体の造形の背後にひかえている〈私の世界視〉ともいうべきものの一端が

記されている。

 

 

──────────────────────────────────────────────

 

 

美しい!、おもしろい!…と、或る〈形〉に接したときに感じるのは、

自分の無意識世界の脈絡宇宙の中に、すでに「なんらかの感応尺度系」が

存在しているからだ。

その尺度系自体を、直にとらえることは、永遠にできない。

そして、その尺度系は、確固たる強さを有しているように思われる。

いっぽう、ある人生の時期に、まったく興味をもてなかったり、よいかたち

では受容されなかった〈世界〉や〈実在の形〉に対し、人生経験をへたのち

のある時期に、そして自己をとりまく〈時代性〉や自己固有の〈環境〉に

呼応して、よいかたちで出会い、反応する、ということもありうる。

つまり、〈美意識〉の背景にある尺度系は確固としたところがあるいっぽう

で、変化もしてゆく…

 

宇宙的な脈絡とともにある〈生命〉という存在が拠ってたつところの根源は

科学がいかに発達しようとも、永遠につかまれることはないのではないか。

少なくとも、いまの科学的アプローチの延長上に、生命自体をゼロから生み

だせる可能性はないような気がする。

生命の存立の全体とか、以心伝心とか、魂レベルでの彼岸から此方へと伝達

される暗示的波動のチャンネル(?)とか…  そもそも、これらの世界は、

科学的あるいは数学的認識とは異なる次元にも属した〈無限性世界〉の

出来事なのではないか…

オイラーの公式をご存知でない方もいらっしゃると思うが、1+2+3+ …と

整数を無限に足してゆくと、その合計は、なんと-1/12 になる。

現実世界の感覚の延長からすると、これはありえない数字である!

数学の進歩は想像以上のもののようで、素人目にもこれまでに発見された

〈真実〉は驚異的なものに映るのだが、しかし、数学を含む科学の延長線上

には、無限性の生命そのものの根底をつかむ可能性はないような気がする…

 

生命現象の一部としての〈美意識〉というものも、だから、その一番根底の

ところは、永遠にブラックボックスのままにおかれる…

そして、個人の人生はもちろんのこと、人類の進化の歴史も、永遠に完結

されることはなく、〈過程〉の中を生きていく…

ゲーデルが1931年初頭に完成させたという論文によって、「それ自体の中

に〈矛盾〉を抱えない論理体系」が前提の場合、言葉をふくむ記号論理体系

の世界に〈完全性〉は成立しない、ということが証明されている。 これを

わかりやすくいえば、完璧な理論というものはそもそも存在できないという

ことである。 そしてそのことは逆にいえば、「未来の中に、かならず、

既存知を越える可能性が存在する」――  そういう、これ以上はない力強い

希望をわれわれに与えてくれる真実を示してくれていることになる。

 

アートの制作過程では、創作者が自身の内面宇宙を、正直に透視しよう

とする。 では、なにが〈正直〉である、ということなのか? ――

そこのところが、すでにいろいろの意味を含んでいて、つねにゆらいでいて

定まらない。

逆に、それゆえに、見定めようとする志向活動に、〈価値〉が生じてくる

――  ともいえよう。

 

〈精神的自我〉は、社会的な関係性の結節点そのものである、つまり、

絶対的根拠というものは存在しない ―― という認識は現代思想のひとつの

大きな到達点であるが、〈身体性〉の方は、生命体の「開放系としての

無限性有機組織」とともにあり、〈本能〉というその拠ってきたるべき

ところがつかめない力学系とともにある。

 

美意識というものも、この〈本能力学系〉と脈絡し、作動している…

 

こうした、なにやら定まらぬ無限性脈絡の中にあって、

〈限定された世界〉としての三次元立体の自由造形を、いまの自分の

脱構築的〈超抽象〉の造形・精神運動のたのしみとして、

〈自分の眼の感受性〉を手がかりにして探索してみたい。

 

 

──────────────────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「新しい素材から生まれる重厚さと謎めいた姿の作品である。〈大地〉の

上面の表情が自然の中にありそうで、ありえなく、美しい。 制作過程で

あちこちから舞い降りてきた想念と作家の内に堆積してきた美意識が

合祀されて現出したように思える。 穴は異次元への通路であり、積層され

た始原への複眼的洞察の眼であり、切なさをともなう〈生〉の影を隠しも

している…」───

といみじくも新井九紀子氏が評してくれたように、〈大地〉と〈雲〉という

実存の具体的イメージを呼びよせながら、そのイメージに共鳴的な造形素材

の質感と形態による抽象化をおこない、外在世界と人間の内面世界における

「意識されざる〈無限性脈絡の妙〉」というものに思いをはせつつ、

「〈創造的な限定〉ゆえにもたらされる形象化の響き」をもとめてみたもの

である。

 

 

言葉による表現というものは、人間にとって欠くべからざるものであるが、

しかしそれは〈限定行為〉であり、実在を単純に説明する場合であっても、

無限脈絡の中にあるその〈全体〉をそのままのかたちでとらえることは

できない。 だから、〈限定的表現〉の積み重ねによって、立体的に説明

するよりほかはないのである。

しかもアート表現は、或ることを説明するものではないので、観者を宙吊り

にするようなアート表現なるものをまるごと言葉化することはむずかしい。

或るアートに関して語られた言葉であっても、それは語られた言葉が

対象のアート作品とは別個の独自世界を生み出してしまっている――

厳密にはそういうことになる。

 

しかし、私の作品に対する先の新井氏の評のように、作品に接したときの

「観者の内面の〈動き方〉」というものをその言葉を通して察し、美感覚

あるいは美意識の通底のよろこびを味わうことはできよう。

ときに、観者は、作品に関して作家自身は無意識の奥に潜ませてしまった

ことを、虚をつくかのごとくに気の効いた言葉で伝えてくれることがある。

そういうときは、作品評はまさに〈詩〉だな、響きだな…  などとひそかに

思ったりすることもある。

感覚と美学と世界視などが共鳴しあえる〈よき他者〉の存在というのは、

作家にとって生きているよろこびである―― そう私は感じてきた。

 

作品制作は、もともとオリジナルな自己内宇宙を独自のかたちで掘り下げて

ゆく孤独な世界であるが、同時に、作品世界が介在して作家とよき他者との

間にほかの方法ではなしえない「魂の共鳴」を生みだすというかけがえの

ない価値をもっている。

その点を重視してきた私は、自分が観者として他者の作品に深く感動した

ときは、その感動を自分なりの言葉にして作家にエールを贈りたい――

そう思ってきた。

本ブログにこれまで執筆してきた他者作品に対する評はそうして生まれた

ものである。

 

 

 

*美術作家の中村陽子氏に石膏作業を手伝っていただいた。

ここに記して謝意を表します。

 

写真:筆者撮影

 

創作者どうしの対話 | 周 豪 展

美 ○ 会う 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

作品の制作で

 

その前半は、「作品が、ぼくの従僕」

そして、後半は、「ぼくが、作品の従僕」…

 

制作の後半… ぼくが従僕にならないような作品は

結局、ロクな作品ではない!!

 

両親の老後の介護をした経験があるが

作品に対して自分が従僕になるというその状況は

ちょうど両親の介護に似ている…

 

 

 

作家の周さんとの会話は、創作をめぐって

そして人間世界をめぐっての本質論になることが多い。

二人は、作っている領域がたがいに異なるけれど

そのことがかえって「距離と共感」の話の興味深さを生む…

 

冒頭の言葉は、いま銀座のギャラリー巷房で開かれている彼の個展

会場で、作品を前に、彼の口から、考えながら、ゆっくりとつむぎださ

れた、創作をうまく言いあてた例え話であり、同時に、この人間世界に

対する彼のまなざしの柔軟な真摯さと、いつくしみの深さ、とを

感じさせる言葉である。

 

 

作品は、あくまでも「仮のもの」であり、それを足がかりにして

向こうへ…

向こうにある世界こそが重要であり、逆に、「作品という仮の存在」に

満足してしまったら、それでおしまいである…

彼のこの言葉にも、大いにうなづけるものがあった。

 

 

作品づくりに、とことん取り組む…

が、しかし、その生みだされた作品の存在は

その中を、人が生き、進む、《広大無辺の脈絡宇宙》の中に、たまたま

生みだされた「〈ひとつの位置〉からの照射」にすぎない…

そう、筆者は思う。

 

創作者は、先へ先へと果敢に進んでゆく…

それが、興味のつきぬこの世界の「密度ある旅」になってゆく…

 

 

 

 

 

掲載した写真は、ギャラリーが入っている建物の地下へと階段を下りて

いって、うす暗がりの 壁圧を感じさせる狭間のようなホールの先の

照明された展示室の正面に配されていた油彩作品で

部屋に入ったとたんに筆者の心をとらえた周の仕事である…

 

しばしの全的感動の時間をへて、筆者の視覚は、自由に画面世界の

〈部分〉へと向かう…

 

 

 

 

相呼応する 〈対〉 の形――

その穏やかなコンポジション…

 

ただそれだけのことだが

そこには観者の固有の視覚に応じて開かれる

「無意識世界の無限脈絡」の鼓動が

息づいている…

 

極限の極限まで つめられた図像…

その輪郭のきわめてデリケートな変化…

 

各色面は 何回もの塗り重ねを通して

(空間性)と(平面性)との境をゆらぎ…

呼吸をしている…

 

実存空間そのものではないゆえに

かえって生まれ出る

(空間性)の静かな呼吸とともにある

削ぎ落された平面抽象表現の力…

 

図像の布置は 一部のスキもないのに

それなのに、それは 動きの中にある…

 

 

ふたつの図像は

あたたかい空気につつまれて

さも気持ちよさそうに浮遊し

すなおに遊んでいる…

 

 

 

………………

 

 

 

人間は、一人では存立できない。

おおげさに聞こえるかもしれないが

宇宙史上唯一の (個) が

宇宙史上唯一の (固有の人生) を生きる…

それも、ただ一回…

 

筆者は、いつも、人生時空における

(よき話し相手) という存在の重み

のことを想う…

 

 

 

 

 

 

*周の作品世界については、過去に書いたもの

  があるので、そちらもご覧いただきたい。

   →  http://ops.co.jp/wp/?p=1398

 

 

 

写真:筆者撮影

*この展覧会は 2016.5.16-5.28 巷 房(東京銀座)で開催された。 

 

触覚的図像と人間の内面自然性 | 醍醐イサム作品

美 ○ 会う 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

山歩きをしていてふと出会う

なんとも表現できないような面白い断層面の岩肌の表情…

それは、ときに何かある動物の姿を連想させたり

またときには、幾何学的な図形にみえたり…

 そのとき、私の内面は、自然界が偶然に生成したにしては

ありえないものに出っくわしたという感動とともに

それが、「他の〈存在〉や〈感触〉」を暗示する「物質的な表情」に

すぎないものなのに、それをみた自分の内面世界が共振している―― 

その「暗示」という 深遠な内的運動そのものの不思議さのこと

を考えてしまう…

 

それは、美しい風景を眺めいる場合のように、〈実存〉を「そのもの

として」 じかに感受するのとは 「感覚の運動の様相」が異なっていて

〈実存〉を、きっかけとしながら

私の内面が、かってに遊びをはじめてしまう

「無限の深さを有する無意識世界の〈内発型宇宙運動〉」

ともいうべきものであろう。

 そのときの私は、眼前の〈実存〉の側に一方的に引き寄せられて

一体化させられてはいない ―― つまり受動的ではない状態である。

対象を眼で撫でながら、即 それに連動して、無意識世界の中の

なにかが「内的五感系の脈絡運動」をしている…

 

 

 

 

南青山の Gallery Storks で 最近みた 醍醐イサム のモノクロームの

平面作品のひとつが、自分の中で勝手に動いてしまう そういう

 「無意識世界の内発運動」の瞬間楽と不思議さとを つよく実感させる

機会を提供してくれた。

 しかも、そのあと いろいろのことを考えさせるおまけがついて

たいへんに興味深かった。

 

 

その作品は、醍醐が展開する幅広い作品世界の中では

例外的な性格のものと思われ、画面が複雑多様な要素から成り

「風景的な空間性 あるいは 空気感」を感じさせる。

小さな画面の中に、微細なる線分や明暗による複雑なテクスチャー

などが、きわめてデリケートに かつ 緊張感をもって刻され

あるいは、しっとりと湿度をふくんだかのような空気が融けあい…

そうかとおもえば、何やら異質な形象が唐突に投げいれられて

隣接する部分風景と融合して

筆者の〈記憶の風景〉の肌触りと重なりあったりする――

あるいは、なんとも意味不明にそこにある「とらえどころのない

物質性図像」を 味わう――

そういう「〈密度世界〉を 覗きこむことを こちらに自然に仕向ける

〈作品サイズの小ささ〉」が、まさに生かされた

 〈イマジネーション誘発装置〉であり〈眼の触感装置〉のような

作品であった。

 これがかりにサイズの大きな作品であったならば

観者側の視覚と内面運動とが、拡散的な性格を帯びることとなり

こういうふうな観者側の〈内向〉は、成立しにくくなるにちがいない。

 

 

 

「自然界の風景」に対する感動というものは、対象風景と一体融合的で

したがって、意識内時間がとまった〈刹那の受動態〉の中にとりこまれる

のが通例である。

 

しかしそれが、断層面の岩肌の表情のような「単純な物質図像的なもの」

になれば、こんどは、こちらの内面に自由度が生まれ

「内発的な想像運動や内的触感」の〈集中的時間〉を生成する。

 

そして、人間の手によって 自然が成すよりも自由に創出された抽象図像は

しかも、モノクロームという「リアルワールドとの〈距離〉をもたらす抽象

表現」は、とくに世界を感受するそれなりの眼をもった観者に対して

内面への独自の刺戟を誘発する可能性を秘めている…

 

 

人間の〈生きもののような感覚〉にとって、神が造化した自然物よりも

さらに刺戟的でたのしい世界を、醍醐は、造物神にかわる、あたかも

「人間の内なる宇宙神」として生み出すことを たのしんでいる ――

そんな想像をしたりもする…

 

 

 

 

醍醐の抽象は、画面構成において

 

 

  「内的に既存する調和感覚」にすなおに身をまかせることをせずに

  創造プロセスにおける美意識の〈必然〉の枠を あえて突きくずすように

  モノクロームで沈められた画面の中に、現実感覚の〈触覚〉とつながる

  ような〈触覚的図像〉を画面にとりこみ、それらを、唐突的関係

  をもおそれずにダイナミックに構成することにより

  〈人為的な整序指向〉とは逆の「自然性のゆらぎのベクトル」の中を

  生きる…

 

  そこでは、「現実世界の肌触り感」と「抽象的構成ならではの面白さ」

  との間を、観者の深奥は、ゆらぎつづける…

 

 

  それは

 

  〈リアルワールド〉と、密接し、共にある、〈抽象世界〉…

 

  とでも言えようか。

 

 

とても大胆な創造画面であるのに、その画面に「これ見よがし的な浮き」

 は感じられず、あたかも「現実の自然界の様相」のごとくに

かそけき〈 ゆらぎ〉とともに それはある…

 そうした醍醐の作品の性格が、観者をして、〈解放された想像運動〉の

上質な時間に じわっとひたらせてくれる…

 

 

 

 

抽象絵画の視覚的な表情の中を、観者の眼が、無意識世界と連動

しながら動き、視覚以外の外部刺激受容センサーが周囲の世界から

完全に切りはなされて、内面が想像運動の中を解放的にさまよい

同時に、内的触感を味わう…

 

 

その想像運動や内的触感がどういうものかといえば

 

イメージ的には とてもあいまいであり

〈絵画の表情〉を眼が舐めながら、なにか無意識世界の感覚系の脈絡を

「いつもはそうされていないような不思議な仕方で、マッサージされる」

―― そんな 宙づりにされるような感じ、とでも言おうか…

 

 

 

 

作品に接していると、画面をなぞる眼と連動する内的想像・触感運動は

文字どおり とどまるところをしらない…

 そこでは、作品を見終えたあとの「追想」はほとんど意味をなさず

作品を体感しているときの「進行しつつある時間」のみが

意味をもっている…

 

 

醍醐のとらわれない自由な創造力…

そして、観者側の感覚脈絡宇宙の広さと深さの個別性…

その〈出会い〉から生まれる 密やかで粛々とした可能性のロマン…

 

 

そのロマンは

 

  人間の  そのつどの

 

   「〈自然性〉への深奥回帰の時間」

 

でもある…

 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影

*醍醐イサム個展 ― 溶光融光 ― は 2016.5.11-5.21 

Gallery Storks (東京南青山) で開催された。

 

GARDEN | 金子清美作品

美 ○ 会う 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

その作品は、遠くから見ると一見ていねいに描かれた線描画

のようにもみえる…

がしかし、それは通常目にする平面アート作品とは一線を画するような

あるユニークな質の気配をたたえていることにすぐに気づく…

 

先日、金子清美さんの最近作をみる機会があったのだが

これはそこで体験した印象である。

 

 

 

なんと表現すればいいのだろう?

 

人が手で描いた線は、その背景に 描き手の意識および無意識の世界が

控えているがゆえに、それが ある種の 〈個的一貫性という世界限定性〉 に

かならず帰着してしまうところがある。

 

たとえば、美しい線を描こうとすれば

その線は、描き手の美意識と手の運動の相乗としての線であり

つまりその相乗的表現は、〈描き手の個性〉 のモーメントの中にある。

そこから 表現体のかけがえのない個性的美 がときに生まれてくるのだが

他方で、創造的行為は、つねに、あたらしい表現世界への越境であるから

そもそも表現者自身にとって なにやら不明な

この 〈個的一貫性という世界限定性〉 つまり 〈自己自身の殻〉 を

表現者はやぶろうやぶろうと苦しい時間と格闘することになる。

 

筆者はかつて、ピカソのドライポイント作品 「真夜中の馬たち」 に出会い

その作品の前で足が釘づけになってしまった経験がある。

カーブする一本の線の のびやかな勢いと その先に連続しながらも

不意に現われる線質の変化――  そのきわめてデリケートにして大胆な

融合美にただただ魅了されるばかりであった。

そのピカソの線は、ピカソのフリーハンドから生みだされた個性の線である。

それは、ピカソの 〈個的一貫性〉 の中にあり、強烈な個性であることは

いうまでもないが

同時に、いみじくも一個の天才の 「純粋な手技による線描の限界点」 を

示したものともいえよう。

 

 

 

 

金子作品は、そうしたフリーハンドで描かれた線とは異なる

にわかにはことばでうまく表現できないような 〈独特の空気〉 を

ただよわせていた…

 

人によるフリーハンドを超越した

「〈単純性〉 と 〈超複雑性〉 とが ないまぜになったような 〈線〉 の

抽象世界」 …

 

自由にゆらぐ 〈超複雑性〉 の線形が

人による 「全体視的な変形構成力」 と さりげなく化学反応し

観者の眼を不思議な感覚へとさそう…

 

 

 

作品に近づいていくと、ある距離のところで急に

作品のディテール世界が露わになってくる…

なんというか、自分の内面と作品とがなめらかな抽象的共鳴の中

にあった遠隔視の世界が、むりやりに現実世界に引きもどされるような…

そんな 内面の温感を唐突に引きさげられてしまう体験をする…

 

 

 

金子は 庭で植物とともにすごす時間を大切にしている人であるが

今回の作品は、氏の自宅の庭で繁茂しているワイヤープランツの

枯れ枝を集めてストックし、それを素材にして作品を創った。

それに、ところどころに融けのこった雪のように蜜ロウがからみ

また、銀緑色のふくよかな多肉植物の一葉一葉がアクセント的に

配されている。

アクリル板 (前面) とプラダン (背面) で枝をサンドイッチした

正方形のパネル2セットがすこしずらした形で重ねられており

重なった部分では、後ろ側の枝の影が 前側の乳半プラダンを通して

うっすらと透けてみえている…

 

 

 

そうした作品の構成を近くで見つめているうちに

ガーデニングという 〈行為〉 そのもの が ふと頭に浮かんでくる…

 

まさに リアリティの世界そのものである 〈ガーデニング行為〉…

植物という生命体との いつわらざる没我の交わり、愉しみ…

 

 

 

そう!…

 

金子の作品は、単なるイメージレベルの美的表現体ではないのだ!

 

 

 

作家の内面の根源に ゆたかなる栄養をプレゼントしつづけている

日常の 「厳然とした生活時空としてのガーデニング」 は

植物という静かなる生命体との 「無限性の内面的宇宙旅行」 であり

人間という固有性を越境して呼吸する本源性開放行為である…

 

そのいわば 植物という 〈実存〉 との交わりの旅は

植物の 〈良い面〉 を感受したい… という志向性をもちつつも

そうしたガーデナーの志向性を超えたところで

植物という生命体の 〈外姿〉 とか 〈匂い〉 とかの超複雑系に

ストレートに対面する―― そういう出来事である。

そこでは、「主観による選好」 という枠をこえたところで

時々刻々と 〈まるごとの実存〉 に感覚がさらされており

内面の宇宙世界とは次元を異にする 「自己外部の新世界」

との感覚的出会いと その認識とに、可能性が開かれている…

 

 

 

金子は、その 〈内面の栄養源としての日常宇宙〉 の

リアリティのかおりを 表現の素材レベルで積極的に保持しつつ

たとえば 〈生花〉 といった表現形式とはまったく異なる

〈抽象化の力〉 によって、独自の美的表現体を構成してみせた――

 

 

 

観者と作品との間の 〈距離〉 による視覚の変化を介在させることで

やわらかな美的抽象イメージとして伝わってくる遠距離で観るときの

作品の表情と

素材植物の 〈実物性〉 のもつ強さによって生々しくかもされる

「ガーデニングという旅」 の匂いただよう近距離での作品の表情とが

視覚のごく自然な連続性のうちに 異相世界として体現化され

観者をして それら二つの世界のあいだを往還させる…

 

つまり 作品の見かけはひかえめなのであるが

じつは、観者に対して 「内面のワープ装置」 のように作用する

ダイナミックな構造の表現体になっており

 

さらにいえば、この世界の 「実存の五感的まるごと性」 と

 「〈快〉 の方向へと主観的に誘導されがちな感受イメージ」 との

関係や それぞれの世界のもつ 〈独自の価値〉 といったものを

あらためて突きつけられてしまうような普遍的な暗示力をももった

 

「この世界の 〈多元性の意味深さ〉」 が秘められた作品

 

といえよう。

 

 

その作品が、作家の 〈植物という生命体〉 にたいする

深い慈しみから 生まれてきている…

 

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

自己表現の否定の地平で… | 畑龍徳作品

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己表現の否定?―― それでどうやって作品が成立するのだろうか?

そう思われる方が多いのでは… と思われる。

 

筆者は、これまでもっぱら抽象立体作品をつくってきた人間だが

3次元性の抽象表現のことをあらためて考えてみると

たとえば、ある風景に出会って、その印象を、われわれが住んでいる

3次元空間と同じ次元の外化表現として 〈物理的に確定〉 しようとする。

また、かつて筆者は、「世界の連想」 というオブジェをつくったことがあり

その作品では、人間世界を生かしている力としての二つの存在 「自由を

もとめる個性的存在」 「異質性を統御しようとする全体中心化の存在」 を

イメージし、そして、その現実的な力の世界に、どこからやってきたのか

不思議におもわれるような 〈可能性〉 をもたらす 「〈存在の世界〉の外側

の不決定的なる宇宙」 という仮想的なイメージを加え

これら三つのそれ自体〈抽象的〉な契機を、ある意味 〈美的な抽象表現体〉

に変換して 固定する――

そういう いわば 「人間世界への根源的なまなざしの造形化」 を

したことがある。(*1)

 

自己表現の否定… といっているのは、制作者の内面にあらかじめ生まれる

「造形のためのいっさいのメタフォリカルなイメージ」 から出発することを

やめる―― そういう意味である。

 

自分を離れる…   内面を 〈空白〉 にする…

 

そして、制作に用いられる素材自体が 「形姿の可能性」 の旅にでる…

素材のもつ 〈形状の次元性〉、〈手による加工の性状〉 の意味…

そして、今この時の〈形姿の力〉… そうしたさまざまの可能性…

さらに、「造形という行為をめぐる 人間の内外宇宙の 〈全体性不可知の

脈絡〉」のことを想像つつ、交絡しながら、制作がすすめられてゆく…

 

しかし、制作の過程では、自分の内なる無意識の世界に

〈さまざまな脈絡の密度〉として そのルーツが存在しているであろう

ところの 〈世界認識〉とか〈美意識〉 などが作用しないわけは

もちろんなく、いぜんとして 自分がいる…

 

自分を 離れながらも、自分がいる…

 

そうして、造形の背景にあって、それをを先導する 「表現体のありかたに

〈統合〉 を指向させる内的な意味性」 を棄てさるところに立って制作を

おこない、結果として生成される作品は、感受される局面において

素材そのものの形姿が 〈裸の状態〉 で観者に作用し

「あいまいな連想を触発する装置」 のようなものとなる…

そういう試みから生まれたのが、ここに紹介する筆者の最近作である。

 

 

 

作品は、〈シンプルの力〉 をもちたいが、しかし、響きの浅い単調なもの

にはしたくない。

いろいろの過程はあったのだが、結果として、素材として ふたつのものが

選ばれ、その 〈対立的響き〉 の可能性を探ることにした。

 

素材をふたつに限定し、そして、素材の 《力学的特性》 を生かすなかで

〈自己の美学〉 を作動させながら、なんらかの 《力》 をもった表現体を

結果的に生成させる 「素材との 《手》 による対話」 としての制作…

 

素材の選定では、自分の美意識が当然に、つよく作用する。

そこでは、卑近なもの (高価だったり、立派だったり… そういうもの

ではないもの) で、手で切ったり曲げたりの加工がごくごく容易にできて

作業が大仰不自由にならないものに、こだわっている。

 

 

そして、具体の造形では、《軽やかさ》 や 《かそけさ》 のようなものを

目指した。

構築的なものがとかく有してしまう 「がっちりとした堅固さ」 とは逆の

《ゆらいで あいまいな世界》 …

 

素材として、軽やかなもの、はかないもの… が選ばれているのは

「いまこの時の感覚」 を重視している ということに加えて

素材の繊細さが、その存在性を希薄化し、夢かうつつか?

という浮遊感覚を 《空間性》 とともに現出させるからである。

 

たとえば建築の場合は、《空間》 の中を移動することで、刻々〈別の世界〉

を体験することになるが、立体アート作品は一点凝縮的で、せいぜい作品の

まわりをめぐって 異なった角度から作品をながめる変化がある程度である。

今回の作品では、そうした一点凝縮的なアート作品を

それに 《空間 》 あるいは 《気》 を与えることで

一点凝縮性から解放させることを試みた。

 

 

そもそも、筆者にとってのアート作品の制作行為は、

どこまでいってもつかみきれない

 「精神と物質にまたがる深い脈絡宇宙」 を

探索的に旅すること にひとしいのだが

そうした 《気》 の中にある素材のはかない形姿は

それが、観者の内面宇宙の無限へと解放されている――

そういう かそけき気分を

この作品を直に体感する者は感じることであろう。

 

 

 

この作品の中心をしめる 〈自由曲線を描く針金〉 は

亜鉛メッキされたスチールワイヤーで、径0.28mmの極細のもの。

指先で、ソフトにソフトに… 息をつめながら、カーブを作っていった。

ちょっとでも扱いをまちがえると、角がたってしまう…

スチールワイヤーは、外力に対してきわめて敏感に変形するので

「こちらの美学を満足させるカーブ」 になってもらうには

心をこめたこまやかな扱いが要求される。

そして、いったん形状ができると

その形状をしなやかに保持する 〈弾性〉 をもっていて

たとえば粘土のように、指で押したらへこんだまま… といった

こちらの言いなりになるような単純受動性のマテリアルとは異なり

《ひかえめな反発的個性》 を

手による造形のその場ですぐに主張してくるところがあり

そこが、なんともいじらしい!

 

いっぽう、クラッシュして造形した紙のほうは

バルカナイズドファイバーという 工業分野で用いられている硬い紙で

含水させてプレスすると成型できる、という特性をもつ。

今回の作品には、厚さが0.25mmの薄いものを使用しているのだが

それは、あたかもプラスチックのような感じで硬く

そのため、クラッシュしたときの折り目部分の陰影のグラデーションが

普通の紙では得られない独特の美しさを見せてくれることを、知った。

 

 

今回の作品での素材のありかたは

常識的感覚からすれば

柔らかいもの と思われている 〈紙〉 が硬く

硬い と思われている 〈針金〉 が 逆に柔らかい…

既成感覚を裏切る素材――  という意外性が

触れなければそれと分からないように、隠れている…

 

また、今回の作品では

《手》 による自由自在な造形、にこだわっているため

日常生活で通常視化されてしまっているマスプロダクツの

必然的形態であるところの 〈幾何学的単純形態〉 とは

あえて距離をおいている、ということを付記しておきたい。

 

 

 

 

 

今回の作品は

 

背景に、メタファーの元の 形態的イメージ や 概念 がないために

素材のダイナミックな外姿が 裸の状態 で観者につたわり

作品に対する観者の側の 〈構え〉 がとりはらわれていたことが

観者の反応でわかり、うれしかった。

 

また、実作品を体感するときの

 《立体視》 にひそむ妙味…

《全体と部分》 を重ねて見ている視覚の厚み…

そして目の 《ズーミング》 の自在さ…

そういうものが複合した実存の視覚的体感は

写真ではまったく消えてしまうということを

繊細な素材を用いた今作品では

とくに強く感じさせるところがあった…

だからこそ

実作品の 《生の体感》 こそを

大切にしなければならない、という…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―― 作品をじかに体感してくれた方からの反応 ――

 

 

 

作品の支持体の立ち上がる壁面が 〈斜め〉 になっている

ところに、最初に目がとまった。

ワイヤーが無限へと飛びだすためには

垂直ではなく、斜めに立ち上がらないと、力は弱い。

かつてバスケットをやっていたことがあるが、ゴールするときは

垂直にジャンプする。 だから、ゴールは垂直に立っている。

それらを連想しながら 〈斜めの勢い〉 が、ワイヤーを生かしている

と感じた。

その部分で、壁の〈斜め〉 が観者をみごとに裏切ることもきっとあり

それで戸惑うまわりの反応も、おもしろいだろう。

そこに、その人の既成の感受性が、垣間見えるから…

 

「無限へ飛びだそうとする線」 と

「永遠をそこに刻もうと、それぞれの形態で佇む紙の陰影」

との対比は

この自然界の仕組みのような…

人間の見えない 〈内的宇宙〉 が眼前に提示されたような…

言葉にはならない 〈漠然としたモヤモヤした空白〉 を

形にして見せたのが今回の作品、だと思う。

 

ワイヤーの醸す浮遊感は

この空白が、ほとんど陰影を作らず

そのもの自体がそこに存在する姿から

発している…

 

アートと建築の狭間をゆらいで

思考の闇をゆらし

そのまた深い宇宙を

垣間見させてくれる、作品世界…

 

目をこらして、作品を見る…

そして、目がなめらかに移動してゆく…

そこにある 「 〈一瞬のかたち〉 の自由さ」 が

見る者に自由に発想させる…

その無礙なる自由さ!

 

(佐藤省 artist/poet/art director)

 

 

 

自己表現を一度否定してみる、それでもなお滲み出る自己…

そこに個の作品が在るのでしょう。

今回の作品はコンセプトに言いつくされていて

付け加えるとすれば、実作品が観者にどうみえたか、だと思うが

コンセプトからの乖離を、かぎりなく縮めて可視化しえており、美しい。

作品は気息し、極微から極大の世界を取りこめている。

また、これまでの作品にくらべて、動的要素が増し

観る側に作品感受の余裕をもたらしているように思われる。

 

(新井九紀子|ことばの世界を図像世界化する墨画家)

 

 

 

畑さんの作品のような空間を歩きながら…

あの世界(観)に揺さぶられながら身を任せたら

どんなかな…

と作品を観てから考えていた。

 

(トヨダヒトシ|スライドショーのアーティスト)

 

 

 

 

 

*1 ―― 詳細については、2013年11月16日付の掲載文

「世界の連想 | 畑龍徳作品 - 存在性希薄化のアート – 」

をご覧ください。
写真:筆者撮影

 

生き物オブジェ | 多肉植物と白磁鉢のデザイン

美 ○ 創造

 

 

 

 

 

 

いかにもみずみずしい多肉植物に出会ったのが

そもそもの ことのはじまりである …

 

 

最近は まちでよく多肉植物をみかけるが

しかし 「これは」 というものには なかなか出会わない …

それが 昨年の春(2014)のこと

隅田川を見晴らす木造家屋の二階の物干し台に

多肉植物が展示されているのにでくわし

その多肉植物たちがいずれも 〈命の光〉 を発しているかのように

いかにもみずみずしい姿をしているのにすぐに気づいた …

 

そして 房状の多肉葉を赤く染めている株立ちの一鉢 (乙女心) に

目がとまった …

色合いの美しさとリズミカルな全体の姿とが

なんともいえずいい感じで すっかりほれこんでしまった …

 

で その場で ふとイメージがわいたのである …

この多肉植物のために円筒形のシンプルな白鉢を用意して

自分のアトリエにオブジェのようなかたちで飾ってみたら …

 

 

その元気な多肉植物を育てているのは 高橋なつみさん という人

であった。 

とりあえず気にいった 〈乙女心〉 の一株を取っておいていただくよう

高橋さんにつたえ その一株をいちおう想定しながら鉢の図面を描いた。

その図面にもとづいて 平松祐子さん という白磁の作家に

実際の鉢を作っていただくことになった (*)

氏の生みだすシンプルな三次元曲面はとても美しく

その感覚に信頼をおいての 筆者にとっては

とてもぜいたくなコラボになった。

 

 

多肉植物という生命体の有機的なフォルムと

そのフォルムを映えさせる 「それ自体はデザインを強く主張しない

シンプルな幾何学的形態」 の組み合わせ――

そこでは とくに鉢自体のプロポーションを重視しており

その自立したプロポーションに対して、多肉植物のサイズの大小や

多様な形姿に応じて、それなりに、植物と鉢とが一体となって

独自のバランス美を生成してくれる。

 

また、平松さんに作っていただいた鉢の厚みはきわめて薄く

多肉植物をななめ上方からみたときの 「鉢のエッジの丸いライン」 が

きりっとかろやかで 美しい!

 

 

結局 四つの白磁鉢に、筆者が希望した品種を高橋さんが植えこんで

くれて今年の梅雨入りのころにそれを届けてくれた。

そのときはじめて目にした 鉢上に展開する多肉植物それぞれの姿に

格別の感動をおぼえたのをわすれることができない …

 

ここに掲載した写真は その中の 〈福娘〉 という品種である。

 

 

 

 

写真:筆者撮影

*佐藤省さん(ギャラリー悠玄)に間を橋渡ししていただいた。

ここに記して感謝の気持ちを表します。

 

ペーパーによる顔の造形 | 二ノ宮裕子作品

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

 

〈省略〉 の抽象表現――

 

 

その典型的なもののひとつとしてクロッキーがおもいうかぶが

それは、描く素材としての対象がまず存在し

その本質的に不可欠なエッジあるいは境界のラインなどを

二次元性の紙の上に描く…

 

つまり、三次元的対象の複雑性の中に本質的な要素をとらえ

〈省略〉 をおこなうことの中に かえって 〈表現体強度〉 を実現する

「眼と手による協動行為」 である。

そこでは、描き手のフリーハンドの線の生命力が決定的な意味をもち

そして、モデルという実在の本質を 描き手の内面の眼で観ること

が前提された 対話的な創造行為 である。

 

 

ここでもし、手で 〈描く〉  ことをせずに

白紙に切り込みを入れてレベル差をつくったり、カットした紙片を合成する

などして、そこに生成する 〈光の陰影〉 のみで表現体をつくること

を考えてみたら どういうことになるか…

 

それは、現前の対象を 〈描く〉 のではなく

内面のイメージとの響きあいをとおしてチェックされてゆく

 〈構築〉 になるであろう。

 

 

 

 

先日 用事で立ちよったギャラリーで

彫刻家/デザイナーの 二ノ宮裕子 (hiroko ninomiya) さんが

展覧会のために作品を搬入されているところに遭遇した。

 

白い紙を用いた半立体の切紙作品の展覧会で、メインの展示は

企業機関誌の表紙のデザインのために20年にわたって制作してきた

「さまざまな幾何学的形体」 で構成された作品群で

あらかじめ写真に撮られるプロセスを想定してのデザイン作品であるが

さまざまな形の複雑な交響性が 〈ゆらぎ〉 になっていて

たのしい雰囲気の作品たちであった。

 

 

その氏の作品が

作品に当てられる光の角度がすこしでも変わると

表情が劇的に変わる…

紙の切り込みラインの両側の面のごくわずかなギャップが

こんなに!―― とおもわせるほどのくっきりとした陰影を

浮きあがらせている…

 

 

まさに 均質なまっ白な紙の面上における

「光の 〈まっすぐな性質〉 と 〈どこまでもなめらかなグラデーション〉 」

が生かされた それこそ シンプルにして繊細な作品たちであった。

 

 

 

 

 

ところでメインの展示とは別に、ひとの顔の作品があって

(→写真)   惹かれるものがあった…

 

 

表現効果が 描きながらその場で確認できるクロッキーなどとはことなり

制作している段階ではその見え方があるていどは想像できるものの

本当のところはライティング条件を設定するまでは予想がつかない

という 「向こうからくる豊かさ」 を秘めた作品である。

 

 

表現体の物質的マチエールではなく、平滑面の光の反射と陰影

によって浮きあがる この 「光を刻むアート」 は

表現体をクローズアップしてゆくときに 〈ディテールの味〉 が現れる

ことで作品が力をもつ通常の美的表現体とはことなっていて

作品に近づいてみても、光像を生成する単純な仕組みが

わかるだけである。

この作品は、ほどよい距離から眺めることで

その 「 〈繊細なシャープさ〉 と 〈溶融したような滑らかさ〉 とが

ミックスされた独特の美しさ」 を 味わうことができる。

 

 

カッターやハサミで紙を加工してゆく…

あるいは

その構成の見え方が

当てられる光の角度や質によって左右されてしまう…

 

通常のフリーハンド作品にくらべると

一見 不自由にみえる制作上のそうした制約が

かえって 表現体の 「予想外な抽象効果」 を

まねきよせているように思う…

 

 

 

二ノ宮の人体頭部の抽象は

 

日常視のじっさいの人体のイメージが 背景にダブることで

 

立体物が 紙の切片に置き換えられるという

 

 「大胆な造形」 が映えていて

 

また 反射する光が 人間の内面からの発光のようにもイメージされ

 

創造のための作為の集積志向とは逆の 「きわめてシンプルな構成」 の中に

 

透明感をたたえつつ 「抽象ならではのエニグマのゆらぎ」 を体現していて

 

しばし 時がすぎるのをわすれさせてくれた…

 

 

 

 

写真:筆者撮影

 

空間性の詩的陰翳 | 田尻幸子作品

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これまで、空間性に着目した大小のオブジェ作品を発表してきた

田尻幸子さんの近作をみる機会があった。

 

かちっと整序されていないたたずまいの

やわらかみのあるギャラリーの空間に包まれて

その中央に、木製のさまざまな矩形フレームを丁番で結合したり

あるいは 独立にあつかったりして構成した作品を配置し

ギャラリーの壁面や低めの天井の凹凸などの空間的特質と呼応させて

 「 〈明快さ〉 と 〈微妙なテイストを息づかせる複雑性〉 とが混成した

不思議な魅力の作品空間 」 を仕立てあげていた…

 

それは、なんということのない簡単な仕組みの構成体ではあるが

しかし、ジワッとくるなんともいえぬ味わいが漂っていて

作品のまわりを移動してゆくと

それにつれて、個物的存在としてのいわゆる一般的な立体アートでは味わえない

「 空間性にもとづいて立ち現れるさまざまな妙味 」 が明滅する…

 

 

木製フレームの中は、透明シートを仕込むことなどはいっさいしていない

ただ抜けているだけの単純なつくりなのだが

手前のフレーム越しにむこうを見ると

むこうが なにか透明な液体の中にあるように 微妙にゆらいでいる…

あるいは、鏡像のように感じられる瞬間もある…
 

 

このゆたかな錯視は

幾何学的に単純に構成されたジャングルジムのようなものでは筆者は

経験したことのない現象なので

照度が落とされた空間におかれた 「 アート的にゆらぎをもって構成された全体 」

の中にある 〈フレーム越しの透視〉 がもたらす独自の現象なのではないかとも思う。

 

こうした錯視をふくめて、田尻作品は

そのまわりを移動する者の視界に

重なりあうフレームの実体と透視のからみあいの変化を

影の像の妙ともどもたのしませてくれて

観者を自然に作品とのたわむれにさそってくれるあたたかな親和性を体現していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パッと見では、あるいは建築現場の軸組を連想するひとがいるかもしれないが

それは、皮相的な連想というもので

田尻作品は、矩形という卑近な形状にともなう原初的連想を

観者の主として意識下で共鳴させながら

特別感のない表情のさまざまな比率の木製フレームを

あくまでも普段着のようにゆるく構成することによって

「 透けて 〈開放〉 された矩形フレームの 〈閉じた〉 整 」 と

「 重力に力学的にしたがう 〈安定感〉 の垂直構成の接合の

上方にむけて 〈あやうさ〉 をともなって開放される造形 」 という

いずれも矛盾性を内包するイメージの 〈共生〉 をやってのけていて

事前の入念なエスキースという予定調和の確かさを忘れさせるさりげなさの中に

構成風景のかろやかな変化の妙を実現している。

 

だから、構成が、端正さを有しつつも、それは

力学的に考えられた合理的構成などとは似て非なるものであって

観者の移動にともなって、相矛盾する視覚イメージ性を 観者の内奥で

微妙に多重融合・変化させて響かせる

いわば 〈詩的な陰翳交錯装置〉 になっている。

 

 

 

 

 

 

筆者は、カメラのモニター画面を見ながら作品のまわりをゆっくり移動して

さまざまな角度から作品をフレーミングすることもしてみたが

たしかに写真では、フレーミングの構図はたのしめるものの

そこでは田尻作品の微妙な空間性のゆたかさは、まったく失われてしまう。

リアルワールドは、もともと、そのなまの味わいを

写真に置換することは不可能であるが

田尻作品の微妙なテイストは、とりわけそのことを強く感じさせるところがあった。

 

 

思考のプロセスに男性型の垂直思考と女性型の斜めの思考というのがあるが

田尻作品のダイナミックな構築性は

単純な合理的構築や 男性型のある意味きっちりとおさめる志向の構築とはことなる

どこか日常性の温度感をもつ 〈きばらない構築世界〉 の

ゆたかさと 自然さと 親和性とを

体現しているように感じた。

 

 

 

写真:筆者撮影

*この展覧会は 2015.6.1-6.6  ギャラリー悠玄(東京銀座)で開催された。

 

息づく図像… あたたかい静寂… | 周豪作品展

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

先月 銀座のギャラリーで その場を去りがたい

気持ちにさせるすてきな展覧会があった。

 

周豪さんの油彩の作品展で

一見とても単純な抽象的図像が描かれた画面が

しずかに息づいて

こちらが気づかないうちに 自分の内面が

まったく自然に 作品と同期してしまっている …

 
 

なんと表現したらよいのか …

 

視覚の常識がくつがえされたような

単純図像ゆえに成しえたと思われる

深く そして あたたかい 〈 静寂の気 〉 に

作品全体が包まれていた …
 

 

 

かのマーク・ロスコは 非常にデリケートな色面によって

美しく深い抽象世界を作ってみせたが

単純な図像による絵画の場合は

人間の意識内における 〈 識別の限定性強度 〉 という特性が

からんできて  単純図像 = すぐに了解されて 妙味がない

ということに帰結してしまいがちである。

 

そもそも表現というものは 新鮮さとか おもしろさとか …

観者の内面に 〈 脈絡宇宙 〉 として存在しているであろう

複雑な背景に対して それに傾斜を生起させる

なんらかの効果ある 〈 異化作用 〉 を及ぼすものでなければ

感動をもたらすことはできない。

 

記号とか模様に利用されている単純図像は

識別されやすく 親しみやすい面があるが

しかし 陳腐 …

 

だから 単純図像を抽象絵画に用いることはむずかしい面がある。

 

 

 

ところが 周の場合は

 

単純図像が

 

 「 こんなにも自然に こちらの眼を釘づけにしてしまうものか … 」

 

と かえって不思議な感じにさせられてしまう …

 

 

 

これはどうしたことか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

周の図像は 単純ではあるが 単純ではない!

 

 

自己の感覚だけをたよりに 〈 形の探索 〉 をくりかえして

これでもかという淘汰をへた結果 見出された

きわめてデリケートな 〈 細部特質 〉 を有する形は

周の 詩人としての内面宇宙が

〈 世界の感受として滲みださせる根源形 〉 であり

それは 見ようによっては

どこかで見たような形のイメージとも重なるが

しかし 実際は 「全体単純性の中の細部複雑性 」 ともいうべき

画面の妙味に 瞬時に こちらの内面が融解同化してしまい

そこに 陳腐という印象が 入りこむ余地はない。

 

 

ここが大切なところなのだが

 

周の図像は 図像自体を 直接描こうとはしていない!

 

背景に対して屹立した図像ではなく

絵の背景を少しずつ描きすすめる中から 〈 湧現してくる図像 〉 である。

だから そもそも通常の 「 図と地の関係 」 が 意図的に避けられていて

 

図像は 全体の 〈 気 〉 の中に 揺らいでいる …

 

 

画面に絵具を食い込ませるような気持ちで少しずつ描き進められるプロセスは

それこそ 気が遠くなるような作業であるが

他者からみれば あるいは愚直にもみえるそのプロセスこそが

周の無意識的内面宇宙と 表現体のありようとを

おのずと 融解同化させている魔法の独自描法なのではないか …

 

そして その描法が

しらずうちに 瞬時に 精度指向視覚から観者を引き離し

現実世界の三次元性リアリティとは距離のある

〈 平面ならではの抽象の力 〉 を発揮させて

画面と同期した観者の内面の運動を

一気に深層へとしずめてゆく …

 

 

  そこにあるのは

  絵画の 〈 観者に対する純化された作用 〉 で

  メタフォリカルなイメージを寄せつけるような甘さのない

  図像単独と 観者内面との

  ダイレクトな融解同化…

 

 

 

だから 周のタブローは 〈 決まったテーマ 〉 を描いているわけではない。

 

作家と 観者と が

 

ともに

 

宇宙的スケールの 〈 命のプロセス 〉 に 美的融然とする

 

―― そういう 〈 契機としての表現 〉 といえるのではないか …

 

 

 

 

 

                             

 

 

全体から細部にいたるまで すべてが

とことん周の感覚で密度高く包まれた世界 …

 

絵相互の配置関係や 作品とギャラリー空間との呼応関係 にいたるまで

その統御は徹底されている …

 

がしかし 作家の感覚による統御の痕跡を微塵も感じさせることはなく

〈 内面宇宙 〉 の無限の広がりの中に誘いこまれた自分が

あたたかく おおらかな響きの妙に ただ浸っているだけ …

 

 

 

 

「 暗闇の中でも その絵の気配が感じられるような そんな絵を描きたい … 」

 

 

会場で周が語っていたことばである。

 

 

 

 

写真:筆者撮影

*4枚目の写真は周豪氏撮影による

 

格好をつけた 〈 整 〉 と 平凡な 〈 不整 〉 | 畑龍徳作品           Sharp Figuration / Crushing

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

                                           

 

99%の繊細さと

1%の大胆さにより

均衡を保っている宇宙

 

「 いまここ 」 

を生きる実感から導かれた

最小限で最大限の要素

 

清潔な布で

磨きあげられ浄められた

たったひとつの細胞空間

 

または浄化装置

 

そしてそれは

光と風を導き

やわらかく繋がるための

ひらかれた心の宇宙 …

 

 
 評 : 甲斐瞳 artist

 

 

―――――――――――――――――――

 

 

 

 

格好をつけた 〈 整 〉 と 平凡な 〈 不整 〉

Sharp Figuration / Crushing

 

というタイトルの小品を Message2014 という

毎年年末に開かれる展覧会 に今年も出品した。

 

 

作品構成に参加させる要素を縮減、シンプル化させた世界で

形態と空間の相互作用のバランス点を 〈 鋭敏化 〉 して

自己の 〈 内面宇宙 〉 にひそむ  「 美意識の性状 」 を

あぶり出してゆく …

 

逆にいえば 表現体の 〈 複雑性の妙 〉 や 〈 パッと見強度 〉 に

無意識的に 依存してしまうことを あえて避ける …

つまり 〈 美の法則 〉 の中にいながらも 

 「 美への 〈 可能性の豊穣 〉 」 に あえて浸からない

―― そういうプロセスによる 「 内面世界のあぶり出し 」 …

 

 

 

こういう趣旨で  ―― 素材は すべて 〈 純白の紙 〉  を使用 ――

 

〈 不整 〉 の部分要素は 特殊な白色紙を折り紙程度の大きさに切り

「 意図を働かせず 」 に手でクラッシュし その一個目と二個目を

あえて使用して 〈 選別 〉 のプロセスを介在させていない。

ただし クラッシュしたときの球状のサイズだけは

〈 整 〉 の部分要素である 〈 カベとのバランス 〉 がとれるように

大雑把ではあるが 配慮した。

クラッシュした紙の 〈 襞の部分 〉 に なぜか ほのかに

クリーム色のグラデーションが現われたのを発見したとき …

 これだ! と思った。 まさに 向こうからのプレゼント …

 

 

 

人の 〈 内面宇宙 〉 …

 

それは 人それぞれの人生経験をへて

はかり知れない複雑さと

不確定性を内包する 〈 脈絡 〉 を

形成しているはずだ。

その無意識世界は

直接的には とらえることができない …

 

でも 作品を制作するプロセスの各局面局面で

意識的に ある判断を  「 直観的に 」 するときに

それはイコール

〈 内的脈絡 〉 の いつわらざるアクションである。

 

 

 

そうして結果した作品は 〈 不整 〉 を含めて美的である ――

 という世界内にとどまりつつ、つまり 〈 美的 〉 という 〈 整 〉 に

包含されつつ

部分要素としての 〈 不整 〉 が、部分要素としての 〈 整 〉 との

対比の中で、平凡どころか かえって特色を主張しだした …

 

〈 不整 〉 がもつところの 〈 ゆらぎ 〉 …

 

 

 

 

 

自己の 「 内面世界のあぶり出し 」 という

自己中心の制作過程は

当然 他者の眼は 無関係であるが

100人以上の作家が参加する企画展へ出品する

という動機を自己に課して 制作をし

そして 自分自身が納得すれば

 「 結果として 」 作品を展覧会に出す ――

 

そうして 作品が衆目にさらされる …

 

 

 

来廊者の作品に対する印象などが ことばとして

ぼくの耳にとどくことは 通常きわめて限られているのだが

とくに今回は 前にのべた作品の性質上

他者の反応は 期待していなかった。

 

 

しかし 作品搬入のときに イラストレーターの小渕ももさんが

まだセッティングされる前の横っちょに置かれていたこの作品に

気づき シンプルな作品性に 真っ先に反応してくれた …

 

ぼくは 作品を構成してゆくときに

作品サイズがどんなに小さくても 物質を配置するごとに生成変化

してゆく 〈 空間性 〉 を見つめている。

だから 小渕さんの反応は 氏の眼が空間的であることを暗示して

いるのではないか … とぼくに想像させるところがあった。

 

 

 

ぼくの作品をみに 知りあいがわざわざ会場に足を運んでくれる

ということは ほんとうにありがたいことだと思っている。

そして 作品をめぐって来廊者と直接話をする機会があったり

感想メールがとどいたりすれば 自分は いわば作品を介した

〈 スペシャルな会話 〉 を楽しませてもらっていることになる …

一人歩きをはじめた自分の作品が 鏡のようになって こんどは

 ふつうの会話では 「 決して出現することはない角度 」 から

他者を 眺めさせてもらっている …

 

 

 「 白い小さな空間の中に、〈 不整な形 〉 の存在感の大きさに

驚いた。 光と影、白の持つ特性、相対するもの、が新鮮で

まるで宇宙を見るかのよう …

洗練された 何気ない シンプルな美しさ … 」

(岩崎恵美 singer)

 

 

「 光の差し込むシャープな影が キリコのよう …

薔薇の花のような 丸いクシャクシャしたオブジェが

大きなアジサイのようにも見え 色を様々に 想像できる … 」

(杉田茂樹 editor)

 

 

「 〈 要素の関係性 〉 の 苦悩など寄せつけぬ 強い存在感 …

風の通る道筋を思い … 光があやなす影の深さと匂い

に寄りそわれた 〈 空間を切る境界 〉 への認識 …

思わず じっと佇ませてくれる …

小さいがゆえの 凝縮された宇宙 …

光讃え 知的な陰影を放つオブジェ … 」

(佐藤省 artist/poet/art director)

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

心の花 の造形 | 秦碧の染花

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

生の花と 上質な絹を用いて丹精込めてつくられた花とでは

そこに違いがあるのは当然であるが

しかし 生の花にできるだけ似せる――という いわゆる造花とは

似て非なる  「人の手になるものならではの 〈 花の造形 〉」

というものがある。

 

 

このたび銀座で秦碧さんが染花・陶・書の個展を開かれた。

そこに展示されていた染花は まさにそういう

 「作家の心を描いた花」 であった。

 

これまでの創作活動の集大成的な展覧会であった

と氏は語る。

 

 

 

展覧会場のいちばん奥に

ほとんどモノトーンに近い しかし色調のほのかな綾がじつにみごとな

花弁の先端が繊細にわれて 空間にとけいる大輪のチューリップが

頭おもたげに長い茎をしならせてムーヴメントをえがき

そこは 〈 抑制されたゴージャスさ 〉 ともいうべき空気に

包まれていた …

 

ポイント的にオフホワイトの花が配され

全体が黒チューリップの群で構成された世界は

いわば 〈 鷹揚な立体絵画 〉 …

 

ほのかに息づく陰影が 深い静寂の中にある …

 

 

 

自然界にある花は それぞれに個性があり 美しい。

だれもが その美しさになごまされる。

向こうから うるさく話しかけられることなく

その存在がたとえあざやかであっても

あくまでも ひかえめな位置にいる …

 

人間にとって

根源的なところで

いつまでも

ともに いてくれる存在 …

そして

ともに いてほしい存在 …

 

 

そういう人間の花に対する印象を背景にして

 〈 自分自身の花の造形 〉 が

おのずと生まれてくる。

 
植物の品種改良によって無数の花が生みだされているが

そういう生命体としての花の新種というのとはちがう

 

 

一個の人生が生みだす

 

一個の感性宇宙が生みだす

 

〈 詩 〉 としての花!
 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

身体性と渚の眺望 | 藤井龍徳の作品 – 潮の宿 -

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

午後の傾いた陽光を反射するしずかな入江の水平面に

ウィンドサーフィンの三角帆が夏をおしむように

互いをうまくかわしながら

かなりの密度の中で滑走している…

 

 

海沿いの国道をしばらくゆくと

右手の一段高くなった擁壁上のへんてつもないフェンス越しに

木造の片流れの小屋が 目にはいった。

「ああ、これだな… でも どうして こんな場所に?」

という印象が まず頭をよぎる…

 

 

この角材を並べた透き壁の一見して普通の小屋は

藤井龍徳さんが 逗子アートフェスティバル 2014 (9/20-10/12) で

手作りした作品だ。

 

 

藤井は 主催者が指定するサイトではなく 自分で歩いてこの場所に

出会い インスピレーションが動いた。

 

 

 

 

 

 

 

このつつましいたたずまいの小屋は その外観を見せることが

主眼ではない。
 

 

かつての防風林のなごりと思われるうねった松が入り口の直前に生え

小屋との隙間に靴をぬいで 身をかがめながら限界寸法の狭い階段を

数段あがると左手に 坐った状態でちょうどよい寸法の

板張りの空間があり 右側が海に向かって横長に開かれている。

 

 

壁に寄りかかり脚をのばせば

なにか 〈包安的〉 ともいえる身体感覚の中で

気持ちのよい海の風景と

相対することができる…

 

眺望のための開口は 浜辺と海がちょうどよい具合にフレーミング

されていて 直近のフェンスとか 浜とこちら側の間を走る国道の車は

目に入らない。

 

 

藤井の今回の手作り小屋は

所詮 〈部分的視野の総体〉 でしかありえない経済・利便性追求まっしぐら

の現代社会に対する 〈創造的営為としてのエレジー〉 になっている。

 

前面を国道、背後をまとまった収容台数の駐車場 によってはさまれた

小屋が建つ場所は、さながら車のための空間に包囲された孤島のような

高所であり、藤井はそこに

だれでもが立ち寄ることができる 「海景美への視覚的通路」 を創出した…

しかも そこに入った人に

 「風を受けながら 〈包安的ともいうべき身体感覚〉 を付与しつつ

〈視覚の脈絡宇宙〉 の深みへ」   という大きさの中で…

 

 

 

 

 

 

 

一人で海を眺めるもよし…

でも、話が相通じる他者との会話には

これ以上ぜいたくな空間はないのでは…

と並んで坐った藤井と話しながらぼくは思った…

 
時々刻々と美しい変化をみせる静かな海の夕焼け空を

ときどきカメラのシャッターを押しながら ゆっくりと眺めいった…

その解放された 無心の時間…

 

 

表現体のアピール性を主眼にした一般のアートとは一線を画して

そのひかえめな外観の眺望小屋には

人の内面を 身体性をふくめて ゆたかな脈絡宇宙へと

知らぬ間に導いてしまう ―― そういう仕組みを創出した藤井の

やわらかな純心と 感性のデリカシーとを

そこここに それとなく感じさせるところがあった…

 

 

 

 

写真:筆者撮影

*逗子アートフェスティバル 2014 → http://www.zushi-artsite.com/

 

 

蛍の光跡

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

丹沢山麓の串川で、数日前に初蛍がでたという先月下旬、湿気に

包まれた夕暮れ時の樹林の中にふっと湧くようにあらわれる数少ない

源氏蛍の光跡を、じっと眼で追った…

 

甲虫のぎこちない飛行は、昼間見たのではあたりまえの単なる飛行

であるが、それが、光のラインとして現れると、時間の次元がずれて

しまったのか… と思わせるようなその 〈遅速〉 の、じつにやわらかに

予想をうらぎって小さくそして大胆に変化する光跡は、なんとも表現

しがたい妙なる趣のもの… と深く感動してしまった。

 

この感動は、数少ない蛍を眼で追ったからこそ、見えた世界…

蛍の群舞ばかりを求めていては、出会えない世界…

 

小学生の頃、友人が蛍を見せてくれたことがあり、そのときはじめて

蛍の姿を目の当たりにして、なんだ、これが蛍か… と、なんか味気

なさを感じた記憶がある…

 

知らないほうがいいことがこの世界には、ある。

知ってしまうと、初々しい感受のよろこびが二度と体験できない――

そういう、先行して得た知識のネガティブな面が、ある。

そんなことも考えさせられた蛍の宴であった。

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

原寸世界の〈あたりまえ化〉 を破って生成する 視覚詩        相澤秀人作品

美 ○ 会う

 

作家の相澤秀人さんから電話があり、いつもの控えめな調子で

時間があったら作品を見てください … と。

3日間の共同展で、その展覧会のタイトルは、

―― Lost Modern Girls ――

 

( 昔から、自立する女性、強い女性を応援したいと思ってきた筆者

としては、この展覧会のタイトルが発する響きに、

ただ単純に反応してしまう … )

 

この展覧会は四谷アート・ステュディウムの企画で、詩を読んで

それを視覚作品にするというもので、有志の作品が会場に並ぶ。

 

 

 

相澤の作品は、清岡卓行の 「デパートの中の散歩」

( 清岡40才のときの詩集 「日常」 1962 ) に呼応したものだが、

この詩を選んでいること自体が、相澤の創作世界がもつ現生性

を表していて、また同時に、この企画のタイトルとは判然とした

脈絡をもたないようでいて何か響きあっているようなところがあり

面白い。

つまり、詩の選び方も、詩的だ。

 

相澤は、作品のタイトルもいいな … といつも思わされてきたのだが、

今回は、「必ずしも信じないあるときの」 というタイトルで、清岡の

詩の一行を用いて、作品自体を見たときの印象との間に

しゃれた 「響きのための半絶縁距離」 をもたせている。

 

 

 

鮮やかに浮きあがる赤茶色の ラグビーボール …

     

ちっちゃな キリン …

 

そして、いつのまにか若者を中心に日常風景になってしまった

深いモスグリーンの ハット

 

 

 

一見、相互に脈絡なきものたち がかもす 《響き》 …

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこには、当たり前化している日常の 《原寸世界の視覚》 を

「(無意識世界が支えている) 感受性の基盤」 としつつ、

異質な作品構成要素相互の 「形態的共鳴性」 を考えつつ

それらのアイテムが 「〈本来居るべき場所性〉 の消去」 や

生き物の 「物質的ミニチュア化」 といった

決して突出をねらわないひそやかな 《異化》 を働かせる …

かつ、作品構成要素間の空間的な相互配置に

細心の直感的・野性的ジャンプの創造力をさりげなく効かせて、

じわっと響いてくる しゃれた造形詩 をつくっている …

 

 

街路に直接面したギャラリーの入り口の大きな引き戸を開けると

すぐそこに相澤の作品があって、ラグビーボールの鮮やかな色が

すぐに目にとまった。

この、何というか、構えのない、風をかもすような軽やかな展示の形

にも、さりげない 詩的な心 を感じた …

 

 

今回の作品は、それに関連するすべての特性が協働して、

おおげさではない、日常性につながった 「今 この時」 の詩的香りを

うたっていた。

 

それにしても、作品の原寸世界がかもすリアリティの強度は、

写真にするとこんなにも失われてしまうのだ ということを

今回も ただただ痛感するばかりである。

 

 

 

写真:筆者撮影

 

美しい 時間の形象 | 五十嵐美智子 個展

美 ○ 会う

 

 

 

 

 

 

 

紙の原料であるコウゾ (楮) の繊維を水に拡散させたものは

紙料 (しりょう) といわれ、これを漉いて和紙は作られる。

長年の和紙漉きの経験をもつアーティストが、この紙料を

用いて とてもユニークな表現世界を見せてくれた。

先頃 銀座で個展を開いていた五十嵐美智子さんがその人だ。

 

 

作品は、楮の繊維が凝結した円形平面状のものと

線状に撚られたものとのふたつの要素から構成されている。

いずれも、作家が膨大な時間をかけて 自らの手で

生み出したものだ。

 

 

不可逆的に過ぎ去っていく時間は、光陰矢の如しの譬えに

みられるように一筋の線のようなイメージをもつ。

そういう物理的時間の流れの中にあって、一方で、人は

人生という限られた時間の中で、さまざまな出会いをもち、

 「(ときに時間を忘れてしまうような)人生の輝き」 を

体験してゆく…

そんな、人生のせつなくもいとしい時間の有りようが、

「一連なりの撚られた楮のライン」 に込められていて、

美しい紡錘形の螺旋は 人生の途上の 「ゆたかな

ふくらみの時間」 を形象化しようとしたものだ… 

作家は、「言葉では表現がむずかしいのですが…」 と

前置きして そのような意味合いのことを語ってくれた。

 

 

 

 

 

 

 

透明の薄いアクリル板で支持された楮の紡錘形は、

光の加減と見る角度で、表情がとてもデリケートな変化を

見せて、美しい。

 
連続する面で構成された通常のオブジェとは異なり、

くっきりとした螺旋ラインで 紡錘状の輪郭をやわらかく想定させる

「透けの形」 は、その内側に抱える空間性を 消/現 のはざまに

ゆらがせ、ほのかな光の空気感を漂わせながら、

楮のスパイラルラインが 独自の陰影のグラデーションを

しずかにうたっていた。

 

 

 

 

 

 

 

かそけき空間性を抱くこのような作品を生みだすような

人であれば、それを作品がのぞむよりよい空気感の空間の

中に展示してみたい… と思うのは当然のことであろう。

自作に居心地のよい居場所を与えて、作家自らがその作品の

響きを堪能する――

そういう意味合いも強く感じさせる 「アートする情熱」 がこちらにも

伝わってくるような密度の高い展覧会であった。

作家は、小さいときから 「紙」 がとにかく好きだったそうだ。

そして、20年ほど前に阿波の楮和紙漉きに出会う…

作家の作品づくりの人生の中の 「今」 が、

ちょうど今回の作品の紡錘形のふくらみの時間に

重なって見える…

 

 

 

―――――――――――――――――――――――

 

五十嵐美智子 ― みず の きおく ―

2013.12.2(月)~12.7(土) 11:00~19:00

ギャラリー悠玄 東京都中央区銀座6-3-17 悠玄ビル

TEL 03-3572-2526

泰明小学校前のカフェ脇の泰明通りを入ってすぐ左側

 

―――――――――――――――――――――――

 

 

 

写真:筆者撮影

 

(131208 展覧会の会期と関連する記述を書きかえた)

世界の連想 | 畑龍徳作品 ‐ 存在性希薄化のアート ‐

美 ○ 創造 美 ○ 思索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銀座のギャラリー悠玄で 「Message100 おしゃべりなArt展」 という

展覧会が毎年1回開かれていて、今年(2013年)も11月11日~23日

の2週間にわたって開催された。

同展では百人の作家たちがさまざまな関心の位置で作品を作って

いて、それぞれの個性を楽しめる 中味の濃い展覧会になっている。

この展覧会では、人間世界の 「多様性原理」 のことを毎回考えさせ

られてきたのだが、今回あらためて こんなことが頭に浮かんだ…

 

 

人はいつも自分自身のことを考えているけれども、でもこの世界には

自分とは異なるものをもった他者がいて 直接に間接に交流できる

からこそ 楽しい…

自分のことは自分が一番よくわかっている ―― これは真実であるが、

でも自分の良いところの多くは自分には見えず、他者こそがそれを

エンジョイしてくれる ということも真実。

おかしなことである。 自分のことばかりに意識が向かい過ぎていると

このことに気づかないで、ついつい傲慢になり、他者からはよ~く見える

その人の品格や美学のありようが すっかり萎縮してしまっていたり、

あるいは逆に、自分には良いところがひとつもない などと自暴自棄に

おちいってしまったりするかもしれない。

 

男女のことを考えればわかりやすいが、米国生活が長い日本人

女性が 「女と男は、まったく違う生き物よ!」 と語ったことがあり、

わたしはその時ハッとさせられたのだが、肉体的なことはともかく、

男女の内面の違いは それはそれは大きく…

でもそれは、《 対(つい)の世界の共鳴的深さ 》 へとつながる可能性を

秘めた違いである、ということ。
 

 

 

さて、わたしは、今回とても繊細な素材を用いた表現を試み、素材の

希薄化された存在感の中に立ち上がってくるものを求めて作品を制作し、

それを Message100展 に出した。

 

素材は、特別なものではない ごく身近なものなのだが、その素材が本来

もっている力学的特性を見つめ、そこから生まれる独自のシェイプを

メタファにして 「人間世界が生きていられる三つの次元」 を表現してみた。

 

 

 

 

 

 

素   材 :  トレーシングペーパー(t=02mm) 糸状針金(Φ0.23mm) 

         虫ピン(Φ0.5mm)

          ケント紙貼りイラストボード/台紙 

         スチレンボード/台形ベース

 

 

コンセプト :

 

長方形の白い紙を限定世界として、そこに3種類のデリケートな物質が

配置されてゆく…

トレーシングペーパーは、たわませると2次元性から3次元性へと変化し、

その弾性を固定するためにはベースにはいつくばせる必要がある。 

半透明な紙には、画面構成を大きく決定してしまう力がそなわり、そして

その陰影は実体の形と比べて、意外な様相を示す…

虫ピンは、剛直! 実体を1次元性から脱却させるためには相当の力を

強いなければならず、その陰影は、クリアな個別性の強さと、群の中の

リズムとを響かせる…

糸状の針金は、3次元中にそれこそ自由自在に形を展開してゆき、

雲のように浮遊を望む… 網目の陰影は、かそけさのグラデーション…

 

自由を求める個性的存在と 異質性を統御する全体中心化の存在と

不決定的な存在外宇宙と…

 

 

 

上の写真をご覧いただこう。

 

右側の抽象化された虫ピンたちが 「自由を求める個性的な存在としての

人」 を表していて、概して集まることを志向している現代の人間たちが

それこそ多様にそれぞれの位置で生きている。 

そこには、傾向を同じくする人たちの集合だとか 男女の結びつきだとか

いろいろあり…  こうして右側に、《 個の自由意思ベクトルの世界 》

ともいうべきものが抽象されている。

 

中央には 特殊なトレーシングペーパーの布置によって 「個性をもった

人間たちが 《 共に 》 生きてゆくための、主として不可視の存在である

 《 中心化の力 》 つまり 《 共通の仕組み 》 /その中で一番かたい存在が

 〈法律〉」 を、極限までシンプル化した形で表象している。

長方形の領域にバランスするように高さ2ミリまで縮減された曲線状の

トレーシングペーパーは、あえて正円弧にはしていない。 

自然なヘア―カーブともいうべきラインになっていて、

これは 「中心化の構造」 が硬直したものになっては駄目で、そうかといって

ふらふらしてもらっても困る。 そんなニュアンスを込めた形である。

 

以上のふたつが、この世界をつきつめてとらえたときの、

いわゆる 「存在」 である。

 

 

でも、人間世界が生きて存在してゆくためには、もうひとつの次元が

不可欠である。

それが左側に 髪の毛のように繊細なワイヤーで表現されていて、

われわれに、《 可能性 》 とか 《 ヒント 》 とかを思わぬかたちで付与して

くれる 「源泉としての宇宙」 ―― それである。

 

もともと人は、内面の認識世界では 「確定指向」 と 「不確定」 との間を

つねに曖昧性をかかえながら生きていて、また同時に、認識以前の

五感がまるごと脈絡する系としての感覚体験の中を生きている。

この宇宙の根底には 《 矛盾  》 が存在し、矛盾のない形での完全認識は

不可能であるのだが (ゲーデルの不完全性定理)、でも、生命という

これ以上ない不思議ですばらしい存在を生成するほどの宇宙の根底には、

記号論理を介した認識世界の一貫性とは別の何らかの 《 一貫性 》 が

厳として存在しているようにも思ってしまう。

この 「不決定的な、《 存在 》 の外の宇宙」 を、複数本ではないただ一本の

ワイヤーで表現してみた。

糸巻きに巻きつけられていたワイヤーは、一定の曲率で全体がカールして

いたが、巻きをほどくと、ゆるゆるとふくらんでゆく… 

そして、ちょっとでも無理な力を加えると なめらかな自然なカーブが壊れて

いってしまう。 

薄紙の風船でもあつかうように、ワイヤーをそっと手のひらの上でころがすように

形状の変化を引きだし、「素材のもつ力学的特性が生かされた 《 自ずの美 》 」

を体現していると思われたところで、交点を何ヶ所か接着剤で固定した。
 

 

作品は、このように、人間の三つの世界のメタファを 《 並置 》 して、

相互の響き合いとして表現されている。 

 

この 《 並置 》 という方法は、トレーシングペーパーと虫ピンとワイヤーを

同一領域の中で重合的に扱おうとすると、それらの間に 「視覚美における

相対的なバランス関係」 を発生してしまい、きわめて繊細な素材の

それぞれに、「繊細の中での、ある意味の視覚的強度」 をもたせたい

という条件との間に矛盾を生じてしまう ――

そういうことで着想されたものである。

 

 

色彩やマチエールの多様なゆたかさの世界にかかわることをあえて避け、

《 形のみ 》 で造形する。  しかも、その形の存在性を希薄化する。 

そこに立ち上がってくるデリケートな世界の響き…

 

 

 

 

 

 

 

希薄化された存在は、地平にどんな影を投影するのか? 

 

地べたに貼りついたヘアーカーブとアングル状の半透明な紙は、

濃い影を地平に落とすと同時に、光線の白い照り返しを

その影にダブらせる。 

ヘアーカーブの濃い影の方は、一見、白い地平に切り込まれた

溝のようにも見える…

一方、虫ピンと糸状ワイヤーの方は、地平にほのかな影しか投じない。

ところが、地平が白色なので、その白地を背景に素材の受照面の

反対側の蔭が、細くくっきりと浮かびあがる… 

そして、反射角度でちょうど眼に入る微細なハイライトを、

点々と息づかせる…

 

 

真っ白な台形ベースは、この作品の重要な要素である。 

ざわついた現実世界から繊細な造形世界へと観者の眼線を引きこみ、

感受性の態勢をデリケートな世界へとチューニングさせる――

そんな隠された機能をはたす装置になっている。

作品本体をよい状態で見せるという意味では3次元的な額と言えないこと

もないが、しかし、通常の額が、作品世界と外界との境界をつくる役割を

もたせられているのに対して、

台形ベースは、周囲の空間の中に作品世界を浮遊させ、現実世界との

間にほどよい距離を生みだしつつも、作品空間と周りの現実空間との間を

あいまい化して、観者の想像力の行き来を自由にしている。

 

 

 

「世界の連想」は、写真にはなりにくい作品である。

 

そのデリケートな静寂世界は、実物と静かに向かい合ってはじめて

体感できる複雑微妙なものだ。

ここに掲載した撮影方向が異なる2枚の全景写真は、肉眼で見た場合

の作品の見え方とはおおきくかけ離れたものになっている。

たとえば、ベースの形態の端正さを立たせる 「白さの映え」 はまったく

再現されていないし、肉眼では捉えられる線材の「硬質な か細さ」 も

とらえられていない。

 

 

 

 

本展を企画した佐藤省さん (ギャラリー悠玄チーフディレクター) が、

「世界の連想」 に対する評を送ってくれたので引用させていただく。  

わたしの作品が他者の眼にどういう波動を送ったのか… 

とても興味をもたされた評である。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

― 存在に内在する時間が水平に流れる 〈ざわめく静寂世界〉 ―

 

 

細いドローイングの線が空を切るように、

シャープにループする針金が発する光は、金属音の微妙な響きを

ともなって静寂を波立たせる。

静寂が形を得るとしたら、こんな形になるのかもしれない!

とさえ思わせる。

虫ピンの群れは、様々な関係性を際立たせ、

白い平地に落ちる影は、逆に光とは何か、静寂とは何か、

と問いかけてくる。

見えているからこそ、その深い影の間隙から  「見えない音」 が

聞こえてくるようだ…

ミリ単位のトレーシングペーパーのカーブも、しっかりと場を分割し、

微かな影を吐き出してはいるが、

肉眼でもその境はなかなか認識されない。

 

そんな物質たちによって構成された白い大地は、

巨大な中に仕掛けられた 「存在を消す装置」 のように、

見つめる網膜の奥にしか 本来の姿や色彩を結ばない。 

ごくわずかな選ばれた人にしか… 

 

このシンプルにして複雑性をもつ作品が、

なかなか一筋縄ではいかない性格を放っているところが面白い。

模型のようで そうではなく…

架空の王国が砂漠に出現したような…

 

 

あるはずの物質の重さが消え失せ、影が自立をうながされ、

そして、自立する影に内在する 「時間の影」 も消失させて…

ほとんど造形されていないように見せているその思索的な造形に

目を深く注げば、「見えていることの確信」 は揺らぐ。

 

虫ピンの狂ったリズム、

虫ピンが埋まり 崩壊してゆくバランス感覚の乱れ、

ループを描く細い針金が 頼りないが確実な旋律を踏んで、

それぞれの時間は、「未知」 へと吐かれている!

 

存在の輪郭を消失させるということは、

つまり 「何か」 へとイメージを飛躍させること。

作家の手により変容させられた物質たちが、

夢の一幕にサラサラと氷砂糖をふりかけると

地平に現れ出づる砂漠の蜃気楼のように 淡く 淡く…

余韻は深く 眩しく 輝いている。

 

そう簡単にその深さが何かを明かさない

崇高な鎮まり… 

そして永遠…

 

 
――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

佐藤さんの評を読むと、造形を導いた 「人間世界の三つの次元」 という

コンセプトとの関係はすっかり消えて、作品の造形面の特質が、現代美術

作家であり詩人でもある氏の好奇心と想像力とを動かしたようである。

 

 

 

 

【追記 131130】

 

「世界の連想」 の写真をご覧いただくと、糸状ワイヤーによる表現体は、

作品全体の領域の隅に寄せられた形で配置されており、そのすぐ横に

何も置かれていない空白領域を生みだしている。

展覧会最終日に来廊された甲斐瞳さん (現代美術作家) が、その空白

領域を 「空き地」 と呼んで おもしろい捉え方をしてくれたので、

その感想文をここに掲載させていただく。

 

 

あの作品の…

作家の内的宇宙は、いくら読み解いても終わりのない、多面的な 「今」

を含むものでした。

 

並列でありながら、あの分量配分の妙…

そして、あの 「空き地」 には… 何処まで意識を押し広げたとしても、

その果ての外側をほのめかす 「余」 の空白がありました。

そこは、閉じられていない解放感や、未知のものを許容する大らかな

精神まで感じられる 「場」 でもある と思いました。

 

 

 

 

Message100 おしゃべりなArt展 → 

http://www.gallery-yougen.com/cgi-bin/gallery-yougenHP/sitemaker.cgi?mode=page&page=page2&category=1

 

 

写真:筆者撮影

 

(131129 展覧会の会期と関連する記述を書きかえた)

風景の生命化 … | 藤井龍徳作品

美 ○ 思索

 

スコットランドから藤井龍徳さんが 氏のインスタレーションの写真を

送ってくれた。

 

 

 

 

 

 

深く沈んだ色調の写真が なんとも印象的だ。

 

繊細な皮膜のような透明感の空と、

フエルトのような柔らかな衣をまとって起伏する硬質な大地

との対比が、独特のテイストで迫ってくる …

 

私は、スコットランドには行ったことがないので、

風景の空気感と同化するような感じで、

初々しく写真の世界に入り込んだ …

 

美的なる世界への無心の共鳴 …

 

 

はじめに写真を見たときに 私をぐっとさせるその感動が、

氏による 「付加行為」 によってもたらされていることは確かだ …

風景に惚れこんで、氏が 〈造形的付加行為〉 にかりたてられる …

それは、「氏の魂による 自然風景の生命化」  …

 

 

 

氏のメールには、

 

日中の気温は15°前後、夜は寒い位で、

突然雨が降ったり晴れたりの繰り返しです。

冬の厳しい気候のためか

木々は小さく 可愛い花が沢山咲いています。

しかし風の弱い雨の時には

蚊の大群と格闘しながらの設置です。

…… しばらく、ピートの中の大きな石との生活です。

 

とある。

 

 

 

現地の時空を生きる作家自身は、

そこでの まあるい宇宙のゆたかさの 全ての中 にいる。

そして、写真世界は、〈世界の限定〉 による異化であり、

その 〈限定〉 は、現地で励起されている氏の美意識の中で

なされている …

 

これに対して、写真を見る側はというと、

写真の視覚情報以外の たとえば「蚊の大群」 といった

さまざまなリアリティーとは隔絶したところで、

かつ、いわゆる 〈意識知〉 が消えた眼が、

 〈物質的構成のムーヴメント〉 として写真をとらえ、

意識されていない内面に沈潜している記憶とか美的感受性が

呼応的に動き、意識に向かってささやく中で、

写真世界との共鳴を ただ純粋に生きている …

 

 

写真中央の巨きな岩を、氏は、「ピートの中の大きな石 」

と表現しているところをみると、それは、大地の突出部分ではなく

単独の岩なのだろうと想像するのだが、

そうだとすると、このど~んと居座る岩は、いつ、どのようにして

運ばれてきたのであろうか???

 

そういえば、長い時間の中で成立した存在と存在との境界の

詩的残響を即興するような何本もの放射する棒に、

てるてる坊主のような形をした白布が吊るされ

それが 付加された風景の妙として 響いている …

 

そこには、造形の 「曖昧なる多義性」 のようなものがあって、

それが、こちらの想像世界のかそけきふくらみを誘う …

 

氏の文章に、「風の弱い雨の時には蚊の大群と格闘 …」

とあるし、だから、天気を願うそういう 〈暗示的な意味性〉 が、

吊り下げる白布のあり方を決める際に、

あるいは関係しているのかもしれない …?

 

 

でも、そういうたぐいの 〈意味性〉 は、

あとから自然に、いろいろと想起されてくるもの …

あるいは、作家から話を聞いて、作品の世界の奥行きを

物語的に楽しませてくれるもの … ではあっても、

当初の私の写真世界との無心の共鳴には、

少なくとも 〈意識上〉 は なんの関係もないのだ …

 

 

 

作家の感動 …

 

そして、

 

写真観者の感動 …

 

 

それぞれの 「無意識世界と脈絡をもっているであろう美的感受性」

の間には、通底する何かがあるのではなかろうか。

 

 

 

 

【インスタレーション】

 

タイトル : Loch Maree Weather Station (ロッホマリー…)

        Gairloch (ゲアロッホ), Scotland

作   家 : 藤井龍徳 (写真撮影も)

 

 

全体美と部分間共鳴 | RINZ カフェギャラリー

美 ○ 創造

 

 

 

 

まちで見かける 手書きや手作りの個性的なメニュー看板 …

 

 

きちっと作られた固定看板が、

周囲の環境のあり方との対照関係で大なり小なり視認され、

通常の雑然とした環境の中にあって、

「看板全体としての整序の力」 をデザインに生かそうとする

のに対して、

 

日々、掲出内容を更新できる店頭の手作り看板の方は、

見る側の眼を 部分部分の情報に向かわせる注視性を有し、

したがって、看板全体の整序美というよりも、

「親しみを感じさせる おもしろさ」 というところで、

ユニークな表現が生まれる自由さがある。

 

「テンポラリーな性格のもの」 の中に現われる

多様な個性のゆたかさ …

 

 

写真は、前回の文章で紹介したカフェギャラリーのメニュー看板。

 

埼玉県東松山市に RINZ/Bakery Cafe   あ~との国

( Rinz Gallery+ を併設 ) が、今年2月にオープンした。

 

看板は、そこでアートディレクターを務めている金子清美さんの

手作り即興だ。

ふかふかしたパンのイメージが生かされたデザインで、

それとなく人目を惹いて、グッド …

既存の小椅子を利用して、その上にピンナップボードをのせ、

そうした制約の中で、臨機応変にボード面の構成を考える …

 

そこに、キッチリ決められたものには欠落しがちな

〈テンポラリーの軽やかさ〉 のようなものが漂う …

 

 

 

写真:金子撮影

*あ~との国は 2014年2月にRINZビルから移転しました。

 

手作りのフロアランプ | 金子清美作品

美 ○ 創造

 

 

 

 

 

 

 

写真は、あるカフェギャラリーのために手作りされたフロアランプで、

大型のガラス瓶の中にLED光源を仕込み、外側を特殊な紙で

くるんだだけの単純な構成ではあるが、紙のくるみ方がユニークで、

市販品にはない複雑微妙な陰影が とても柔らかで、美しい!

見る角度を変えると、微妙な表情が、大胆に、変化してゆく…

制作したのは、私のアトリエのパートナーであり、現代美術作家でも

ある金子清美さん。

 

 

売ることを目的にした量産品は、それが優れたデザインのもの

であっても、量産に適した素材の選定とか 組み立て方式とか、

最終的にはコストという条件に制約された中での可能性である。

 

一方、そのモノが置かれる場所の具体的な条件を読み込んで

より自由に発想すれば、現代的な魅力をもったデザインの

可能性が、思わぬかたちで姿をあらわすかもしれない…

 

本ホームページ Furniture のところに掲載してある

片手で軽々と持ちあげることのできる スツール moonwalk  は

それが使用される住宅の住まい手が、スツールを丁寧に扱って

くれることがわかっていたので、そういうデザインが実現した

のだった。

 

販売された後、どういう場所に置かれ、どういう使われ方を

されるのか ―― そこに一定の幅を見込まなければならない

のが量産品であり、その場合は、当然に、強度的な面で

安全側のデザインがなされ、結果、とかくドテッとした姿の

ものになりがちである。

 

 

手づくりしたものの場合、やけに作り手の個性が強くでたり、

あるいは、どこかで見たようなコピー的なものになったり、

真に優れたデザインは めったに生まれないのも事実。

 

でも、そうだからといって、ハイスペックで無難な量産品に

選好意識が安易に短絡してしまうのは さびしいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影

 

異形の庭 | 佐藤省 個展

美 ○ 創造

 

前回のブログで書いた佐藤省さんの展覧会は、

来廊者それぞれの眼に 独特の印象を刻印したようだった。

 

展覧会の会場は、住宅地の中の一軒家を改造したもので、

昔の木造車庫が 小屋組みの見えるギャラリー空間に改修され、

隣接する和室空間には 床の間があり、

縁側越しには 緑豊かな中庭が望める ――

そういう、いわば 〈気取りのない空間〉 なので、

観者は、空間に馴染んだ状態で 作品にゆっくりと

接することができたのではないかと思われる。

 

展覧会の実際の空気と その中での作品の印象は、

断片的な写真を並べてみても、伝えることはできない。

住宅部分を含む展示空間の全体は、ホワイトキューブとは違って、

さまざまな性格をもつ部分空間の集合体であるが、

それぞれの部分空間にふさわしい作品が厳選され配置されるとき、

実際の空間では、観者の 「相互に性格を異にする空間から空間への

《移動》」 が、展示作品とまわりの空間がセットになった感覚体験の

 〈相互異質性〉 を 違和感なく内面に共存させてしまう役割をはたして

いることに気づく。

 

そういう 「空間性と共にある プロセス的な作品対話」 というものは、

「断片としての写真の並置」 から受ける印象とはかけ離れたもの

であることを踏まえつつも、あえて 筆者が撮影した写真を以下に

掲載してみたいと思う。

(→ 写真をクリックすると拡大写真が見れます)

 

 

 

 

 

               ギャラリー空間

 

 

 

 

   〈刻を落下する花の発光〉

 

左側の写真の額は、生命的自然との日常の対話からうまれる

作家の感興を トレーシングペーパーの向こう側に昇化させた

肩ひじはらぬ微音的世界を、白壁にそっと凹部をつくって

さりげなく飾れたら… というイメージで 筆者がデザインしたもの。

額の 「額然とした様相」 を限りなく消して、簡素化してみた。

 

 

 

 

 

 〈光を通過する風のゆらぎ〉      〈風の成す形〉

 

和室の奥の屏風の前の暗がりの中に、一点、静寂の灯りが

ともされ、その上に、透光性の作品が置かれた。

ここは、展覧会場の一番奥の位置にあたるので、いろいろ作品に

接したその最後に、観者は この美しい透光の世界に 沈潜する…

この透光作品をみて、作家が表現したい世界がすっと

つかめた ―― と感想を話していたアーティストもいた。

なお、ライトボックスは、筆者が 10年程前に AZAMINO house

 のためにデザインしたムーバブルワゴンを転用したもの。

→ 本ホームページ Furniture のところに掲載

 

 

 

       

         〈海〉

 

 

 

 

写真:筆者撮影

 

紙のオブジェ | 畑龍徳作品

美 ○ 創造

 

友人のアーティストから個展への協力を依頼され、それがきっかけで

このたび、紙のオブジェを二種類制作することになった。

 

紙の 「ペラペラな感じ」 を生かして、紙ならではの造形をしたい…

これが、終始こだわりつづけた造形指針。

 

 

 

その展覧会は、《 異形の庭 》 というタイトルがつけられた展覧会で、

「庭をもつ住宅空間とともにあるギャラリー」 という空間の特性と

共振させながら、

 《 詩性のことば 》 と 《 抽象アート表現 》 が相互に還流しつつ

多相的に生みだされた作品群が

それぞれの場所を得ながら 展示されている。

 

これは、女性作家である佐藤省さんが

作りためてきた 《 肩ひじはらぬ日常表現作品 》 をベースにして、

内面世界を、「日常空間性を有する展示空間」 へと重ねあわせを

行ってゆく――そういう 「展示を考えるプロセス自体」 が

アート創造行為になっている展覧会である。

 

実際に、作家は庭がとても好きで、そういう作家が、

庭と住宅とギャラリー空間――という多様性をもった展示空間

を相手に 展示の構想を練る… 

あるいは、床の間の軸物のあり方を テーマにそって異化すべく、

専門の他者に制作の協力を求める… 

そうした 「他者との縁」 もふくめて、

 《 間(あわい)の豊かさ 》 を体現したインスタレーション――

といってよいであろう。

 

 

 

ギャラリーの入り口のすぐ横の 緑が寄りそう窓辺に、

作家がことばを記した短冊を差した 《 ことばの家 》 を置いて、

七夕の日のオープニングの来廊者に

小さな荷札に 何かことばを自由に書いてもらうお返しに、

短冊を一本引いてもらい、おみやげとしてさしあげる。

そういう 「ことばの交換」 をたのしく介在する 《 ことばの家 》 なのだが、

その紙の家を 筆者が制作してさしあげた。

特殊な半透明の紙を用いて、《 紙独自の薄さがもつ美しさ 》 と、

《 折り目が生みだす端正さ 》 とを、表現してみたいと思った。

 

 

 

 

 

 

人の頭の中は いわば無限宇宙…

意識の動きとか、外部からの感覚の刺激に触発されて、

無意識無限宇宙から、時々刻々、断続的に、

ことばやイメージが送りだされてくる…

そんなことを考えながら、《 ことばを発する人間 》 を抽象するような感じで

《 ことばの家 》 を作ってみた。

 

 

 

 

 

 

 

七夕のオープニングでは、和室に配されたさまざまな作品たちと

共鳴するように 舞踏家の趙寿玉さんが純白の衣装をつけて、舞った。

 

 

…彷徨する光の鼓動の下 昼夜 見えない一瞬を揺らぎ

野天に気泡を結わえる一双の舟…

 

 

作家自身によるこの詩のことばに呼応させて、

床の間一面に敷かれた珊瑚砂の上に

――この珊瑚砂は、展覧会の直前に 作家がたまたま出会った

小浜島のアーティストが好意で送ってくれたもの――

一筋の墨の線が引かれたロール紙を納めた 《 ことばの舟 》 が 二艘…

 

その一艘を、寿玉さんが手にとり、ロール紙を引き出して、線を読み、

メッセージを七夕の天空に届けた…

 

この 《 ことばの舟 》 を、舞い人が手にとることを想像しながら、

厚手のトレーシングペーパーでつくってみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

佐藤 省  ― 異形の庭 ―

2013.7.7(日)~7.15(月) 12:00~18:00 (最終日16:00)

ギャラリー 水・土・木/みず・と・き

東京都練馬区小竹町1-44-1  TEL 3955-2508

西武池袋線「江古田駅」または副都心線「小竹向原駅」より徒歩

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

【追記】

 

この文章と写真を見た友人の新井九紀子さん(墨アーティスト) から

以下のすてきな感想が届いた。

七夕という、人が何かしらの記憶をもっている日に、床の間や庭のある画廊で

〈ことば〉 が紡がれた展覧会のオープニングがあったのは、素敵なことです。

〈ことばの家〉 や 〈ことばの舟〉 の かそけさは、観者それぞれの胸に、秘かに

郷愁を灯らせたことでしょう…

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

森に住む | 金子清美のインスタレーション

美 ○ 思索

 

 

生命の燃焼 …

 

そして、それと裏腹に

 

どこかさみしさが

 

セットになった 夏 …

 

 

 

もうすぐ 夏である …

 

 

 

比企の国際野外の表現展で

金子清美さんが、《 森に住む 》  というインスタレーション

を行ったことがある。

 

なんとも、夏という季節が生きたインスタレーションで

それは、日常の生活と感覚、夏の外向的気分といった

諸相が、ごくごく自然に重なり合いながら

アートの異化作用が味わい深く響いた

女性作家ならではのすてきな 《 生活 → アート表現 》

であった。

 

 

【インスタレーションの動画】 

 

□ Windows →

live in woods, 2007 Installation by Kiyomi Kaneko ©2007 Ryutocu Hata

 

□ 携帯電話・Mac →

live in woods, 2007 Installation by Kiyomi Kaneko ©2007 Ryutocu Hata 

 

 

 

 

 

 

場所は、住宅地に隣接する谷合いの公園の 森の中 …

 

 

中心の白いテーブル ( かつて私がデザインしたもの ) は

金子さんが自宅で実際に使ってこられた 《 生活の中の家具 》。

そのテーブルの上に、日常の生活で身近にあるものの中から

作家が独自の感覚でチョイスしたモノたちが並べられている。

 

それらは、いつもの日常空間から離され

公園の中の白いテーブルの上 ―― という特別の時空に

移行させられることで、

機能するものとしてのイメージの卑近性が薄らぎ

純粋に物質的存在としての 《 形の美しさ 》 が

立ち表われてくる …

 

周辺には、作家が愛猫に与えているキャットフードの空き缶を

白く塗ったものや、現場で採集した木の実を入れた瓶などが

あたかも以前から置き去りにされたふうに

堆積する枯葉のうえに点々と配されて

ふだん目にするふつうのモノたちが

ここでは、なんとも言いがたい響きをつたえてくる …

 

 

作家が生活の中で使用したり接しているモノたちには

他者には知ることのできない 作家の思いや情感が

ともなっているであろう。

そこには、作家の美意識も当然ながら混然と関わっていて

そうした背景の中から、外在表現としてのインスタレーションが

生まれてくる。

 

そして、その外在として独立した表現作品を

観者は観者で、勝手なしかたで感じている …

 

でも、作家の世界と観者の世界は、大きく あるは 微妙に

異なるからこそ 《 共振のよろこび 》 が生成してくる、とも言え

そこには、同質とか異質とか 簡単なことばには還元できない

微妙な関係が存在しているといえよう …

 

 

夏という季節が、人をして、ある気分に導いている …

屋外でのインスタレーションは、そういう季節のムードが

人間同士を近づける契機として生かされて

より深い響きをかもしうる可能性をもつ。

 

 

 

 

*ビデオ撮影・編集:筆者

 

金子さんのwebsite  → http://www.kiyomi-k.info/

 

 

相澤秀人 個展 | Mineral autonomous

美 ○ 会う

 

 

まとまった空間ボリュームを有するギャラリーの壁に、

その壁と共生するように白い直方体と 垂直の細い木地の角棒とが

いろいろ変化して絡まった作品が点々とならび、

床にはなにやらゴロっと小さな塊の作品がふたつ置かれている…

 

 

 

 

個々の作品の「パッと見の、どうだ!」という顕示圧はなく、

カラッとしたシンプルさで、作品と空間性とが相まって

「独特の抽象性の響き」をかもしている。

それは、純粋な幾何学的形態と なにか機能する物体との中間に

あるようなゆらぐイメージの中にあって、

イメージ世界の認識座標としての範疇の辺縁部に位置する

〈ヌエ的領域〉 に属するもののようでもある。

素材の用い方に現代社会との脈絡をおのずととりこみつつ、

フォルムのありようは 「暗示のゆらぎ」 を含み、こちらの想像力を

刺激してくる。

これは、相澤秀人さんが 先ごろ四谷のギャラリーで見せてくれた

実験的な造形の印象だ。

 

相澤さんは、これまで合板などの規格木材を用いた抽象作品で知られた

人だが、今回は、一種類の規格材の 〈小角木材30×36〉 だけを使用して

作品を作っている。

その角材を集成したブロックと、そのブロックを貫通したり、支えたりして

いる (ように見える) 棒状の角材との取合わせのバリエーションで、

作品群が構成されている。

ブロックと貫通材 (あるいは支持材) との相互関係は可変で、

個々の作品のあり方とレイアウトの作品相互のバランスを決めるときに

その可変性が生かされたのであろう。

結果的に、それが決まるところに決まる ―― この単純な可変項の存在は、

微妙なユニークさをもっている。

 

集成ブロックの方は、木地がうっすら浮きあがる程度に白く塗られていて、

それによって直方体は白い壁面に融和し、かさばり感、重量感が

抑制されている。 

その白いボリュームの下側の壁面には 複雑な淡い陰影が寄りそい、

上側の壁面には ブロックの白い上面が生みだす 〈リフレクション〉 が

ほのかに見える。

ブロックに対してとても細く見える棒状の角材は木地のままで、

貫通する (あるいは重力に抗して支える) 垂直ラインとして強調されている。

これによって、表現体のふたつの基本要素が独自のメリハリを得ているのだが、

ブロックのボリューム感をあえて抑制するように白色塗装をしているところが、

この作品のかなめになっているように感じた。

 

集成ブロックの量塊性と貫通 (支持) 体の繊細さとの極端に不安定な対比は、

この作品のフォルムを特色化する魅力であるが、

その対比に、ブロックを白く塗装するという 〈量塊抑制〉 を加えることで、

作品の突出した性状のいわば直線的感受を迂回させ、

見る側の想像力をそれとなくゆっくりと作動させることになる。 

パッと見の刺激の強度ではなく、

じんわりと広がる 「暗示的で、ゆるい世界のゆたかさ」 …

見る側の意識の中に、焦点を安易に結ばせることをしないで、

そのスキマにひろく日常時空の意識/無意識を引きこみながら、

フォルム構成の美的な滋味感覚と、たゆたう想像力喚起の波動との間を、

往還させられてしまう…

 

 

これは、もしかして、

「垂直的思考・行動が特徴の男性世界」 と、

「自己享受的で泰然とした女性世界」 との

関係性のユーモアなのか?

あるいは、「それぞれの異質性が生かされた組み合わせによってこそ

生成される何ものか」 を暗示しているのか?

そんなふうに、頭の中をとりとめのない連想がよぎっていく…

 

近すぎたり、あたりまえ化の中で、かえって意識されないこと ――

作品は、そういうことも想像させた。

たとえば、われわれが逃れられないもっとも身近の作用であるにもかかわらず、

日常ほとんど無意識化されている 〈重力の作用と垂直性〉 のこと…

さらに、

手を動かして造形することをすっかり遠くへ追いやってしまった

機械生産一辺倒の時代にあって、

日曜大工をする人ならばDIYセンターで目にしているであろう

工業生産品の小角木材を用い、それを手ノコで加工する ――

という方法が、作品の形に微妙なゆらぎをもたらしてあたたかみを感じさせる。 

そういう、工業生産品に象徴される時代性と 人の手による加工という行為の

からみあいで 表現体を形づくるということ ――

これはつまり、〈機械化〉 と 〈人間の手〉 という相反相補的な

根源的モーメントとの接点をもつ 〈詩的な行為〉 にもなっている…

 

 

 

 

床と作品との本格的な呼応関係についてはこれから展開したいテーマ ――

そう、相澤さんは語っていたが、今回、床に置かれていたふたつのオブジェは、

壁面に張り付いた作品の残材から生まれたもので、

ふたつのオブジェは、ひとつのブロックをふたつに切断した片割れをもとにして

作られている。 

そのようにさまざまなレベルで、視界に存在するものの間の

〈隠れた関係性〉 が意識されている。

 

 

 

 

 

相澤さんの作品は、ひかえめな存在感であたたかみを感じさせ、

見る側は 自分のペースで

全体を眺めたり… 集成ブロックの小口の表情を見入ったり…

ゆったり味わいながら いろいろイメージし、たのしい…

展覧会の印象を文章化する作業は結構むずかしく、

読まれる方は、なにかとても難解な作品のように思われてしまうかも

しれないが、実際はまったくそういうことはない。

聞いた話だが、たまたまギャラリーに入ってきた男性が、椅子にかけながら、

「ここは休まるな…」 とつぶやいたそうだが、相澤ワールドはそういう性格を

もったやわらかな世界だ。

 

 

 

 

 

 

写真:筆者撮影

 

写真集 something unlimited |畑龍徳 ギャラリー悠玄で販売

お知らせ

 

昨年、ギャラリー悠玄で開催された100人展に something unlimited

というタイトルの写真集を出品しましたが  (→ 2012/10/25 付ブログ)、

これがご縁で、このたび 同ギャラリーでその写真集を販売していただく

ことになりました。

 

DMによる宣伝もしていただけるとのことで、大変ありがたく思っています。

 

 

 

 

 

 

 

ギャラリー悠玄は、銀座の泰明小学校のすぐ近く という大変便利な場所

にありますので、そちらで写真集を実際にお手にとってご確認ください。

 

写真集に関するお問い合わせは、同ギャラリーの佐藤さん宛にお願い

いたします。

 

ギャラリー悠玄 TEL 03-3572-2526  ( 担当 : 佐藤 )

11:00AM~7:00PM  不定休

東京都中央区銀座6-3-17 悠玄ビル

 

 

写真集 something unlimited    写真・文 : 畑 龍徳  1,260円 (税込)

 

http://www.gallery-yougen.com/cgi-bin/gallery-yougenHP/sitemaker.cgi?mode=page&page=page2&category=1

 

 

開かれている状態 | CAFE トワトワトが考えさせたこと

美 ○ 思索

 

 

 

 

 

アート作品は、通常は、作品単体として 完結的にまとめられた

ものとして創作される。 

そして、その作品が具体的な場に置かれる段階で、作品とまわり

の環境との間の関係性の問題をつきつけられる。

作家は、自分が想定した 〈 閉じた世界 ) の中で、完結している

がゆえにもたらされるある種の力を 純粋に トライする。 

でも、現実には、作品という完結体が完全に孤立状態で存在する

ことはできない。

 

美術館やギャラリーの白い壁面は、作品と環境との関係性を

もっとも単純化して 作品の違いを超えて作品を良くみせる無難な

方法だ。

作品にもよるが、作品が本当に生かされる環境は白い壁面では

ないかもしれないし、そもそも、作品と環境のもつ特性との相互

関係を調整する中に 相互の響き合いの可能性が開かれてくる。

それに、本当に作品を味わう ということからすれば、美術館で

つぎからつぎへと作品と真面目に向き合うことは 「効率的」では

あるかもしれないが、よい方法というわけでは 決してない。

楽しむどころか、くたびれはてて美術館をあとにする ということ

にもなりかねない。

作品を味わうためには、観者側の心身の状態がよい状態にある

という前提こそが大切だ。

 

 

私のHPの建築作品の中に、アートウォールというのがでてくるが、

それは、空間づくりのために 空間と完全に融和したアートをトライ

した事例だ。

しかも、そのアートウォールは、住宅の居間と企業の接客ラウンジ

に設置されているので、美術館ではどうしても堅い真面目さに陥っ

てしまいがちな日本人も、リラックスしたふつうの感じでアートの

かもすやわらいだ雰囲気に心地よくひたってくれることであろう。

 

また、私は、仕事をしているときの環境としては、ニュートラルを

好む。 しかも、リラックスできて 気持のよいニュートラル…

だから、アピール性の強いアートは、それが好みのものであっても、

アトリエの中には置かないことにしている。

仕事に没頭しているときは、まわりの世界云々は関係なくなるが、

でも、感覚はつねに動いているし、環境からの無意識レベルの

影響のことも考えると、やはり、ニュートラルにおちつく。

 

 

 

 

 

カフェの空間には昔からつよく関心をもってきた。

カフェの数と 質の高いカフェの存在は、そのまちの ある意味

総合的な文化水準を表しているのではないか とさえ思う。

 

 

 

数日前、CAFE トワトワトを再訪した。 がっちりとした木製のテー

ブルに席をきめて… ゆっくりあたりを見まわすと、前回ずいぶん

と念入りに細部まで楽しんだはずなのに、またあらたに新鮮な

ものが目にはいってきて感動してしまう…

 

 

カフェは、そこを利用する側が自分の好みで選べるから、店の外観

はともかく、インテリアについては それをつくる側が思いきって個性

を発揮しても公的になんら問題はない という性格をもっている。

 

「インテリアの個性」 と 「落ちつけるかどうか」 という二つの条件

に着目してみると、モダーンさを意識してデザインをがんばった

空間は、えてして落ちつけないことが多い。

いっぽう、触覚的視覚にあたたかみをもたらすインテリアの仕上げ

や家具があり、「このデザインはどうだ!」 といったおしつけがまし

いのとはちがう抑制されたデザインのものであれば、概して、落ち

つける雰囲気になる。

 

しかし、落ちつけるのはいいとしても、陳腐なのはつまらない。

やはり、個性を楽しめて、かつ、落ちつける というのが グッド…

 

 

トワトワトは、〈 古び 〉 というプロセスが 個物の様相を控えめ化し、

個物のかつての用途や意味性を希薄化して、微妙なテイストの

ささやきをもった個物に変化したものたちを、店主のたぐいまれな

る感覚がチョイスし、ストレートな直感でそれらを組み合わせる

ことで  〈 個物相互の共鳴 〉 をゆたかに実現している――そんな

くつろぎの空間だ。

そこは、個性のおもしろさにあふれているが、でも、あくまでも、

控えめ…  だから、気持ちがよい。

 

 

 

 

 

建築は、素材というものを さまざまな条件や機能を満たすように

組みあげてゆく。

条件とか機能という前提があるがゆえに、それまでは存在しなか

ったような思いきった形体、あるいはヘンテコでさえあるユニーク

な形体が、正当な理由をもって創造されうる。 エッフェル塔の例

をもちだすまでもなく、生みだされたときはヘンテコあるいは醜悪

なものとして受けとられるものであっても、時間の経過の中で、

馴染まれた存在になって、美しいものとして一般に受けいれられ

るようになってゆくこともある。

 

素材から組み立てる建築とはちがって、かつて生活の身辺で使用

されていたモノという 「すでに独自の機能をもった個物」 として成立

したものたちをチョイスし、組み合わせてスペースづくりをしている

トワトワトのようなケースは、〈 全的な個物のささやき 〉 という力を

生かしている。 

そこには、人間の活動を受け止めるベースづくりとしての建築デザ

インという骨格形成行為ではカバーできない種類の 「イマジネーシ

ョンをあいまいに刺激してくれる心地よさ」 が存在している。

 

 

*写真は CAFE トワトワト (筆者撮影)

 

静止とスローモーションの無限性 | 趙寿玉の幽玄

美 ○ 会う

 

なにか自分自身が融けていくような そんないとしさを感じさせる――

( かそけき美 ) のひととき…

 

毎年一回 銀座のギャラリーで、最高の舞い人と創造的な舞台のしつらえ

による総合アートを ぜいたくに体験できる稀有なチャンスがあり、

私は、そのこじんまりとした深遠なる舞台を毎回のがさずみてきた。

舞い人は同じなのだが、意想外な演出の舞に 毎回引きこまれてしまう。

 

ギャラリーの空間は古く、その様態は整然からは遠いものなのだが、

それが、いわゆるこぎれいにまとめられたモダンスペースには

欠落しがちな ( 独特のゆるい空気 ) をかもしている。

整理されていない空間の出っぱり引っこみが、空間演出の陰影の中で

思わぬプラスのゆらぎをあたえ、うつくしい…

 

この総合アートの核には 作家でもある女性プロデューサーがいて、

その人の眼と創造の熱が ほかの才能を引きよせる。 

 

魂が 魂を 選んでいる…

 

 

 

舞い人は、静止することのゆたかさをうつくしく体現することのできる

魂と肉体の才女で、

その人はかつて 「静止している時は、体がきわめてはげしく働いている…」

と話していた。

もっともっと留まっていたい、でも体がもたない――そのぎりぎりのところで、

( 静の無限性のゆたかさ ) への愛が 燃焼する。

 

 

 

 

 

 

 

この12/17に行われた公演 「白い闇」 は4周年目にあたるが、

その舞台には、空間オブジェと映像の制作で女性作家2人が参加した。

しかも 2人とも今回初めての参加だ。

プロデューサーをふくめ、全員女性…

 

 

全体の舞台の組み上げがどのようになされたのか?

 

まず、プロデューサーがさまざまな音源をチョイスして、音響技術の

担当者(この人は男性)といっしょに40分の長さの音づくりをする。

その創音データを、舞い人、映像作家、空間オブジェ制作者に送り、

それぞれがそこから湧いたイメージでのびのびと創作をする。

そして、本番直前に、全員が集まって調整をしたという。

 

舞い人やほかの作家のことを、プロデューサーは深いところで直感的に

把握しており、信頼している。 

だから、舞い人や協力作家のもつ創造世界の質が相互に共鳴する

人たちによる創造世界なのだ。

そこには、プロデューサーのつくった音というやわらかい基軸が

まずあって、それがたとえば 「循環する水」 といったイメージ (実際の

基調イメージは多重的で詩的複雑さをもったものだが…) とともに

参加アーティストたちの間で共有されるが、あとは、それぞれの個性的な

創造のジャンプが展開されて、全体としてしっくりとした基調の空気を

もちつつも、しかし、まさに意想外の世界が相互に融け合ったうつくしい

静寂の世界が生成されていく…

舞いは、かならずしもリハーサル通りではなくて、即興が入る。

 

 

 

 

 

 

 

この公演は、再演されることはない。

 

プロデューサーと参加アーティストが声をかけた関係者50人ほど

 (空間の大きさからこの人数が限度) を観客とする。

 

まさにぜいたくの極みの時間…

 

 

 

クリエイティブな魂が

 

うつくしく融解しあう

 

人生でただ一回の

 

出来事としての

 

ぜいたくな

 

静寂のとき …

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

「白い闇」/季節を舞う  2012.12.17

 

演出・サウンド : 佐藤 省  舞踏 : 趙 寿玉  空間オブジェ : 田尻 幸子

映像 : 小川 真理  音響技術 : 安本 尚平

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

写真:筆者撮影 

 

手づくりの空間 | 水眠亭とCAFE トワトワト

美 ○ 会う

 

最近 手づくり空間の魅力的な事例に たてつづけにふたつ出会った。

ひとつは 男性がつくったもので、もうひとつは女性の手になるものだ。

 

 

ごく一般的には、男性は、自分の世界にのめりこんでマニアックに

モノや世界を追求し構築する傾向がつよい。

それは、身近な生活の質との関わりよりも、むしろ 「何かむこうの

抽象的な世界」 へのあこがれ(男性的な夢)や追求… 

そして、それにのめりこんでゆくモノトラック性… 

これにたいして 女性は、身近な生活のディテールにひろく関心をもち

それを楽しんでゆく傾向がつよい。

それは、「自己自身のすてきさの意識」 を核にして、生活にまつわる

多様なすてきなる世界への つよい関心(女性的な夢)と行動…

 

生活領域に視点をおけば、女性は 「夢半分、現実半分」 の感じで生き

視野にはいる多様な世界を マルチチャンネル的にあじわってゆく…

これにたいして、男性は、もっぱら仕事にかかわっているうちに 生活

領域のゆたかさをエンジョイする具体の行動からはなれてしまい、

知らぬまに それをたのしむ意識や美学を失いがち…

 

 

 

ところで、今回たまたま出会ったすてきな空間は、男性がつくったのは

住宅で、女性のほうはミニカフェ。 いずれも生活領域の空間だ。

 

 

蛍が生息するという清流に面してひっそりと建つ木造家屋は、じつに

百年以上の歴史をもち、これを、くみとり式トイレを浄化槽方式にする

工事や入りやすいオリジナルの五右衛門風呂をつくることをふくめて

すべての住宅改造を自らの手でやり… 緑深き清流を感じ、暗がりの

生きる独特の空間に仕立てあげてしまった… 

その 〈川の気に包まれた空間〉 は、山崎史朗さんの手になる水眠亭。

彫金をやり、めくるめく万華鏡や茶杓などをつくり、また ベ―シストで

あり、俳人でもある山崎さんは、手打ち蕎麦の名人でもあり、蕎麦は

もちろんだが蕎麦がきにいたってはお菓子のようで うなってしまうほど

おいしい…

自らが求めるものを ぶれることなく実行してきたまさに逸人だ。

串川沿いのその手づくり空間は、「自然態の快」 といったようなものを

実現していて、そこここに山崎さんの眼にかなった上質なモノたちが

しずかにくつろいでいる その 〈部分部分の世界〉 を 目のうつろいに

まかせて ただ たのしんでいる自分…

湯船につかったときのように自分が時空に浸っていて、目と耳と肌

が ここちよく 〈時空の変化〉 をたのしんでいる…

 

暖炉のすぐ近くの椅子にかけて 〈寒気の中の暖〉 をありがたく思い

キャパっシティのおおきなスピーカーから流れる張りのあるクリアな

サウンドにつつまれながら 目は 室内の部分部分を味わい そして

自由に移ろい… 背景に 川の流れの音が 聞こえたり消えたり…

川の緑が正面の窓ごしにたっぷり見えて 夜になると 落葉をのせた

一枚ガラスの天窓から煌煌とかがやくまんまるい月が見えた…

 

 

この空間は、時間をかけて絵を描くように手づくりされたコラージュ

作品であり、そこには、人の手が生みだしたものと自然、そして、

視覚と聴覚と温度感覚のここちよい変化があって、全体が 〈丸い

時間的宇宙〉 になっている。

人の手が生みだしたものといっても、それは、山崎さんの作品で

あったり、山崎さんの眼が選んだものであり、気やすく購入した

ものではけっしてない、ということ…

部屋の片隅に、日本でつくられた最初期のピアノが置かれている

が、ベ―シストの山崎さんは ここでよく仲間とライブをやっている。

そういう音の世界に、手打ち蕎麦をはじめとする自前の料理…

こうなると、もう、空間にゆったりひたって ただ 会話をたのしむ

だけ…

 

 

                                                 

 

 

 

 

 

女性が手づくりしたミニカフェのほうは、店主の沖田悦子さんの

とにかくこまやかなセンスが隅々までゆきとどいた空間だ。

塗装はフラットに仕上げたきれいさではなくて、不均一な表情の

味わいであり、家具類は 古びの美をもったものがそろえられて、

それぞれが異なったデザインである。

空間のそこここにさりげなく配された無数の味わいある小物たちは、

ただ置かれているのではなくて、空間や光との関係の中で独自の

位置をあたえられ、その詩的なひびきを奏でている。

ふと見ると、一隅にかれんな野花がしずかにおかれていたりして…

それらの配置は、計算された…というよりも、直感的なきめかたの

強さを秘めているように感じられた。

CAFE トワトワト という名称は、やわらかで軽やかなひびきをもって

いるが、それはアイヌ語で 「きつねの気配」 を意味するとのこと。

ガラスコップで出された水は、じつはお冷ではなく、お湯だった。

空間づくりと その他の面のこだわりや創造性が、一貫している。

 

 

 

 

 

 

 

 

低彩度な世界や、材質の時間的渋変の中に生成する味のある表情は、

ひとにやすらぎを感じさせ、異質的なもの同士を調和共存させる性質を

もつ。

そうした性質が生かされた空間としてふたつの事例は共通性をもつが、

水眠亭の方は ただただ浸る 〈まるい時空〉。 

これにたいして、トワトワトの方は、構成要素がどちらかといえば抽象的

な性格を有していて、つまり、かつて用途をもっていた 〈ごく身近なアイ

テム〉 で空間が構成されていて、 見る側がかってにふわっとした物語を

想像することはあっても、そこには 高価なアンティーク類にみられるよう

な強い象徴性はなく、だから、そうした部分要素の稠密な構成が、写真

の中でこそ可能な 〈魅力的構成〉 を遊ばせてくれるところがあった。

 

 

 

*写真はいずれも CAFEトワトワト (筆者撮影) 

 なお トワトワトは 2014年7月に営業を終了しています。

 

 

写真集 something unlimited |ギャラリー悠玄展での反応

美 ○ 会う

 

 「これは!」 という対象に出会ったときにカメラを向けて、フレーミング

をはじめとする 《 写真のもつ異化力 》 をたのしむ ――

そこにあるのは、対象が発する直覚的魅力を定着する というような

単純な意識ではない。

 

そうして撮りだめしてきたノンジャンルの写真の中から、

「飽きないテイストを発散するもの」 を自分なりに選りすぐり、

それをさらに、テーマ性というくくりで編集するのではなく、

異質な写真世界をあえて並置することで生成される 「微妙な共鳴」 を、

見出してゆく遊び…

そうして構成された30ページほどのフォトブックに対して、どちらかというと

派手なところのない写真世界に対して、はたして他者がどのような反応を

示してくれるのか?

 

過日、150人の作家が参加した美術展に、そのフォトブックを出品した。

12日間の会期中 私自身毎日会場に足を運んだことで、アーティストや

一般の方々のそれこそ個性的な反応を聞かせていただくことができた。

大変おもしろい体験をした。

 写真は他のアートにくらべてわかりやすいところがあるので、興味を

もってくれれば その印象をすなおに言葉にして聞かせてくれる。

 

 

 

この写真は、加藤哲さんのインスタレーションを撮影したもの。

まるで、エッチングのようだ ―― と評してくれた人もいる。

《 坐れない椅子の羅列 2009 》 巷房・2

 

 

 

ここには、すべてがある! 男女、年齢に関係なく、ここにすべてがある!

いうなれば… A to Z…

自分も、仕事(美容師)で、A to Z をめざしてやってきた… 

 

こう評してくれたのは、美容室を経営されているMさん(男性)。

この言葉には、写真集を媒介に、Mさんの美意識の強度を伝えてくれて

いるところがあり、「感じたことの言葉化」 ということが それ自体 美意識

に深く根ざした「真摯な創造行為」であることを感じさせ、うれしかった! 

 

 

貴重な空間の広がる写真集…

ひとつひとつがいとおしくなるような、

まさに(写真集の)巻頭にある言葉の通り… 

 

と、感想を送ってくれたのは、アートに造詣が深い旧友のS君。 

 

 

「写真集というより アートの感じ」 ―― こう評してくれたのはギャラリーの

オーナーであるGさん(女性)。

ひとこと 「美しい写真!」 と言ってくれて、そこにかえって言葉の重みを

感じさせてくれたのは 少女の魂を描き続けるイラストレーターのAさん

(女性)。 

写真全体に 清涼感がある、と評してくれたアーティスト(女性)もいた。

 

その人の創造世界を作品などを通して知っていれば、そのひとの発する

ことばには おのずと独自の響きが加わり、手ごたえを感じさせてくれる。

 

 

個々の写真に関しては、それこそ個性的な反応があってたのしかったが、

写真集の中に タイトルをつけるとすれば 「忘れられた夏の場所」 という

のがいいかな と思っている写真があって、それは避暑地の夏の光を反射

させている窓をもった静かなたたずまいの物置小屋の写真なのだが、

その明るい雲が写り込んだ白いガラス窓の風景に、

「空(そら)が住んでいる家みたい…」 と

詩的な表現をプレゼントしてくれた作家(女性)もいた。

 

 

写真集全体をとおして、反応が比較的集中する写真があり、それは

それで、うれしいものがあった。

しかし、感受世界はそれぞれの人間でそれこそ多様であり、ひとつとして

同じ内的宇宙は存在しないのだから、「個別の微妙なる世界」 こそを大切

にして その感受をたのしんでゆくことを人生上のポイントとするのならば、

感受のあり方は それぞれでよいのだ!

 

写真集の中に、ルイス・カーンというひとが設計したキンベル美術館の

外構の写真が1枚入っているのだが、展覧会の開催中に、この写真に

反応したひとは 実は一人もいなかった…(笑)

その写真に写っているのは、両側を打ち放しコンクリート壁で仕上げて

空間を端正にアーティキュレートしたまっすぐな園路で、やわらかな表情

をした自然石平板のステップと 沈んだ色合いの豆砂利洗い出しの平場

など、相互の取り合わせがじつに丁寧で、その全体が、木々の緑という

複雑系とともに うつくしく共鳴しあっている…

専門家の眼は、そういうところに感動してしまうのだが、それは専門家の

位置がそうさせている ――  ということだ。

 

 

アートの創造は、自身を問いつづける孤独な営為…

作者の熱が生みだした作品が 他者の〈共鳴〉を誘う…

そして、その〈共鳴〉は、多様そのもの…

〈共鳴〉の強度という点で たしかに普遍性の有る無しは存在し、

その中味はというと それは感受した人間によってさまざまであるが、

いずれにしても、〈他者の共鳴〉 は単純にうれしい!

他者の共鳴が言葉で伝えられ、作者自身が記憶の隅に追いやって

しまっていたがゆえに生じる虚をつくような指摘の感動があり、

ときには、まったく気づかなかったことを気づかされることもある。 

 

自分で生み出した世界は、自分自身よりも、他者こそがエンジョイして

いるところがあり、他者の共鳴の言葉は、そのことが暗示されている

よろこびでもあろう。

 

 

美しいインスタレーション | 藤井龍徳の開かれた世界観

美 ○ 会う

 

アーティストが環境をえらび、そこで作品を制作する… その結果、環境と

作品が共鳴しあって独自の響きが生成される。 これがインスタレーション

のおもしろさだが、実際は、この作品と環境の共鳴というところがむずかし

く、作品が中途半端に浮いてしまっているケースをよく見かける。

 

数日前の秋晴れの日に、すばらしいインスタレーションをみた。

友人の藤井龍徳さんの作品で、今回はどんなものを作ったのかまったく

知らない状態で我孫子の布佐を訪ね、で、人影のまったくない住宅地を

歩き、すこし道にまよって丘の上に小学校を発見… 目指す公園が脇の

雑木林をくだった先にあることをおしえてもらった。

 

木漏れ日のゆれる林をくだったところで、木々の先に、明るい緑の空間

がひらけ、そこに… ぱっと目をひくかたちで それはあった…

 

一段低くなったところに細長い緑地がのびのびときもちよくつづいていて

そこを ただただ さわやかに 風が吹きぬけてゆく…

 

ゆるやかなカーブをえがく麻のロープに 無数の帯状の白布がつるされて

風の息とともに 光の陰影模様をきらきらとえがいている…

 

おだやかな 静寂 ……

 

 

 

 

 

 

 

 人の手によって構成された存在なのに、まわりの緑と 雲を浮かべる空の

たたずまいに 動的に完全融和 ―― そんな印象である。

肌に風をうけながら… なにかなつかしいようなにおいをただよわせて…

 

それは、無意識下のさまざまな記憶らしきものが、その輪郭があいまいな

ままに 微音をひびかせている…とでもいうような感覚か…

光の神々しさ…  いや、物干し台で陽光をまばゆく反射していた洗濯物

をただ幸せ感の中で見上げていた幼少時の記憶と重なっているのか?

 

環境とともにあるこういう動的融和はまったく写真にはならない、という

ことをあらためてつよく感じた。 現場体感こそが 文字どおり全的な力…

写真による異化された映像は、それ独自のテイストを発散しているが…

 

 

白布は、廃棄されたシーツを裁断したものを使用していて、ベッドの上

の夢を 天にむかって解放していきたい… そんな気持ちがこめられて

いる、と秋の光のもとで作家はおだやかに語っていた…

 

 

 

 

 

【追記】

 

藤井さんは、人間がふだんまったく感知していないもの、あるいは、

あいまいにしか意識していないようなもの、に一貫して関心をもち、

それをイマジネーション連鎖の基点として作品づくりをしてきた作家だ。

2011年の原発事故よりずっと以前から、《宇宙放射線》 に着目した作品を

作ってきた。

ここに掲載したインスタレーションには、『Abiko Weather Station 2012』 という

タイトルがつけられていたが、一年ちょっと前に、その怖さを五感が感知できない

という、そういう 《風》 が北からやってきた…

記憶に生々しいそのなんともイヤな感じというものを、

いま目の前で白布をたなびかせている 《風》 が、こんなにも爽やかに感じられ、

美しい光景を見せてくれているのに…   なのに、どうして…… 

という気持ちとして、対照的に、寡黙に、伝えているところがあった。

 

 

 

 

 

 

気持ちに余裕のあるときに、そのありがたさをつくづくと感じることがある

《爽やかな風》 とか、《ゆたかな風景》 とか、《雑音のない静寂》 とか…

いわば、「ふつうの、おおらかな、大切なものたち」 …

藤井さんのインスタレーションは、そうしたものの大切さを訴求してくる

《介在性の美》 ―― でもあり、

インスタレーションならではの 「作品とまわりの環境との交絡の響き」 が

きわだつ直覚美に隠れて、それとなく、密実に、生成されている。

 

 

 

写真:筆者撮影 

 

写真集 something unlimited | 飽きない写真…そのささやき

お知らせ

 

これ見よがしではない 《自然な感じ》 であるけれど

単に自然な様態というのでもなく―  

そうかといって シンプル化が 《平板》 に帰結してしまったようなものでもなく

《ゆらぎ》 のなかにつかめない性質を示すもの―

あるいは、多様な要素の混成でありながら

部分が突出することなく、《全体の調和》 をなしているもの―  

そんな特性を具備しつつ 「それ独自のいわくいいがたい魅力を伝えてくるもの」

に めったにはないのだが出会うことがある・・・
 

2000年にニューヨークに滞在したおりに デジタルカメラを使いはじめたが

それ以来 撮りだめてきた写真の中から

自分にとって 《飽きのこないもの》 を選んでみた。 

そうして選定された写真を見ていて思ったことが 冒頭の文章である。

 

 

個々の写真についてはそういうことなのだが、それらの写真は

風景あり、友人のアート作品あり、あるいは自分の作品あり…

と被写体は、さまざま。

そうした写真の中から、意想外なくみあわせを 直感をたよりに見出して

ページの見開きにレイアウトしてくれたのが

現代アート作家の金子清美さんである。

 

 

   

                   

                   鳥

 

一見 相互にまったく関係性をもたないような写真がレイアウトされて

いわば 《異質性の並置》 といったふうな構成になっているのだが

でも、そうした構成の中に

「無意識世界が関係しているかのような 《写真相互のほのかな響きあい》」

を感じ、たのしめると思う。

自分のこだわりの写真を、自分で編集して完結させるのではなく

他者の力による選定と構成で揺らし、あえてオープンにすること…
 

この写真集を 11月12日ー23日に開催される

「Message 100|おしゃべりなアート展」 (ギャラリー悠玄)

に出品します。 

ギャラリー悠玄 → http://www.gallery-yougen.com/

 

something unlimited

写真・文    畑 龍徳
本の構成  金子清美

2012.11.1 初版第1刷発行
発行所 あ~とルーム
A5版横 30ページ
定価 (本体1200円+税) 送料別 

 

問い合わせ先  : 筆者のメールアドレス  hata@ops.co.jp
購入申し込み先 : あ~とルーム (金子) st-3neko@agate.plala.or.jp

 

畑 龍徳の 新アトリエ | ホームページ 一新 | 初ブログ

お知らせ

 

昨年、12年いた北青山から、原宿の閑静な住宅地の中にある

マンションの一室にアトリエを移転しました。

 

アトリエの窓からは 直近のおおきな空き地の向こうに

古いビルのやわらかな風景が広がり、

透光性のスクリーンを下ろすと 室内が

光の繭(まゆ) のようになります。

 

今回のアトリエは コンパクトな空間ですが、

それを あえて

「空白」 を意識しながらデザインしました。

限定された空間の 「空白」 ――  というと、

お茶室を連想される方がいらっしゃるかもしれませんね …

 

空間が限定されていると かえっておもしろい面があります。

 

まずは、インテリア全体の 「視覚的な面での刺激レベル」 を

おさえたい、と思いました …

 

引っ越しのときに不要なモノの見きわめを徹底したとはいえ、

最小限に残したモノの量はやはりかなりのもので、

そうしたモノたちの 「効率のよい配置」 とせめぎあいをしながら …

デザインした真っ白な資料棚の一部に、

あえて 〈空き〉 をつくったり、

置かれるものを  〈透明感〉 や 〈ゆらぎ〉 のある

オブジェやアートなどに限定したり ――

 

こうして 「背景としての空間」 の感覚的強度を

意識的にコントロールしていきました。

 

 

 

 

 

 

ところで、2003年にはじめてアトリエのホームページを作ってから

長いことそのままにしてあったのですが、原宿に移ったのを機に、

このたびホームページを全面的にリニューアルしました。

 

ホームページのデザインは私が自分でやりました。

デザインの過程で、アトリエのパートナーの金子清美さんから

アドバイスをうけました。 

信頼できる感覚をもった他者のアドバイスはありがたいものです。

 

プログラミングは、友人の池麻耶さんが紹介してくれた

Webデザイナーの鈴木和夫さんが引きうけてくれました。

鈴木さんはすがすがしい感覚をもったデザイナー、という印象で、

鈴木さんと協働すれば なにか新しい世界にふみだせるかな ――

と、可能性にかけました。

 

池さんと鈴木さんに感謝の気持を表したいと思います。

 

鈴木さんの website     → http://ks-web-design.main.jp/
池さんの C- talk Club  → http://www.maja-ctc.com/